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2019年4月5日

ランウェイの美女は・・・


 部下の管理を生きがいとする上司に仕えるのは、とても大変だ。

 だが私の東南アジア赴任時に上司だったHさんは、部下を管理しようという気が、毛ほどもない人だった。

 支局長室のドアを開け放ち、いつもソファに大の字で寝ている。おもむろに起き上がったかと思えば、今度はパソコンで将棋のネット対局。

「カネがない」が口癖で、屋台で買う1本のトウモロコシが、彼のランチの定番だ。日が傾くと急にソワソワし始め、「じゃオレ帰るから」と言い残して、アジア最大の歓楽街の方角に消えていく。

 まだ5時前なんですけど・・・

 一度、ゴーゴーバーに連行された。ランウェイ上では半裸の美女たちが、腰をくねらせて踊る。そのひとりが舞台を降り、するりと私に身を寄せた。

 思わずボーっとなっていたら、BGMの大音響に負けないHさんのだみ声が飛んできた。「おいミヤサカ気をつけろ! そいつはオカマだ」

 Hさんのベトナム出張にお供した時のこと。「今度こそミヤサカに夜遊びを教えてやる」行きの飛行機の中から張り切っている。

 生まれてこの方、早寝こそこの世の楽しみとする私だが、今度ばかりは逃げられない。目的の「ドイモイ20年」取材も終わり、とうとう日が暮れた。

絶体絶命と観念したまさにその時、臨時ニュースが流れた。

「インドネシア・ジャワ島で大きな地震、津波も発生している模様」

「すぐ現地に向かいます」すかさず、空港行きのタクシーに飛び乗った。

 率先して私を送り出す職責のはずのHさん、なぜかとても残念そうだった。

 やがて帰国した私は会社を離れ、Hさんも定年退職。いつしか、年賀状のやり取りだけになった。先日、突然ケータイが鳴った。

例のだみ声で「元気か?来週そっちに行くから」。

何年ぶりかの再会。聞けばHさん、自宅を改造して書道教室と学習塾を開き、毎日子どもに教えているという。

「死んだオヤジに、本当は新聞記者でなく、書の道を究めて欲しかったと言われたのを思い出してね。相変わらずカネはないけど、精神生活はとても充実してるよ」。夫妻で俳句を詠み、ゴルフの腕も磨いている。

長くサラリーマンをすると、「○○会社の社員」というペルソナが体に染みついてしまいがちだ。Hさんは軽やかに転身した。

「Hさん、国際報道記者30年のハイライトはいつでしたか?」

「うん、アジアもアメリカもよかったけど、やっぱり最後の転勤で行った九州だな。何しろ週3でゴルフに行けたから。『今度東京から来たえらい人はゴルフの話しかしない』って、うわさになってたらしいぞ。ハハハハハ!」

たった1年半だが、Hさんの下でのびのび働けた日々が、私にとっては間違いなく、会社時代の黄金期。

そして今、「上司と部下」から解放され、のんびり話ができるのが嬉しい。


Dhalat, Vietnam

2018年2月10日

「だから、居場所が欲しかった」


「だから、居場所が欲しかった~バンコク、コールセンターで働く日本人」水谷竹秀著、集英社

 バンコクを舞台にしたノンフィクションを、スクムビットSoi16のアパートで読んだ。

 コールセンターで働く女性が「買春して現地男性の子を身ごもった」と告白する冒頭シーン。その舞台となった「ターミナル21」の灯りが、漆黒の窓外に見える。

 日本企業が経費節減のため、2004年からバンコクに設け始めたコールセンター。そこで働くオペレーターたちは30代半ば~40歳代。彼らの月給は約3万バーツ(10万円)だという。

 バンコクの安いアパートには、キッチンがついていない。タイ大戸屋の鮭塩焼き定食は310バーツ(1000円強)もする。屋台のタイ風炒飯やラーメンが、彼らの常食になる。

著者は「バンコクのコールセンターで働く人々は『海外ワーキングプア』だ」と指摘する。

 それでも、いま日本の地方都市で非正規労働者として働いても、月収15万円に満たない。さらに、日本で働く単身女性の3分の1が月収10万円以下という現実がある。

 物価水準の差を考えれば、「バンコクのコールセンターで働いた方が経済的にも精神的にも満たされる可能性が高い」。

 同感。

 さらに著者は「ビルやショッピングモールが次々と建設され、経済成長を続けるタイの首都バンコクと日本の地方都市の経済格差が狭まりつつある」と書く。私の感覚では、とっくに逆転している。

 日本の生きづらさは金銭面だけではない。取材中、著者はオペレーターに性的マイノリティーが多いことに気づく。

 日本で、同性愛者であることを家族に告白したある男性は、すぐ歯ブラシやコップを別の場所に移された。自分は女性として生きていきたい、とカミングアウトした別のオペレーターは、「もう田舎に帰ってこなくていいぞ」と父親に言われたという。

日本の男性同性愛者の自殺未遂は、異性愛者の5倍強。女性同性愛者は同2倍。彼らは言う。

「タイは昼間でも男同士が普通に手をつないで歩いている。誰も何も言わない」「タイが居心地いいのは、カトゥーイ(タイ語でニューハーフのこと)と言われてもある程度肯定されるから」「海外に出てきてからは心身ともに健康です」

 著者はエピローグにこう記している。

「心の優しい人間は、日本社会で生き続けるといつかは壊れてしまう。逆に壊れない方がおかしい。それほどまでに日本社会は病んでいるように私にも見える」

 取材した大半のオペレーターが、「もう日本に帰る気はない」と口にするという。

 この本を読んで、自分のタイ通いも彼ら同様、日本社会からの逃避なのだと改めて悟った。




2018年2月3日

大工さんが落ちてきた


 タイで会う予定のマツイさんに、羽田空港からメールを送る。

「明後日のランチ、タイ料理とビーガン料理とクレープ、何がいいですか?」

 すぐに返事がきた。

「もちろんミヤサカさんとお食事したいとは思っていますが・・・今回の件は本当に私ですか?」

タイに送ったつもりで、間違えて社会福祉協議会のマツイさんにメールを送っていた。しかも職場のアドレスに。

 社協のマツイさん、忙しいのにごめんなさい。穴があったら入りたい。



 その2日後、「バンコクの青山通り」ランスアン。白人客の多い一軒家レストランで、無事にタイ在住のマツイさんと会うことができた。

 彼女は勤めていた会社を辞めて、チェンマイのエイズ孤児施設でボランティアをしていた。その後、なんと施設近くに自分の家を建てて、暮らし始めた。

 最近、その家の屋根が外れて、盛大に雨が漏るようになった。地元の大工さんを呼ぶと、さっそく屋根に上がって修理を始めた。

 突然、何かが天井を突き破って落ちてきた。そして、部屋に置いてあった空のカメラバッグに着地した。大工さんだった。

「大丈夫そうでしたよ。鼻血が出てましたけど」

 マツイさんの本職はフォトグラファーである。カメラバッグに機材が入っていたら、大工さんも大事な商売道具も、タダでは済まなかった。そして何より、頭上に降ってこなくてよかった。

 お洒落なレストランはできても、やっぱりタイはタイ。予定調和が通じない国だ。この話を聞くだけでも、はるばる来た甲斐があった。

その後、屋根を分厚く改築したそうだ。

ボランティアを任期まで勤めた後、マツイさんはタイで写真の仕事を再開した。日本で13年働いて築いた人脈と、こちらで培った信用とで、仕事も軌道に乗りつつある。

最近、平日はバンコクに借りたアパートを拠点に働いて、週末はチェンマイの自宅で過ごす。毎週、バンコク~チェンマイ往復1400キロを飛行機で移動している。豪快なライフスタイルだ。

「こんなに働いて、何でお金が貯まらないんだろう・・・飛行機代のせいかな」と言って笑っていた。

チェンマイでは、日本語補習校で子どもたちを教えたり、畑で野菜を育てたりしているそうだ。

 海外で、フリーランスで生きる人に憧れる。マツイさんのこの突破力は、どこから来るんだろう? 北海道出身と聞いて、個人的には少し納得。いつも優柔不断で、何も決められない自分の対極にある人だと思った。


2018年1月20日

うつぶせ寝の人


 バンコク行きフライトを前に、羽田空港のANAラウンジで憩う。

 並んだソファがビジネスマンで埋まっている。日系航空会社のラウンジは、本当に「日本人・中年・男」比率が高い。それぞれ軽食をほおばりながら、無言でパソコンやスマホをいじっている。

私たち夫婦は異色の存在だ。

 それに2人が手にしているのは、エコノミーの搭乗券。しかもマイレージを使ったタダ券だ。

なぜ、こういう場違いな人間が紛れ込めるのか。話は10年前にさかのぼる。



その頃の私は出張続きで、3日に一度は飛行機に乗り、機内食で生きていた。バンコクをベースに働いていたので、タイ航空のマイレージが毎年「5万」と貯まった。

ある日、会社の同僚Tが訪ねて来た。旅行業務取扱管理者の資格を持つ彼に、「ANAのマイレージを貯めて一度上級会員になれば、あとは会費を払うだけで半永久的にラウンジを使えますよ」と教わった。

当時は、事件事故の現場に一刻も早く着くことが仕事だった。空港ラウンジにいても、CNNを見ながらいつも緊張していた。

今こうして、家族とゆったりラウンジですごす時間は格別だ。Tには感謝している。

 彼は「ぼくはうつぶせでしか寝られないから」と、ヒラ社員なのにビジネスクラスで出張していた。口八丁手八丁の彼にしてみれば、その程度の細工は造作ない事だったのだろう。

 私も、経理担当者との間に信頼関係を築き、同じくヒラ社員のくせにビジネスクラスで飛んでいた。経費精算を1年も溜め込む先輩がいたおかげだ。出張後にきちんと領収書を出すだけで、絶大な信用を得ることができた。

 一度、Tと同じ飛行機に乗り合わせた。彼は座席をフルフラットにして、本当にうつぶせ寝していた。

今でも、実に立派な後頭部をしている。



 その後しばらくして、リーマンショックが起きた。職場の海外拠点は軒並み閉鎖され、国外出張も極端に制限されるようになった。大らかだった会社の雰囲気は、跡形もなく吹き飛んでしまった。

「日本経済への影響はハチに刺された程度」。当時の財務大臣の言葉を、今でも苦々しく思い出す。



 この9月で、リーマンショックから10年になる。



2017年2月26日

やっぱり日本が一番?


「マレーシアとタイに行った」と話すと、「よくぞご無事で」と返される。

 金正男殺害事件の数日前に、クアラルンプール空港を通過した。人違いで美女に抱きつかれ、顔にVXを塗られる可能性もゼロではなかった。

そう考えれば、たしかに。

昨日、病院に送迎したSさんにも「よくぞご無事で」と言われた。彼女はかなり前、ツアーで訪れたパリで、ホテルの部屋からスーツケースを丸ごと盗まれたという。
「やっぱり日本が一番ね」というので、「当時は日本人が金持ちだったから。今は狙われることもないかも」と答えた。寂しそうな顔をした。

 外国は危ないから行きたくない、という人は多い。

以前、出張で泊まったカブールやムンバイのホテルには、その後テロリストが侵入し、銃撃戦で多くの犠牲者が出た。イスラマバードで滞在したホテルは1年後、爆弾を満載したトラックが突っ込み、全焼してしまった。

 アフガニスタンやパキスタンへは、そもそもテロ関連の取材で行ったので、これは想定の範囲内。

 でもここ数年、ブリュッセル空港やイスタンブール空港、パリのルーブル美術館でもテロが起きている。欧米もアジアも、先進国も新興国も、世界中どこで何があってもおかしくない。

それに比べて日本は、まだ治安が保たれている。それは、移民や難民をほとんど受け入れない、日本の閉鎖性がもたらしている面がある。

多民族国家や、移民を受け入れてきた国にくらべると、日本の社会は均質。そして、とても排他的だ。安全である代わりに、居心地の悪さを感じることがある。

 あまりにも多様性のない社会がもたらす、閉塞感。

人はこうあるべきという、果てしない同調圧力。

電車で隣の人が何を考えているか、ある程度見えてしまう「一億総ムラ社会」。

 個人的にはかなり苦手な環境だ。

そんな日本を飛び出して、夫婦で通う「微笑みの国」タイ。学生時代に初めて訪れ、縁あって3年間、この国で働いたこともある。

首都バンコクは、世界中から人が集まるコスモポリスだ。高架鉄道や地下鉄に乗ると、隣がどこの国の人か、口を開くまでわからない。ゲイやオカマがごく自然に混じり、男女の区別さえあいまいだ。

多様性の極み。それが、たまらなく心地よい。

この街に暮らしていた時、クーデターが発生した。その後も治安が安定せず、時おり爆弾テロや銃撃戦が起きている。

 ニュースだけ聞くと危ない国だが、実際に訪れれば、街は平穏そのもの。事件は突発的、局地的に起こるので、備えようがない。

日本ほど安全でなくても、他者に寛容で、自由と希望を肌で感じるこの国が好きだ。もし事件に巻き込まれたら、その時はその時。運が悪かったと諦める。





2016年2月21日

預金通帳を食べられた


タイのATMから現金を引き出した時は、その場でお札の数を確認する。

 この用心深さ、インドで悪徳両替屋と対決していた頃の癖かもしれない。

 でも実際、こちらのATMの信頼度は、日本ほどではない。キャッシュカードを飲み込んだまま、返してくれないという話を聞く。

 恐怖である。

 自衛策として、街かどに設置されているATMは避け、銀行内のATMを使っている。トラブルがあった時、すぐ行員を呼べるからだ。

 今回チェンマイの両替商で、少しまとまった金額をバーツに替えた。

 現金は持ち歩きたくないので、一刻も早く銀行に預けたい。スーパーの入り口にATMを発見する。

近くに銀行は見当たらない。少し危険だが、ここに預けよう。

 ・・・でも不安だ。有り金を預けた後で、もしカードが出てこなかったら、身ぐるみはがれることになる。

 3台並ぶATMの右端は、通帳記入専用機だ。まず、このあたりで試してみよう。

 恐る恐る、通帳を挿入する。なかなか中に入らない。上下を逆にして、もう一度。ぎこちない動きで、通帳が飲み込まれていく。ウィーンという動作音。

 待つことしばし、画面に不吉な文字が浮かんだ。

Not in Service

 あとはキャンセルボタンを押しても、機械を叩いても、まったく反応なし。もとより非常用ボタンや、銀行直通インターホンの類は一切ない。

 絵にかいたような結果になった。

 隣のATMを使っていたタイ人に、銀行の電話番号を教えてもらった。ところが、何度かけてもつながらない。

 宿に戻り、フロントの女性に窮状を訴える。幸いこの時のホテルは、旅行者の面倒見がいいことで評判だった。私が部屋で待っている間に、代わりに何度も銀行に電話をかけ、そのつど状況を知らせてくれた。

「いま、担当者が食事に出ていると言っています」

「今日中に修理するのは難しいそうです」

「明日、口座を開設した支店に出向けば通帳を作り直すと言っています」

・・・やれやれ。

 女性にお礼を言いつつ、つい皮肉が口をついて出た。「こういうこと、しょっちゅうあるんでしょ」

 答えは、「No! You are lucky!」 だった。

 旅の途中で、支店に寄っている暇などない。今度は危険を冒してキャッシュカードを挿入し、残りを全額引き出した。

 タイを留守にしていた1年で3バーツ、利子がついていた。

 

2016年2月17日

チェンマイの家


 この冬も、タイ北部・チェンマイから車で30分ほどの郊外に滞在した。

ここには、6年前からお気に入りの家がある。会社時代は3泊するのが精いっぱいだったが、一昨年は8泊、昨年は9泊。今年は10泊してしまった。

木造2階建で、屋根は茅葺き。窓にガラスがなく、網戸だけなので風通し抜群。周囲を林と田んぼに囲まれ、夕方や夜明けは鳥たちの声がうるさいぐらいだ。

 この家は、エイズ孤児らを育てる日本のNGOの付属施設。それぞれ趣が異なる貸家が5棟あり、私が払う宿泊料はNGOの運営費として生かされる。
 他の滞在者と一緒に、施設を案内してもらった。大きなガジュマルの木を中心にした広い敷地に、子供たちの寮、図書室、縫製所、事務室などが点在する。現在、3歳から18歳までの30人が共同生活を送っている。

 建物の中から、幼児の泣き声が聞こえてきた。保母さんに薬を飲ませてもらっている。抗HIV薬はすごく苦いらしい。

開園後3年の間に、10人の子供たちが次々と命を落とした。治療法の進歩で、最近亡くなる子はいない。それでも、HIVに母子感染した子供たちは一生、薬を飲み続けなければならない。

部屋の掃除をしたり、食事を作ってくれるのは、施設を卒業した孤児や、先住タイヤイ族(シャン族)の若者たちだ。彼らはシャイで働きもの。その笑顔と、初々しくも一所懸命な様子を見ていると、いつも来てよかったと思う。

数人の日本人スタッフもいる。忙しそうな彼女たちが、実はボランティアだと聞いて驚いた。ビザの関係もあり、NGOが有給で日本人を雇うことは難しいようだ。それでも、希望者は多いという。

去年までここで働いていたSさんに、行きつけのクイッティオ(タイ式ラーメン)屋に案内して頂いた。彼女は、日本ではカメラマンとして働いていて、何となく私と経歴が似ている。

前の会社で大変な経験をして退職し、縁あってタイに渡った。カメラマン→タイでボランティア。2年がすぎた。これからどうするの? Sさんは、私のようなモラトリアム人間ではなかった。

現地の大学で1年間、タイ語を学ぶ。そして、チェンマイを拠点にバンコクにも出ながら、こちらで写真の仕事をするつもりだという。

「実はいま、近くに家を建てているんです。施設から独立した子たちの下宿にもなると思って」

すでに車を買ったとは聞いていたが、この思い切りの良さ。ボランティアの任期が終わっても帰国せず、生活の拠点をタイに移した人は、ほかに10人ほどもいるという。

報酬を気にせず働いているうちに、思わぬ出会いがあり、やがて自ら選択する機会が訪れる。Sさんの話を聞いて、自分はもう少し動き続けようと思った。

今年もチェンマイに来てよかった。



2016年2月12日

インパール遥かなり


 チェンマイ郊外の貸家に滞在し、高木俊朗「インパール」を読んでいる。

学生のころはアジアの安宿で、厳選して持ってきた数冊の文庫本を少しずつ読んだ。今は世界中どこにいようと、電子本をその場で買えるから便利だ。

 1944年、日本陸軍がミャンマーから国境を越え、遠くインド西部インパール攻略を企てた。行く手には大河チンドウィン川や、密林覆うアラカン山系が立ちはだかる。部下が反対する中、政権存続を賭けた東条英機首相と、その意向を汲んだ司令官、牟田口廉也が作戦を強行した。

「食料は敵から奪え」と言われ、軽装で出発した8万5千の兵は、インパール目前で重装備の連合軍に迎え撃たれる。敵戦車を前に、得意の銃剣突撃もむなしい。3か月の戦闘で大損害を出し、作戦は失敗した。

負傷し、飢えとマラリア、赤痢に苦しみながら敗走する兵士を、モンスーンの豪雨が襲う。次々と倒れた者が道しるべとなり、その道中は「白骨街道」と呼ばれた。ミャンマー北部を横断し、タイなどに生きて還れたのは2万人だった。

 先週、チェンマイから2日がかりで、ミャンマー国境に近いクンユアムの町に行った。町には、日の丸がひるがえる博物館がある。そこには地元の警察署長が収集した、日本兵の所持品が陳列されている。

 昼頃に着くと、受付の女の子がのんびりラーメンを食べている。人けのない館内には、色あせた軍服、鉄兜、小銃や手榴弾などが置かれていた。日本の団体が運営に関わっており、見学者も日本人が多いはずだが、説明板の日本語が奇妙だ。

 展示には感慨を覚えなかったが、西に連なる国境の山並みを眺めていると、1000キロを歩いてタイの土を踏んだ兵士の心中がしのばれた。せっかくたどり着いたこの地で、7千人が力尽きて亡くなったという。

 牟田口司令官は、たとえ食べ物や武器弾薬がなくても、皇軍精神さえあれば勝てると考えていた。ふと、ある情景が浮かんできた。

  カメラマン時代、陸上自衛隊の演習を取材した。軍事専門記者と、中国地方にある自衛隊駐屯地前で待ち合わせた。約束の時間に着くと、記者が仁王立ちしている。軍隊では常に「5分前」を励行しなければいけない、と怒られた。

 演習では、実弾が飛んでこないのをいいことに、銃を構えている目の前にしゃしゃり出て写真を撮った。さぞ演習の邪魔だったと思う。

 その後、部隊長の1佐にインタビューした。「少佐・中佐・大佐」といった旧日本軍の階級は、平和国家日本で「3佐・2佐・1佐」に改称されている。この際、イッサと呼ぶより「大佐殿」と呼んだ方が、こちらも分かりやすいし、たぶん本人も喜ぶだろう。

その彼が「いくら兵器が進歩しても、最後に戦闘の雌雄を決するのは歩兵の突撃です」と力説する。記者も、深くうなずいていた。この時、2人に帝国陸軍の亡霊が憑依したかと思った。

クンユアムの前週は、ミャンマー北部メイミョーにいた。件の牟田口司令官が指揮を取った地だ。標高1100メートルにある、イギリス植民地時代からの避暑地。木立の間に洋館が並び、いまは観光客を乗せた馬車が行きかっている。

 インパール作戦は、インドから中国に物資を運ぶ「援蒋ルート」の破壊が目的だった。逆に今は、200キロ先の中国国境から来たトラックが、物資を満載して西へ向かう。
 当時の連合国と日本、中国が、ミャンマーを舞台に今度は経済で戦っている。


2016年2月8日

不機嫌なカーナビ


 土地勘のない外国で運転するとき、カーナビは強い味方になるはずだ。

タイでレンタカーを借りた際、カーナビも借りた。後付けのカーナビを、係が運転席のフロントガラス正面にマグネットで取り付けてくれた。

 本当に目の前だ。タイのドライバーは、こうやって運転するのだろうか。

 しかし・・・これでは前が見えない。彼が去ってから、隅の方に装着しなおす。すると運転中、何度も振動で足元に落ちてしまった。

 さて今晩のホテルを目的地に入力しようとすると、まず登録されていない。

住所で探してみる。タイ語の地名は、ローマ字表記すると何通りもスペルがある。いろいろスペルを替えてみてもヒットしない。

あきらめて、あらかじめ登録されている市役所などを当面の行き先にした。

途中で気が変わり、クメール時代の遺跡に寄ることにした。脇道に入ると、日本のカーナビなら、最終目的地までの経路を再計算してくれる。ところがこちらのカーナビは、しばらく沈黙した後に「 Impossible!  Make U-turn! 」と連呼しはじめた。ヒラリー・クリントンを思わせる、低い女性の声だ。

市民の意向を無視して我を通そうとする。カチンときて、スイッチを切る。

すると何日かして、今度は勝手に電源が切れるようになった。肝心な場面で寡黙になる。彼女の機嫌を損ねたか。どうも、電源コードの接触不良らしい。指で押さえると復活する。

旅の後半、右手でハンドルを握りながら、左手でカーナビを押さえて走った。

それでも、現在地がわかるだけでもありがたい。タイ北部チェンマイでレンタカーを借りたときも、事前にオプションで注文した。

ところが、車内にカーナビが見当たらない。スタッフに指摘すると「契約に含まれていない」「別途つけるなら1日240バーツ必要」という。

おかしい。確かにカーナビ代も払っているはず。私の思い違いだろうか。

今回は田舎道だからいいか、とそのまま出発した。結果、どんな小さな町でも必ず道に迷い、ホテルにたどり着くまで1日平均30分は右往左往した。道行く人に聞きまくり、タイ語の練習にはなった。

改めてレンタカー会社との契約内容を見直すと、確かにカーナビ代を払っている。

最終日。車を返却し、「カーナビ代を払っているのにカーナビなしの車だった」とクレームをつけた。シラを切るつもりなら、断固戦ってやる。

若い男性スタッフは、しばらく端末をいじると「オ~オオ」とつぶやき、女性上司にタイ語で何か言った。すると上司も「オ~オオ」と言い、にっこり笑った。

タイ人と話すと必ず出くわすこの「オ~オオ」、アメリカ人の「Oh!」とは似て非なるもので、感嘆詞ではあるが、本人はあまり驚いていないことが多い。

「OK、カーナビ代は払い戻します。口座に入金されるまでひと月かかります」。

ここで怒ると、かえって事態が悪化することは経験で知っている。久しぶりに、カーナビがない時代のドライブを経験できてよかった。

次回はA社でなく、H社の車を借りよう。でもどんなに国際ブランドでも、ここがタイである限り、また同じ目に遭う気がする。


2016年1月24日

職業を気にする国②


 新聞紙上でインド連載が始まると、インド大使館に通い詰めた。①書類提出、書記官との面接 ②招聘状発給、ビザ申請と手数料の支払い ③パスポート預け ④パスポート受け取り。インド出張が決まるたび、4回ずつ大使館に足を運んだ。

渋滞したバンコクを大使館まで行き、長蛇の列に並ぶ。さすが「悠久のインド」、ビザ申請窓口にも悠久の時間が流れていて、いっこうに順番が来ない。対応ぶりは傍若無人で、書類に不備があると邪険に突き返された。

 そして面接では、書記官から詳しく取材目的を聞かれる。ある時、担当書記官のクマール氏に「今回は人気女優のマリカ・シェラワットをインタビューしますよ」と話すと、「マリカのナマ写真をくれるなら、次から特別扱いでビザを発給する」と真顔で言われた。

出張から戻り、大きく伸ばしたマリカの写真を手にインド大使館に行くと、クマール氏はすでに異動していた。

帰任直前になって、インド大使館のビザ・セクションが、古びた一軒家からモダンなビルに移転した。明るいガラス張りになった窓口では、制服姿の若い職員が打って変わってきびきびと対応し、書類の書き方も親切に教えてくれる。整理券の発行は手書きから機械式に替わり、待ち時間が激減した。

これからは外国人を受け入れよう、という意思のようなものを感じた。

インドの隣国パキスタンの取材ビザは、当初とても簡単に取れた。申請書さえ出せば、翌日には面接なしにビザが出て、しかも無料。開かれた国に思えた。

それがインドとは逆に、日を追って審査が厳しくなった。特にブット元首相の暗殺後は、訪問目的によっては発給を拒否される。ビザが出る場合でも、滞在日数と訪問都市を厳しく制限される。

もとより治安が安定しないので、ビザを申請に来る人は少なく、窓口はいつも閑散としていた。当時のパキスタンは世界との交流をなくし、孤立していくように見えた。

そしてミャンマー軍事政権も、何かを見せたい時しか取材ビザを出さなかった。バンコク特派員時代の3年間で入れたのは、独立記念日の軍事パレードと、新首都ネピドー完成時の2回だけ。飛行機で1時間の距離なのに、近くて遠い隣国だった。

今回晴れて自由の身となり、ミャンマー行きの飛行機に乗る。




2016年1月21日

職業を気にする国①


 ミャンマーへ行くことにした。

 新聞記者をしていた頃、個人でミャンマーに入るのは意外に大変だった。「ミャンマー国内で取材活動をしない旨の誓約書」に、会社の休暇証明書までつけて出さなければならない。行きたいと思いながら、何となく足が遠のいていた。今はもう何の気兼ねもいらない。

 ところが、いくら会社を辞めたと言っても、パスポートには各国のジャーナリストビザが残っている。「辞めたという証明書を出せ」などと言われたら面倒だ。

 そこで、今回は周到に準備した。パスポートを新品にして証拠を消した上で、日本より審査が緩いバンコクのミャンマー大使館に出向いた。

正門近くに駐車したワンボックス車の中では、便利屋さんが顔写真撮影やパスポートのコピー、頼めばビザ申請書の代筆までやってくれる。ここではパスポートとお金さえあれば、簡単にビザが取れるようだ。

 申請書をめくると、現在の職業と過去の職業それぞれ、仕事内容、職位、在職期間まで詳細に申告する欄がある。ずいぶん人の職業にこだわる国である。

 いままでは、正式に取材ビザを取って入国する場合は photojournalist とか staff photographer。観光ビザで仕事をしてしまう場合は office worker などと書いていた。これからは何と書こうか。

freelance では正体不明すぎる。retiree ・・・この歳で? invester も怪しまれそう。unemployed かえって面倒なことになる。NPO staff  真実だが、これにも説明が必要そうだ。

 去年の実態を正確に書けば「労働時間が長かったのは福祉関係と教育関係で、収入が多かったのは投資と失業給付」になる。そのまま申告して、果たして先方はどう思うだろうか。

 結局、elementary school english teacher ということにした。ウソではないし、まともな人に見られることがこの際、最重要。その割には英語が下手だ、と入国審査で突っ込まれそうだが。

 苦心の末に、申請書を書き上げる。妻の分も、適当に代筆する。欧米人バックパッカーたちと一緒に、1時間以上も行列に並んだ。窓口では特にお咎めなく受理され、2日後には無事、ビザが発給された。

 遊びでなく、仕事で行っていた頃のアジア諸国は、基本的にビザが必要だった。観光客を装い、ビザなしで仕事をしてしまう時もあるが、そうはいかない国もある。バンコクに駐在中は、ビザの取得でいろいろなことがあった。
 (続く)


2016年1月19日

90分間のラオス旅行



 年明けから金融市場が荒れている。今年のNISAは毎月の積み立てをするつもりだったが、安くなったのでいっぺんに投資してしまった。

 FTSE新興国指数       40%

 CRSP米国小型株指数     20%

 FTSE世界小型株指数     20%

 MSCIフロンティア指数    20%

 ちなみにフロンティア市場というのは、クウェートやナイジェリア、パキスタンなど、新興国よりさらに危険、もとい成長力を秘めた国家群だ。

 皆が売っている時に、いちばん値下がりしたアセットを買うのが投資の鉄則とはいえ、心理的に難しい。世界経済と関係なさそうなタイの田舎にいた方が、かえって自分の意志を貫ける。

 幸い、今や東北タイの中級ホテルでもwifiがつながる。夕食後ニューヨークに指値注文を入れ、日本だったら「果報は寝て待て」、そのまま寝てしまう。タイは日本よりさらに2時間時差があるので、ぼんやり端末を見ているうちにNY市場が開いた。その日も世界中のインデックスが軒並み2%を超えて下がり、あっという間に約定した。

 いっけん分散投資をしているように見えて、実は思い切りタマゴをひとつの籠に盛っている。落としたら大変だが、債券投資家は弱虫だと公言している手前、他に選択肢がない。5年か10年放っておけば、値上がりしていると思う。

※昨年のNISAも一昨年のNISAも、現時点ではボロ負けだ。価格変動を友だちにできる人以外、マネしない方がいいです

 この東北タイ旅行中、4日間で3回、ラオスに行った。

メコン川に沿って車で北上すると、いつも右手にラオスの山が見えている。昼頃にドライブを終えて次の町に着くと、ほかにやることがない。暇つぶしがてら、つい国境を越えてしまう。

世界中で人畜無害と思われている日本人観光客は、ラオス入国にもビザがいらない。パスポートに、タイ出入国のスタンプとラオス出入国のスタンプが、きれいに6つずつ12個並んだ。90分間のラオス滞在後タイに再入国すると、イミグレーションの係官がまじまじと私の顔を見つめ、

「ノーグッド、サムライ・・・」

とつぶやいていた。

タイ~ラオス国境のメコン川に近年、日本やオーストラリアなどの援助で4本の橋が架けられた。今回、そのうち3本を渡ったことになる。どの橋も交通量は少なく、税関ものんびりしている。だが、渡った先のラオスは、小さなボートで国境越えした10年前とは激変していた。

何もなかった町なかの広場には市が立ち、まるで白昼夢のようにひと気のない道が車で渋滞している。以前味わった、フランス植民地時代のノスタルジーを期待していたのでがっかりしたが、これが現実だ。

昨年12月31日にASEAN経済共同体(AEC)が発足し、東南アジアのヒト・モノ・サービスの流れは今後ますます活発になるようだ。

思い出の地はそのままでいて欲しい反面、経済成長のおこぼれにも預かりたい。サムライ煩悩だらけ。

2016年1月17日

カウヌン、テムタン!


 東北タイ(イサーン)車の旅も8日目、2000キロを走破して、無事にバンコクに戻ってきた。

 サービスアパートにチェックインした後、AVISの営業所まで車を戻しに行く。つながらないカーナビのせいで曲がるところを間違え、バイクタクシーのおじさんに道を聞く。

 まずい、日が暮れてきた。日差しが強いタイでは市販車でも、日本の暴走族並みに強いスモークガラスが使われている。フロントガラスさえ色つき。昼間はいいが、夜道は実際以上に視界が暗い。車の周囲をバイクの大群に囲まれ、その何台かは無灯火だったりするので、急ブレーキや急な車線変更は危ない。

バンコク名物の大渋滞にはまり、3キロの道のりに1時間半かかった。

 会社勤めの身だったら、「お金を払って車を取りに来てもらうんだった・・・」と後悔していたはずだ。いまは時間だけは豊富にあるので、これもひとつの経験、と余裕をかます。

 タイの道路は、全般に舗装が荒れているから、路面からの振動や騒音が大きい。郊外の空いた道を時速100キロで走る時は、まるで車の耐久テストをしているよう。それさえ目をつぶれば、道は広くまっすぐで、道路標識も過不足ない。助手席はともかく運転者にとっては、日本で2000キロ、青森から鹿児島まで走るより疲れなかった。

 ナコンラチャシマ、ウボンラチャタニー、ノンカイ、ウドンタニー、コラート・・・イサーンを1周した達成感に浸る。ただバンコクからイサーンの入り口までは景色が単調で、交通量が多い。次回はどこか地方都市まで飛行機を使い、田舎道だけを走ろう。

 車の旅では、行きたい時に行きたい場所に行ける半面、人との交流は減ってしまう。運転中に言葉を交わしたタイ人は、警察官とガソリンスタンドのお兄さんたちぐらいだ。

警官と言っても、反対車線を逆走してお世話になったのではない。

タイ・ラオス国境に沿って走った数日間、頻繁に検問があった。3回に1回の割合で、停止して運転免許証の提示を求められた。「韓国人?中国人?ああ日本人か。日本語でサワディーは何て言うの?カニチハ?コニチハ?コニチハ!」何のことはない、我々は単なる暇つぶしの相手だ。しかも日本はやっと3番手らしい。

ガソリンスタンドでは毎回、手のひらを下から首まで持ってきて「すりきり満タン」と理解してもらった。でもいつまでも、タイ人のカンの良さに甘えてはいられない。最後に給油した時、その数十秒さえ惜しんでベンチで居眠りするお兄さんを起こして、タイ語を教わった。

 「レギュラー、満タン!」は、「カウヌン、テムタン!」と言うそうだ。

 カウヌンはタイ語の91。オクタン価91のガソリンを満タン、という意味だ。

 やっと覚えたこのフレーズ、次に車を借りる時は、たぶん忘れている。


2016年1月11日

暴走する若者 逆走する私


車やバス、バイク、トゥクトゥク、リヤカーなどが入り乱れるバンコクの路上に、レンタカーで繰り出した。

いったん渦中に飛び込んでしまえば、見た目ほど怖くない。

マイカー急増中とはいえ、タクシーや配送などのプロドライバーが多い。運転がうまいので、こちらがミスしても、向こうがよけてくれる。

また、タイ人得意の「あうんの呼吸」で、無秩序の中にも秩序が保たれている。ニューデリーやマニラ、ジャカルタなど、アジアの大都会お決まりのクラクションの洪水が、ここバンコクはないのだ。

赤信号であっても、交差点を忍び足で入って左折できる。最初は面食らうこのようなローカルルールを、見よう見まねで覚える。

これまでアメリカ、カナダ、ベルギー、オランダ、ポーランド、チェコ、スロバキア、オーストリア、ハンガリー、ニュージーランドで運転した。ベルギーとニュージーランドでは、つい右側通行を忘れて反対車線を激走した。日本でもヨーロッパから帰国直後に逆走したが、今日まで生き永らえてきた。

ここは日本と同じ左側通行なので、「逆走する老人」にはならないで済む。

タイでレンタカーを借りるのは簡単だ。営業所に電話し、クレジットカード番号を口頭で伝えればいい。300バーツ(1000円強)の追加料金で、車をホテルまで届けてもらえる。

約束から30分遅れて、赤いベストを着たAVISのお兄さんが到着。書類にサインすると、彼は私のパスポートと国際運転免許証をスマホで撮影して帰って行った。ピザの宅配と変わらない手軽さだ。

車は、トヨタの現地生産車VIOS。走行13万キロで、車体が派手に凹んでいる。トランクも、思い切り叩き付けてやっと閉まる。オプションで付けた英語音声のカーナビは、すぐ電源が切れる。

それでも、まっすぐ走れなかった某国のレンタカーに比べれば、じゅうぶん許容範囲である。

バンコクを抜けて郊外に出てしまうと、片側3車線のまっすぐな道が延々と続く。鉄道網が貧弱なので交通量は多いが、ほとんどの交差点が立体交差化され、1時間走っても信号がない。制限速度は時速110キロで、一般道なのに東名より流れが速い。

ベトナム戦争中、タイに基地を作ったアメリカが道路を整備した。走ってみれば、気分はフリーウェイ。道路も路肩も広々としている。

ただし左車線を走っていると、その路肩を親子3人乗りのバイクが逆走してくる。時々、ピックアップトラックまで逆走してくる。一方で追い越し車線を走れば、Uターンする対向車が急に鼻先を突き出してくる。真ん中の車線を、なるべく露払いの車を前に立てながら慎重に走る。

昨日は270キロ、今日は380キロを走破して、タイ東部ウボンラチャタニーにやってきた。明日はラオス国境を目指す。

ハンドルを握って手にする自由は、想像以上だ。

2016年1月7日

気温33度のポジショントーク


 新年明けてタイに来た。

 料金を吹っ掛けられたり、メーターが改造されていたりスピード狂だったりと、バンコク空港から乗るタクシーには毎度ハラハラさせられる。今回は実直そうなおじさんに当たり、閑散とした高速道をゆったりとドライブ。道が空いているのは、帰省した地方出身者たちが、まだ完全には戻りきっていないから、とのこと。降りる時も、メーターの金額しか請求されなかった。

 毎度のことだが、車窓から眺めるバンコクの景色に見覚えがない。留守にしている間に、新しいオフィスビルや商業施設、高層アパートが建つからだと思う。「日本の地方から出て来ると、バンコクは未来都市みたい」と妻は言う。

 閑散期を狙って航空券を手配したが、今回は争奪戦が激しかった。ネットで調べる東京~バンコク間の空席状況は、元日過ぎても空きがあるのは東京行きばかりで、バンコク行きは軒並み満席。帰国ラッシュだったころと、まったく逆だ。

海外旅行をする日本人より、訪日外国人の方が多い。知識として頭に入ったつもりでも、インバウンド需要がこれほどすさまじいとは知らなかった。これから飛行機の手配では、日本人より外国人の動向を気にしなければ。

マイレージを使って、タダで飛行機に乗ろうとする私のような輩は、搭乗の優先順位が低いので特に気をつける必要がある。

タイ航空の機内でも、利用客の過半は日本人以外に見えた。日本滞在を楽しんで帰国するタイ人の姿が目につく。

ほんの数年前まで、タイ人の訪日ビザ取得には厳重な審査があった。経済格差もあり、日タイ間の旅客は、20対1ぐらいで日本人が多かったと思う。それが今や、タイ人が日本人を凌駕しそうな勢いだ。時代は変わった。

2006年、仕事で中国東北地方に行った。2ケタ成長が続き、中国のGDPが6年ごとに倍になっていた時期だ。遼寧省瀋陽で取材を手伝ってくれた女性は、日本留学から戻ったばかり。「たった3年いない間に、生まれ故郷の瀋陽がまったく別の街に変わっていた」と話していた。

減速したとはいえ、中国の経済成長率はいまだ7%。世界第2の経済大国・日本を抜いたと思ったら、いつの間にかGDPが日本の2倍になった。タイを含むASEANの経済成長率も6%台。ドル建ての1人当たりGDPで、シンガポール、香港、ブルネイが日本を抜いた。私たちは、この現実を理解しているだろうか。

新興国への投資は、中国株を筆頭に、株価が企業価値を適正に反映しないのが難しいところだ。それでも、自分のお金には冒険させたい。10年後の日経平均と新興国株指数、どちらが2倍になっているか。私は新興国に賭ける。たぶん、2倍ではきかないだろう。

指数を買うほかに、アリババのような、ニューヨーク上場の中国企業を買うという手もある。

ところで、やっとブログのタイトル通りの暮らしになった。

タイトルを変えたくないから、無理してアジアに来たわけではない。

日本だって、立派なアジアなのだ。


2015年2月22日

バンコクでマネーロンダリング???


 成田空港を発って3か月め。円や米ドルなど、持参の現金がついに底をつき、先日はクレジットカードでキャッシングをした。

街角のATMを使えば簡単だが、180バーツも手数料がかかる。ところが、銀行の窓口に行けばタダなのを発見。なぜか、機械より人を使う方が安上がりなのだ。日本と逆だ。

近所の銀行2行に断られ、3行目のTMBでやっと成功する。「キャッシュ・アドバンス、2万バーツ」と言ってクレジットカードとパスポートを差し出すと、5分ほどで窓口の奥から2万バーツが手渡しで出てきた。ちょっと不思議な気分。手間はかかったが、屋台のカオパット(チャーハン)4皿分、得をした。

キャッシングをすると、為替手数料のほかに年率18%もの金利を払わなければならない。一番有利なのは、やはり現金の両替だ。銀行より「スーパーリッチ」など私設両替商の方が、断然レートがいい。

シーロム通りの「スーパーリッチ」で米ドルを替えたとき。100ドル紙幣5枚を何度も確認していた係りの男性が、いきなり顔を上げ、私の顔を無言で見つめた。偽札くさいのかもしれないが、バーツに替えてくれないと私も困る。懸命に「信頼に足る人物」らしき顔を作った。両替も真剣勝負だ。

 先日バンコクに来た友人(職業不明)が、ロシア・ルーブルとパキスタン・ルピーを持ち込んだ。国内ではどこも両替してもらえなかったという。

こちらの銀行に差し出すと、ルーブルは即答でOK。ダメもとだったパキスタン・ルピーも、店頭にない内部のレート表に基づいて両替してくれた。

銀行も慈善事業ではないので、明日暴落するかも知れない通貨は受け取らないと思う。パキスタンという国を独自に調べ、一定の信頼度と将来性を見込んでいるに違いない。邦銀にないフロンティア精神を感じる。


 以前は日本円の需要が高かったようで、バンコクの銀行や私設両替所の一番目立つところにレートが表示されていた。それが今では、人民元やインド・ルピー、ロシア・ルーブルやUAEディルハムなど成長著しい新興国通貨に押しやられ、日本円はひと目では見つけられないことがある。

 私が最後の頼みにしているのはシティバンクのキャッシュカード。外国に行くときや暮らすとき、シティバンクは本当に便利だ。世界中のATMから現地通貨を引き出せるほか、海外送金も手数料が安くて確実。残高が足りない客には毎月千円も口座維持手数料を取るえげつなさと引き換えに、国外でありがたみを発揮する銀行だった。

ところが、バンコクの街中でもよく見かけるシティバンク、日本からは年内に撤退してしまう。日本の将来を見限ったか。財布のシティバンクカードは、使えなくなるのだろうか。

タイ・バーツに対する円の下落にも、日々直面している。経済力に関する限り、日本はどんどん「並みの国」になっている。

2015年2月18日

お坊さん優先席




電車内でこのマークを見つけ、10年前のある情景を思い出した。


2005年暮れ、空路プーケットに向かった時のこと。バンコク空港の搭乗待合室には、オレンジ色の袈裟をまとった僧侶の団体さんがいた。インド洋大津波1年の追悼式典に向かうようだ。


お坊さんの集団など日本では見かけないが、僧侶人口4万人とも言われるタイでは時々目にする。1~2週間だけ僧侶になるプチ出家の制度もあり、それも含めるとタイ人男子100人に2人はお坊さんだ。キョロキョロと美人を気にする俗気丸出しの僧侶もいた。


搭乗アナウンスで機内に入ると、優先搭乗していたお坊さんたちが、きれいに縦一列になって窓側の席を占めていた。その隣に座っているのは普通の乗客だが、全員が男性。女性やカップル、家族連れは真ん中の4列シートに集められている。不思議な光景だ。


自分の席を探すと、私もお坊さんの隣の「一般人、ただしオトコ」の列だった。


離陸してほどなく機内サービスが始まった。若いキャビンアテンダントの女性が、お菓子とジュースをくれる。

サンキュー。

続けて、お菓子とジュースをもう一組くれる。

ノーサンキュー。

すると、女性が困った顔をしている。

ここで鈍い私も気がついた。タイでは、女性が僧侶に触れることは最大のタブー。わざとでなくても、さわってしまったが最後、せっかく積んできた長年の修行が一瞬でパーになってしまう。

我々「一般人ただしオトコ」組は、お坊さんとキャビンアテンダント間のバリケードにされていたわけだ。

不明を恥じながら隣席にお菓子をリレーする。昼からは食事をしてはいけない戒律もあるようだが、朝便だったのでそのお坊さんはおいしそうに食べていた。

現在バンコク市内を走る高架鉄道BTSには、いわゆるシルバーシートのほかに、お坊さん優先席がある。これも、僧侶に席を譲るとともに、女性はその隣に座らないように、という両方の意味を込めているはずだ。

昨日はその席に尼さんが座っていた。

この場合は・・・?

少し混乱した。



快適すぎるインド旅行

  大学院入学を控えたこの春、卒業旅行と称して南インドを旅した。 旧フランス領のポンディシェリ、旧ポルトガル領コーチン、同ゴアなど「インドの中の西洋」を巡り、1日3 食、朝からカレーを食べ続ける旅。 この辺りのカレーは「ケララカレー」といって、ココナツベースで甘みがある。...