新聞紙上でインド連載が始まると、インド大使館に通い詰めた。①書類提出、書記官との面接 ②招聘状発給、ビザ申請と手数料の支払い ③パスポート預け ④パスポート受け取り。インド出張が決まるたび、4回ずつ大使館に足を運んだ。
渋滞したバンコクを大使館まで行き、長蛇の列に並ぶ。さすが「悠久のインド」、ビザ申請窓口にも悠久の時間が流れていて、いっこうに順番が来ない。対応ぶりは傍若無人で、書類に不備があると邪険に突き返された。
そして面接では、書記官から詳しく取材目的を聞かれる。ある時、担当書記官のクマール氏に「今回は人気女優のマリカ・シェラワットをインタビューしますよ」と話すと、「マリカのナマ写真をくれるなら、次から特別扱いでビザを発給する」と真顔で言われた。
出張から戻り、大きく伸ばしたマリカの写真を手にインド大使館に行くと、クマール氏はすでに異動していた。
帰任直前になって、インド大使館のビザ・セクションが、古びた一軒家からモダンなビルに移転した。明るいガラス張りになった窓口では、制服姿の若い職員が打って変わってきびきびと対応し、書類の書き方も親切に教えてくれる。整理券の発行は手書きから機械式に替わり、待ち時間が激減した。
これからは外国人を受け入れよう、という意思のようなものを感じた。
インドの隣国パキスタンの取材ビザは、当初とても簡単に取れた。申請書さえ出せば、翌日には面接なしにビザが出て、しかも無料。開かれた国に思えた。
それがインドとは逆に、日を追って審査が厳しくなった。特にブット元首相の暗殺後は、訪問目的によっては発給を拒否される。ビザが出る場合でも、滞在日数と訪問都市を厳しく制限される。
もとより治安が安定しないので、ビザを申請に来る人は少なく、窓口はいつも閑散としていた。当時のパキスタンは世界との交流をなくし、孤立していくように見えた。
そしてミャンマー軍事政権も、何かを見せたい時しか取材ビザを出さなかった。バンコク特派員時代の3年間で入れたのは、独立記念日の軍事パレードと、新首都ネピドー完成時の2回だけ。飛行機で1時間の距離なのに、近くて遠い隣国だった。
今回晴れて自由の身となり、ミャンマー行きの飛行機に乗る。
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