チェンマイ郊外の貸家に滞在し、高木俊朗「インパール」を読んでいる。
学生のころはアジアの安宿で、厳選して持ってきた数冊の文庫本を少しずつ読んだ。今は世界中どこにいようと、電子本をその場で買えるから便利だ。
1944年、日本陸軍がミャンマーから国境を越え、遠くインド西部インパール攻略を企てた。行く手には大河チンドウィン川や、密林覆うアラカン山系が立ちはだかる。部下が反対する中、政権存続を賭けた東条英機首相と、その意向を汲んだ司令官、牟田口廉也が作戦を強行した。
「食料は敵から奪え」と言われ、軽装で出発した8万5千の兵は、インパール目前で重装備の連合軍に迎え撃たれる。敵戦車を前に、得意の銃剣突撃もむなしい。3か月の戦闘で大損害を出し、作戦は失敗した。
負傷し、飢えとマラリア、赤痢に苦しみながら敗走する兵士を、モンスーンの豪雨が襲う。次々と倒れた者が道しるべとなり、その道中は「白骨街道」と呼ばれた。ミャンマー北部を横断し、タイなどに生きて還れたのは2万人だった。
先週、チェンマイから2日がかりで、ミャンマー国境に近いクンユアムの町に行った。町には、日の丸がひるがえる博物館がある。そこには地元の警察署長が収集した、日本兵の所持品が陳列されている。
昼頃に着くと、受付の女の子がのんびりラーメンを食べている。人けのない館内には、色あせた軍服、鉄兜、小銃や手榴弾などが置かれていた。日本の団体が運営に関わっており、見学者も日本人が多いはずだが、説明板の日本語が奇妙だ。
展示には感慨を覚えなかったが、西に連なる国境の山並みを眺めていると、1000キロを歩いてタイの土を踏んだ兵士の心中がしのばれた。せっかくたどり着いたこの地で、7千人が力尽きて亡くなったという。
牟田口司令官は、たとえ食べ物や武器弾薬がなくても、皇軍精神さえあれば勝てると考えていた。ふと、ある情景が浮かんできた。
カメラマン時代、陸上自衛隊の演習を取材した。軍事専門記者と、中国地方にある自衛隊駐屯地前で待ち合わせた。約束の時間に着くと、記者が仁王立ちしている。軍隊では常に「5分前」を励行しなければいけない、と怒られた。
演習では、実弾が飛んでこないのをいいことに、銃を構えている目の前にしゃしゃり出て写真を撮った。さぞ演習の邪魔だったと思う。
その後、部隊長の1佐にインタビューした。「少佐・中佐・大佐」といった旧日本軍の階級は、平和国家日本で「3佐・2佐・1佐」に改称されている。この際、イッサと呼ぶより「大佐殿」と呼んだ方が、こちらも分かりやすいし、たぶん本人も喜ぶだろう。
その彼が「いくら兵器が進歩しても、最後に戦闘の雌雄を決するのは歩兵の突撃です」と力説する。記者も、深くうなずいていた。この時、2人に帝国陸軍の亡霊が憑依したかと思った。
クンユアムの前週は、ミャンマー北部メイミョーにいた。件の牟田口司令官が指揮を取った地だ。標高1100メートルにある、イギリス植民地時代からの避暑地。木立の間に洋館が並び、いまは観光客を乗せた馬車が行きかっている。
インパール作戦は、インドから中国に物資を運ぶ「援蒋ルート」の破壊が目的だった。逆に今は、200キロ先の中国国境から来たトラックが、物資を満載して西へ向かう。
当時の連合国と日本、中国が、ミャンマーを舞台に今度は経済で戦っている。
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