2022年12月30日

師走の病棟にて

 

 寝たきりの体勢から勢いよくパンチを繰り出すMさんに、メガネを吹き飛ばされてから1週間。

 彼女はやたら人を引っ掻く癖もあり、今や看護師さんほぼ全員の腕に、流血の痕が残る。

 そして再びやってきた、Mさんの入浴日。万全を期して、介助要員は6人に増えた。広い浴室に女性の笑い声が渦巻き、ほとんどお祭り騒ぎだ。

そしてその間、ナースステーションはもぬけの殻に。

ダイジョーブなの?

 

1時間ほど前に息を引き取ったFさんの、お見送り入浴にも立ち会った。

眼を閉じて、もの言わぬFさん。がんと闘ってできた、体の傷が痛々しい。

「ミヤサカさんが買って来たイカの塩辛、Fさんはひと晩で全部食べちゃったんです。『好きなものはいっぺんに食べる主義なの』って威張ってましたよ!」

 ていねいに体を洗い、上品な黒い着物を着せながら、思い出話に花が咲く。

この病棟の看護師さんは、どんな時も明るい。

 

「駐車場で野ざらしになってるボクの車、バッテリーが上がってやしないかな。ちょっと見に行ってくれませんか?」

 Oさんに頼まれてキーを預かり、病院の片隅に停めてある彼の愛車へ。エンジンをかけて、広い駐車場をひと回りする。八ヶ岳山麓に移住して20年、奥さんを乗せて、紅葉の名所をあちこちドライブして回ったという。

 ひと月前、この車を運転して病院にやってきたOさん。今はもう、廊下を自力で歩くことができない。

「あぁ、とうとう車いすになっちゃった…」

 彼のつぶやきを聞いたときは、返す言葉がなかった。

 

 病棟の仕事を早めに終えた日は、患者さんの個室を訪ね歩く。夕暮れのベッドサイドに座っていると、天井を見つめながら、今の思いを聞かせてくれる。

「緩和ケアに入る時に死ぬ覚悟はして来たつもりだけど…検査で腫瘍マーカーの数値が悪いと、やっぱり落ち込んじゃうよ」

「可愛いがってる姪っ子が、会社をリストラされちゃったの。私に子どもはいないから、貯金を彼女に遺してあげたい。それだけが気がかり」

「どうして、オレの体はこんなになっちゃったんだ!」

「今までさんざん好き勝手やってきたから、天罰が下ったのかな」

塩辛が大好きなFさんから聞いた生前最後の言葉は、ただひと言、

「お世話になりました」

だった。



2022年12月24日

ひとりだけ霧の中

 

 すごい寒波がやってきて、各地に雪を降らせた。

 こういう日にマスクをして外出すると、呼気ですぐメガネが曇る。

 でも最近は、マスクをしなくてもメガネが曇る。

 それも、なぜか右側だけ。

 メガネを外して拭こうとすると…

 ぜんぜん曇ってない。

 …曇っていたのは、実は自分の眼のほうだった。

 

 手で左眼を覆い、右眼だけで周囲を見ると、まるで霧がかかったよう。「近眼の度が進んだ」なんていう、生易しいもんじゃない。近くも遠くも、全くピントが合わないのだ。

 このことに気づいたときのショックといったら!

 この先、もし左眼まで悪くなったら、クルマを運転して旅行に行けなくなる。本も読めない。きれいな景色も見られない。きれいな女の人も…

 いやいや「撃墜王」坂井三郎は、空戦で片眼の視力を失う重傷を負いながら、その後もゼロ戦を繰って終戦まで戦い続け、天寿を全うしたじゃないか。

 心は千々に乱れた。

 

 こういう時、職場が病院だと便利だ。わざわざ通院しなくて済む。

 仕事の合間に、アポなしで眼科へ。受付だけ済ませて5階の病棟で働いていたら、診察の順番がきたと内線で知らせてくれた。

 問診の後、瞳孔を開く目薬を差し、眼に強烈な光を当てられる。

やがて向き直った男性医師が、そっけない口ぶりで言った。

「まだ若いけど…白内障です」

「簡単に治す方法はありません。手術することになります」

 な…なんちゅう言い方するねん!

 

 思い当たるフシは…大ありだ。日本の雪山やヒマラヤを、ろくにサングラスもかけず、眼にガンガン紫外線を浴びながら登ったせいだろう。自業自得。

でもまぁ医者になんと言われようと、これは考え得るベストシナリオだ。白内障は、手術で治る。医療が整わない一部の国では、いまだに白内障で失明する人もいるらしいから、日本に生まれたことに感謝したい。

 

「ぼくずっと手術室で働いてたけど、50代の白内障は珍しくなかったですよ。術後はみんな『世界が明るくなった』って」

 心優しきは、ヤマモト看護部長。

「白内障の手術で、ついでに近眼も治らないかって? そんなことはないわねぇ。ただ元に戻るだけよ」

 クールなリアリストの、マルヤマ看護師長…



2022年12月17日

秒速パンチを浴びる

 

 今年の師走は、雪が来るのが早い!家と市街地を結ぶつづら折りの山岳路は、もう完全な雪道だ。

気温が氷点下になる早朝や日暮れ時、路面は凍ってツルツル滑る。ハンドルを握る手に全神経を集中させながら、通勤する。

さらに、いつも平和な緩和ケア病棟にも、ちょっとした異変が。

新しく入院してきたTさんは、寝たきりの体勢から、誰彼かまわず秒速パンチやキックを見舞う特技の持ち主だった。

さらに、長く伸びた爪で、我々の腕を思い切りつねる必殺技も繰り出す。

看護師さんと2人がかりで、両手を押さえて爪を切る。これでTさん最大の武器を除去!と安心していたら、風呂場で彼女の右ストレートが、ものの見事に私の顔面にヒット。かけていたメガネが、すごい勢いで空中を飛んでいった。

戦い済んで日が暮れて…

もはや家に帰る気力も失せ、「全国旅行支援」で安く泊まれるビジネスホテルを渡り歩いてます。

 

サッカーW杯で、ドイツに続いてスペインまで破った日本代表チーム。その主将を務めたのが吉田麻也選手だ。前は優しそうな顔をしていた気がするが、今や声を掛けるのも憚られるような、威厳に満ちたオーラを放っている。

ロンドンでヘッジファンドを運営する浅井将雄氏は、吉田選手と親交がある。吉田選手が重ねる驚くほどの努力の日々を、浅井氏が日経ビジネスで証言している。

・今は自分の言葉で英語インタビューに応じているが、英国に来たときの彼は何一つ英語を話せなかった。必死で英語習得に取り組み、練習後に毎日最低2時間勉強していた

・2年前にイタリアのサンプドリアに移籍をした際には、今度は毎日4、5時間イタリア語を勉強し、4カ月後にはイタリア語を話した

・こうして現地の言葉でコミュニケーションができるからこそ、欧州のクラブチームで主将や副主将を任されている

・体のケアに対する意識も非常に高い。私の家に遊びに来ると、まず「ジム貸してください」と2時間トレーニングをして、プールで1時間クールダウン、最後にマッサージ、そしてようやく「焼き肉を食べに行きましょう」となる

・イタリア・セリアAのサンプドリアでの食事は基本パスタだが、吉田選手は3年前からグルテンフリー。小麦粉を摂らず、水も冷やさず、常温の水しか飲まない。内臓まで強くしないと、試合で走りきれないと考えている

 

サッカー選手として大ベテランの部類に入る34歳の吉田選手が、今なお続ける不断の努力。いや、励みになるなぁ。鼓舞されるなぁ。

危険なTさんのパンチをかわすために、自分も不断の努力をしなければ。
まずは軽快なステップを踏みながら、ホテル周りをジョギングだ!




2022年12月9日

面会制限は続くよ どこまでも

 

501号室 ○○さん 週2回」

502号室 △△さん 週3回」

503号室 □□さん 毎日」

 ナースステーションのホワイトボードに、こんな書き込みを見つけた。

 患者さんそれぞれに許されている、面会の回数だ。

そして面会がひんぱんに認められる人ほど、命の切迫度が高い人なのだ。

 

 この夏、病院では入院患者の面会が禁止になり、それが今も続いている。この3年間で、いったい何度めの面会禁止令だろう。

 この緩和ケア病棟だけ、週2回・1回15分の面会が認められている。

そしていよいよ看取り期に入ると、主治医の判断で、泊まり込みの付き添いがOKになる。

寝具を準備するのは、看護助手である私の仕事だ。

 

遠方から来て15分言葉を交わしただけで、そそくさと帰っていく患者の夫や妻、子どもたちを見送りながら、いつも「なんだかなぁ…」と思う。でもこの病院は、まだいい方らしい。

 1128日付読売新聞「医療ルネサンス・続・コロナ禍の傷痕」に、主治医に「明朝までもつかどうか…」と告げられて入院中の母に会おうとした娘が、「一切の面会は遠慮して」と看護師に断られるシーンが登場する。

「医療において、最も尊重されるべきは、患者の気持ち、意思、権利、尊厳ではないか。コロナ禍であれば、いのちが尽きようとしている患者でさえ、それらは後回しにされるのか」(29日付同紙より)

 

 友人の子どもが通う小学校では、文部科学省が強制も推奨もしていないのに、いまだに給食時の「黙食」が守られている。

 不登校の小中学生が過去最多を記録したという記事(1028日付読売新聞)によると、不登校の増加は、コロナ禍による学級閉鎖や「黙食」で、子どもが教員や友人との人間関係を作りにくくなっているのが影響しているという。

 

 家でサッカーW杯の映像を見ていたら、世界中から中東カタールに集った8万観客がスタジアムを埋め尽くし、マスクもつけずに絶叫していた。

 コロナ遥かなり。

一方この国では、病院の面会制限や学校での「黙食」を一律的に3年近く続けて、終わる気配さえない。マスクはもはや「顔パンツ」と化してしまった。

いったい、誰が何を根拠に決めたことやら。

患者の人権」「子どもの人権」が、自縄自縛の末に、消えていく。



2022年12月2日

時給907円の国

 

 入浴介助の合間に裸足で歩いていたら、看護師長がすっ飛んできた。

「ミヤサカさん、早く靴を履いて! 病院は病原菌だらけですよ!」

 そうかぁ。病棟の廊下はピカピカに磨き上げられて、わが家の廊下よりきれいそうだけど…

  師長さん、ご心配には及ばねぇ。私はいつも栄養十分、睡眠十二分。病原菌をことごとく撃退する、屈強な免疫力があるだよ。

 コロナ禍のせいかそれ以前からか、医療従事者は異常に(?)潔癖だ。

 消毒液ボトルを腰にぶら下げて、ワンアクションごとに手指消毒。

 それに加えて、病室に入る時は使い捨てゴム手袋を着用。

 ビニール製エプロンも、着用。

 そしてゴム手袋とエプロンは、患者さんひとりをケアしたら、即廃棄。

 マスクとゴーグルも着用。

 仰々しいったらありゃしない。

 そこまで患者さんをばい菌扱いしなくてもいいのに、思う。

 それに、病院がばい菌の巣窟というなら、いちばん患者さんの近くにいて、日々危険と隣り合わせ(?)の看護助手の時給907円は、安すぎやしないか?

 別にいいんですけど。

 

 労働運動や人権に詳しい斎藤幸平・東京大学准教授は、韓国にも抜かれ、主要7カ国(G7)でもイタリアに次いで安い日本人の平均賃金は「人権問題」だ、と言っている(以下、日経ビジネス電子版より要約)。

2009年から19年の10年間で、日本企業は売り上げはほとんど伸びていないのに、利益は5倍に増大した。つまりこの間、企業は「コスト削減」しかやっていない

・徹底的にコストダウンを推し進めた結果が、社員の給与が上がらないといった問題、各種ハラスメントのほか、外国人技能実習生や外国人労働者の問題につながっている

・海外では、児童労働や強制労働を助長する結果に

・この間に企業の株価は上がったが、利益が5倍に増えているのだから上がるのは当たり前。全体の富が増えない中で、弱者から強者へ富が移動しただけ

・企業は利益を求めコストカットし、生活の苦しい消費者は安い商品を求めるという負のスパイラルによって、労働者の暮らしや地球環境が犠牲になっている。これが豊かな日本の現実

 

 いっとき、医療従事者や宅配便ドライバーが「エッセンシャルワーカー」ともてはやされた。そういった職業ほど、特に給料が安い。

 看護師さんだって、盆暮れ正月も関係なく働き、夜勤も多い過酷な労働環境を考えれば、もっともらってもいい。

 ハワイで看護師になった知人は、年収1000万円だという。

Matsumoto Japan, Winter 2022


2022年11月26日

イカの塩辛

 

 緩和ケア病棟の患者さんは地元の人が多いが、中には首都圏からの移住組もいる。

 同じよそ者同士、何となくウマが合う。

 

K子さんは、95歳にして頭脳明晰。彼女の病室をのぞくと、いつもスマホでLINEのやりとりをしている。

90歳になるまで、自分でクルマを運転していたという。

K子さんは夫を見送った後、しばらく東京西郊で長男一家と同居していた。新宿で生まれ育った彼女にとって、その町は「な~んにもない田舎」。

数年前、ついに家を出て、それまで夏を過ごしていた八ヶ岳山麓の別荘で、ひとり暮らしを始めたのだという。

 ある日、病院食の薄味に飽きた彼女が「Tスーパーのイカの塩辛が食べたい」という。昼休みにクルマを飛ばして、都会的な品ぞろえのTスーパーを往復し、小鉢に塩辛を盛って差し出した。

「…これ明太子の味しない? 私が言ったのと、ちょっと違うのよね」

 

 いつもお洒落なTシャツを着たY子さんの病室のベッド脇には、分厚い「会社四季報」が鎮座している。

 株式投資をするんですか?と聞くと、

「個室に入ってることだし、入院費用ぐらい稼がないとね」

 Y子さん夫妻が首都圏から移住してきたのは、20年前。きっかけは、ご主人が「会社を辞めて、自転車で日本一周したい」と言い出したこと。その背中を、Y子さんはドンと押した。

「でも出発した日の夜、公園で野宿中に所持金を全部盗まれちゃったの。彼は人を疑うことを知らないから」

 そして移り住んだ標高900mの自宅からは、富士山と八ヶ岳、南アルプスが一望できるという。

 時おりパジャマ姿のご主人が、点滴棒をガラガラ引っ張って見舞いに訪れる。彼もまた、病気で下の階に入院中なのだ。

「次はクルマで一緒に日本一周しようと言ってたのに、ふたりとも病気になっちゃって…」

 Y子さん夫婦に、子どもはいない。

 

 週末を挟んで、久しぶりに病棟に出勤。先週まで一緒に風呂に入り、背中を流した元板前の男性患者が旅立ったことを知る。彼を含めて3つの部屋の主が、いなくなっていた。

 患者さんにお茶を淹れるためラウンジに入ると、「投資家」Y子さんの若い主治医が、テーブルを挟んでご主人と向き合っている。

「この前、Y子さんに残された時間はあとひと月、と申し上げましたが……今のご様子では今週中、という事もあり得ます……」

 

 緩和ケア病棟では、患者さんの病状が、たった1日でがらりと変わる。

 K子さんが所望するイカの塩辛のリベンジ、急がないと。

Itoman, Okinawa


2022年11月17日

看護助手、焼き芋屋になる

 

 ランチ休憩を終えて病棟に戻ると、いきなり看護師さん数人に囲まれた。

「ハイ、早くこの中に入って!」

 言われるがまま、車体に「やきいも」と大書された段ボール製軽トラックに乗り込むと、首に手ぬぐいを巻かれ、メガホンを手渡された。

「い~し、や~き、いも~♪ おいも~おいも~おいも~♪ は~やく来ないと、行っちゃうよ~♪」

 看護師さんが吹くオカリナに合わせて、歌わされる。

 なんだなんだなんだ! こんな業務、就業規則にあったっけか?

 担当医も一緒に、賑やかに廊下を練り歩き、焼き芋を病室に配って回った。

 すると、ここ数日、病院の食事には一切手をつけなかった504号室のカワベさんが、ふた切れを完食した。

 患者さんも嬉しそうだったが、気がつくと、自分がいちばん楽しんでいた。

 

再び「死にゆくあなたへ 緩和ケア医が教える生き方、死に方、看取り方」 アナ・アランチス著 飛鳥新社 より。

・医療スタッフは健康の分野で働いているのに、私生活では不健全で不幸せに陥りがち。病的なまでに人の世話をし、奉仕し、役立とうとしてしまうが、自分を大事にしないで他人に施していばかりいることは決して良いことではない

・人を助けることが自分の使命だと考える医療スタッフは、人に何かを与えるばかりで、人との本当のつながりを築くことはない。医療スタッフと患者の関係は、本物の人間関係ではない

・医療スタッフは患者の前では慈悲深い仮面を被っている。与えるだけで、受け取ろうとはしない。患者の真の人間性に触れることはできず、1日が終われば疲弊する

・他者に全人的なケアを施す仕事はすべて、まずは自分自身を、自らの人生をケアしてこそ意味を成す

・専門分野の研さんを積み、人間性を磨き、セルフケアを欠かさないこと。セルフケアでいつも自分自身のバランスを保つ必要がある。セルフケアなくして最善を尽くすことはできない

・自分を幸せにすることと、死にゆく人を支えることはつながっている

・よく生きるための最も簡単な秘訣は、次の5つを心がけること

 感情を表す

 もっと友人と過ごす

 自分を幸せにする

 自分のための選択をする

 人生に意味を成すために働き、仕事を目的にしない



2022年11月12日

がんばる or がんばらない

 

 急性期病棟から移って来たばかりの患者さん(70代男性)が、その翌日に亡くなった。

「そんなにがんばらなくてもよかったのにね…」

 先輩の看護師さんが、つぶやく。

 ここ緩和ケア病棟は、末期がんなどの人が積極的な治療をせず、痛みをコントロールしてもらいながら、残りの人生を豊かに過ごすための場だ。

その一方で、この患者さんのように、命が尽きるギリギリまで病気と闘う人もいる。

もし自分が彼と同じ立場だったら、果たしてどちらを選ぶのだろう。

 

「死にゆくあなたへ」 アナ・アランチス著 飛鳥新社

 イギリスの経済紙「エコノミスト」の調査で、「死を迎える環境が最悪の国」第3位にランクされたブラジル。その首都サンパウロで緩和ケア医として働く著者は、さまざまに思索する。

(ちなみに1位はウガンダ、2位はインド)

・人生に多くの選択肢があった人ほど、死を前にすると後悔の波に飲まれやすい。貧しく、生き抜くというただひとつの選択肢しかなかった人は、逆境の中でも最善を尽くしてきたという揺るぎない自信を持って最期を迎える

・ホスピスは2人部屋なので、患者が死を迎えた時、同室の人はそれを目の当たりにして、もうすぐ自分の番だと悟る。痛ましいようにも思えるが、隣の人の死を経験すると、死の瞬間は平和だという意識が生じる

・それまで多くの人を助けてきた人が、病院で独りぼっちになるのは珍しいことではない。結局その人がしてきた人助けは、どれも自分が安心するためのもので、他者との良い関係を築けていなかったということ

・誰かのために何かをする時はいつも、その人の幸せのためと信じているが、同時に自分の存在をその人の人生に投影したいという気持ちもある

・でも、他人の人生で重要な存在になるために自分の人生の時間を使うのは、歪んだ選択。自分が自分でいること、それを愛してくれる人がいれば、それこそが完全な幸せではないか

・誕生と死を分けるのは時間。人生とは、限られた時間の中での経験。1日が終わるのを待ち望み、週末や休暇が来るのを待ち望み、定年退職を待ち望むことは、「死」が早くやってくるよう望んでいることでもある

・まわりを見渡せば、“自分は永遠に生きる”と思っている人がたくさんいる。その幻想ゆえに、人は無責任で怠惰な人生を送る

・死とは、私たちが死ぬその瞬間に訪れるものではない。意識的に生きていなければ、日々死んでいるのと同じ

Aomori Japan, Autumn 2022


2022年11月4日

緩和ケア病棟にて

 

「ミヤサカさ~ん、504号室が空いたから清掃お願いね~」

 朝、出勤するなり、看護師長に声を掛けられた。

 ここ緩和ケア病棟では、患者さんの退院先は、その多くが天国だ。

 

 504号室の患者さんはひと月前、隣町の病院から転院してきた。最初は普通に話せたのに、昨日は下顎呼吸で、胸を大きく波打たせていた。

 夜勤明けの看護師さんによると、明け方、静かに旅立ったという。

 

主がいなくなった504号室のベッドやテーブル、テレビ周りを念入りに拭き掃除する。ランチ休憩から戻ったら、もう見知らぬ次の患者さんが入っていた。

 

 緩和ケア病棟は、他の急性期病棟に比べると、とても静かだ。

延命治療をしないので、心電図の電子音もない。

 そんな午後のひと時、ナースステーションから笑い声が響いてきた。

看護師さんは、全員が女性。炸裂するガールズトークの中には、とても入っていけない。


「看護師はステーションに籠ってないで、もっと患者に寄り添うべき。パソコンを持ち込めば、看護記録だって病室で書けるんだから」

500人のナースを率いる、ヤマモト看護部長が言う。

 最初はその通りだよな~、と思った。でも最近、考えが変わった。

 余計な治療をしない緩和ケア病棟は、一見、看護師の負担が少ないように見える。でも担当した患者に誠心誠意、尽くせば尽くすほど、やがて必ず訪れる死別の時が、とても辛いものになる。

 もしそんな辛い別れが、毎週のようにあるとしたら?

 この病棟の看護師さんは、あえて病室で患者と共に過ごす時間を制限することで、自分の心を守っているのかも知れない。

 患者とその家族という立場だった2年前、ナースステーションから聞こえる朗らかな笑い声に、とても慰められたことを思い出した。

 

 最近、大事なタスクを任されるようになった。

「コーヒーお飲みになりますか?」

午後3時、各病室を聞いて回る。今日の希望者は6人。

 もしかしたらこの一杯が、人生最後のコーヒーになるかも…

気合を入れて一杯一杯、丁寧にドリップして持っていく。

「あぁ、いい香り!」

沈みがちな患者さんの顔が、ほころんだ。

Fujinomiya Japan, Autumn 2022


2022年10月29日

看護助手というお仕事

 

 男子ロッカー室の壁に、こんな貼り紙を見つけた。

「心が疲れたとき、まず誰かに話しましょう!」

病院側が用意したメンタルヘルス対策で、希望すれば精神科医や臨床心理士と無料で話せるという。

心はぜんぜん疲れてないが、何しろタダだ。さっそく予約を入れた。

当日、相談室に入ると、見るからに優しそうな雰囲気の女性が座っていた。初対面なのに、この人になら何でも話せる、という気にさせる。「ザ・臨床心理士」みたいな人。

まるで催眠術にかかったように、看護助手として働いた半年間の出来事を、ペラペラしゃべってしまった。

・看護助手の募集に「年齢・経験・資格不問」とあったので気軽に応募した。実際は酸素吸入器の調整まで任せられるなど、想像以上に患者さんの生殺与奪を握る仕事だった

・各病棟によってしきたりが違い、ベテラン看護師の中には、自分のやり方への絶対服従を強いる人がいる。医師を頂点とする階層ピラミッドの最下層である看護助手は、ストレス発散のはけ口になりがち。かなりいびられた

・入浴介助当番の日は、朝から夕方まで連続20人の寝たきり患者さんを風呂に入れる。時間に追われて、まるで自分が「人体洗浄マシーン」になったよう

・「夜勤明けなのに、午後になっても帰れない」という、看護師の悲鳴に似た声を聞いた。現場は慢性的な人手不足

・忙しさに加えて、上司の看護師さんがきつい人で大変だった時、看護部長が親身に話を聞いてくれ、適切な配置転換をしてくれた。また、病院の他に自然学校でも働いていたので、元気な子どもと遊べたことも救いになった

・他に本業があるならともかく、看護助手の時給909円だけで食っていくのはムリ。仕事の大変さ、待遇の悪さは地元でも知れ渡っていて、知り合いに「まだ辞めないの」「早く辞めな。体を壊すよ」とせっつかれる

 

 この日面談してくれた臨床心理士Tさんは、私の話を「外部の眼から見た病院の実情」として、病院幹部が出席する会議で報告するという。

 Tさんは、フリーランスの臨床心理士。こうして医療従事者のケアをする他に、小中高校のスクールカウンセラーや、大学生との面談も行っている。

彼女によると、コロナ禍の長期休校やマスク、黙食は、子どもの人間関係に深刻な影響を与えていて、不登校が増えるのは「むしろこれから」だという。

 

心はぜんぜん疲れてないけど、またおしゃべりしに来よう!

何しろタダだし。

Omotesando Tokyo, October 2022



2022年10月21日

B級観光旅行

 

 旅行会社に勤める友だちが、鉄道150周年記念のJRフリー切符をくれた。

 150年に一度の、たいそうお得な切符だ。この切符で行ける限り、一番遠くまで行ってやれ!

 ということで、青森に来てみた。

 北へ向かう金曜日の東北新幹線「はやぶさ」は満席。青森市内のホテルは、チェックインに長蛇の列ができている。

同じことを考える人が、他にもたくさんいるようで…

ホテルを予約する時、ビジネスホテルの狭苦しい部屋が、どの旅行サイトでも1泊2万円をつけていた。同時期に始まった「全国旅行支援」も、青森枠はあっという間に売り切れてしまった。

秋の紅葉シーズン+待ちに待った全国旅行支援がスタート+地域限定・期間限定のお得なJR切符が発売=東北に観光客が押し寄せる、の図。

株式市場に、「人の行く裏に道あり花の山」という有名な言葉がある。

旅行でも人の裏をかかなければ、人混みに揉まれに行くだけのようだ。

 

在住アメリカ人の東洋文化研究家・アレックス・カー氏が、日経ビジネス電子版で「日本よ、B級観光から脱せよ」と説いている。

果たして、そのココロは…?

・日本は「B級観光」という安売り観光に落ちている。つまらないビジネスホテル、つまらないものが適当に出される温泉料理。「安ければいい」という悪循環に入り、B級で満足している

・かといって「A級」が富裕層向け、というわけでもない。一晩5万、10万円というホテルは不自然

15000円から2~3万円くらいの値段で、それなりにきれいな施設に泊まれるのが「質がいい」ということ。質の良い宿泊、質の良い料理、それがA

・少し奮発して一晩星野リゾートに泊まってみれば、目が肥える。いいものはこういうものだとわかる

・世界で一番行きたい国はどこかを聞いたアンケートで、日本は第1位になった。「日本に行きたい」という潜在的なニーズは大きい。日本のように宗教や芸能、芸術が生き生きと残っている国は、アジアの中でも少ない

・ホテルや旅館、温泉に行けば、客へのサービスがとても気持ちよく受けられる。これは、他の国ではなかなかできない経験

・それなのに、新型コロナの第7波で1日20万人の新規感染者が出た「感染大国」日本が、ワクチンを3回受けてPCR検査もクリアした人たちが海外から来るのを怖がっている

・約6500万人の観光客を受け入れていた中国が、(ゼロコロナ政策で)完全に鎖国している今こそ、日本はインバウンドを取り込む大チャンスだ



2022年10月14日

知られざる世界と、母の愛

 

「今日のマツタケご飯は、きれいな焦げ色がつきましたよ」

 4軒ほど隣に暮らす社長のお宅に、お呼ばれした。

 社長は最近、料理に凝っている。ご馳走になったのは、マツタケがゴロゴロ入った炊き込みご飯とに、日高昆布の香り高い、澄まし汁。

 たまに東京から奥さんがやってくると、

「あなたの料理はコストを度外視している」

 そういって怒るのだそうだ。

 コスト度外視、大歓迎です!

社長は独立系ITコンサルタントだ。官公庁や大企業がITシステムを導入する際に、第3者の立場から、受注した企業が作った見積もりを査定する。

 ものすごい額のお金が動くようだ。

 ある時社長は、受注先が出してきた見積もりを「割高である」と評価した。契約は流れ、その会社の役員全員のクビが飛んだ。

 それからしばらくの間、ひとりで夜道を歩けなかったという。

 社長には大学教授の経歴があり、著書もある。

「苦労して専門書を書いても、せいぜい100万円にしかなりませんよ」

 その代わりに著書を出せば、あちこちから講演依頼が舞い込む。

 その講演料が、1回100万円だそうだ。

 知られざる世界。

 

時々、思い出したようにメールをくれる東京時代の友だちは、二児の母。

 ある日、夜勤を終えた彼女が居間でへたり込んでいると、小学生の長女がキッチンに立ち、カップラーメンを作ってくれたという。

 つま先立ちしながら湯を沸かし、自慢の腕時計を真剣にのぞき込んで、きっちり3分、計った。はい、ママ! 手渡そうとした、その瞬間。

カップラーメンは倒れ、中身をテーブルにぶちまけた。

 母を労わる優しさは立派に育まれたが、最後の詰めが甘かった…

がっくりと肩を落とす長女。

母、とっさに、散乱した麺を素手でかき集める。

「わおー! セーフ!! ありがとー!!!」

 陽気に言いながら、麺を容器に戻した。

汁はほとんどこぼれて、フローリングの床に池を作っている。新しく容器にお湯を足し、薄口しょうゆと顆粒出汁で味をつけた。

とってもおいしいよ!

満面の笑顔で、微妙な味のカップラーメンをすすったそうだ。

母の愛は、海より深い。

最近は、子どもが何をやってもかわいくて、早くもおばあちゃんの境地に達した、という。




2022年10月8日

稲穂の国で

 

 東京から移住した知人の田んぼで、稲刈りをさせてもらった。

 鎌を手に中腰になって稲を刈り、束にしてひもで結ぶ。

残暑の田んぼで、延々とこの作業を繰り返した。

 覚悟はしていたが、想像以上にキツイ!

ものの1時間であごを出し、腰をさすりながら木陰に逃げ込んだ。

 すぐ隣では、稲刈り機(バインダーというらしい)が快調なエンジン音を響かせながら、田んぼを往復している。見ていると稲を刈り、束にして、ひもで結ぶところまで自動でやってくれる。

 あっという間に、稲の束が積み上がっていく。

これぞ、「稲穂の国」ニッポンの匠の技。機械力は偉大だ。

つくづく、江戸時代の農家に生まれなくてよかったと思う。

 

日経ビジネス電子版に、解剖学者・養老孟司さんのインタビューがあった。

養老さんの知人が、学校になじめない子を引き取って農業をしている。中には注意欠如・多動症(ADHD)など発達障害の子もいるが、その知人は「畑に連れていってしまえば、多動もくそもないよ」と言うそうだ。

・教室の中だと多動が目立つが、畑なら全然目立たない。田舎で育って、畑にいたら誰も気にしなかったのに、「きちんとしなさい」と座らせようとするから気になる。それができないからといって、別に異常なわけではない

・社会がある一定の形を取ると、そこに適応できない人が出てくる。それをどうするかは、社会を「きちんと」作っていくほうの人には関係ないので、あとはボランティアが何とかするしかない。セーフティーネットが欠けている

「きちんとした」現代社会は、かくも生きにくい。ではどうすれば?

 養老先生の考えは、

・「今現在の自分」を絶対視しない。それを、大人が子どもに教える。「僕なんか84歳までにどれだけ変わったか」

・それを妨害するのが、「個性」や「自己」を重視する今の風潮。いくらその人らしくしてみたところで、いずれ変わってしまうのだから、らしくなくなっても別にいい

・お坊さんもそう言うはず。仏教では昔から「我というのを避ける」と言っている

また、養老先生はこんな指針も紹介している。

・自殺の引き金にもなる「うつ病」にならないためには、「居心地の悪いところから立ち去る。資質に合わない努力はしない」

 

 本能的に⁉、この言葉を座右の銘にして、半世紀余。

「居心地のいい場所」「資質に合う生業」を求めて、迷走の旅は続く。

…とりあえず、農業はライフワークでないことを再確認!

(写真と本文は関係ありません)





2022年10月1日

白衣の天使はおっかない

 

 看護師さんは、白衣の天使。

看護助手を3日もやると、そんな幻想は木っ端みじんに粉砕される。

 4階西病棟で、ベテラン看護師Sさんと一緒に入浴介助をした時のこと。

一人ひとりの入浴が終わる度に、シャワーベッドを洗剤で洗うのだが、感染性疾患の患者の場合は、さらにハイター消毒する。

ハイターは塩素系だ。目に入ると危険でさえある。だからハイター消毒した後、寝台を入念に水洗いした。そうしたら…

「そんなことしちゃ意味ないじゃないの!」

 いきなり大目玉を食らった。

 でも翌日ペアを組んだ看護師さんは、ハイター後は水洗いしろと言う。

「昨日の看護師さんは、洗っちゃダメだと…」

「人それぞれやり方があるから、その人に従って下さい」

 また別の日の看護師さんは、私がベッドメイクしたばかりのシーツをいきなり引っぺがし、床に投げ捨てた。

「このベッドはシーツ交換いらないの!」

 休憩を挟んで、午後の職場は5階にあるPCU(緩和ケア病棟)だった。ピリピリした雰囲気の4階西病棟と違い、PCUのナースステーションは、いつ行っても笑い声が絶えない。

「またヨンニシでいじめられました…」

私がつい愚痴をこぼすと、PCUの看護師さんたち、ゲラゲラ笑っている。

 笑いごとじゃないっつーの!

 

・「この歳になっても給料が全然上がらない」(40代の看護師)。看護師の賃金は、若いうちは夜勤の分だけ相対的に高いが、40代で理学療法士や作業療法士、放射線技師に抜かれる

・国内の病院の7割は赤字経営。最新医療機器への設備投資などが重くなりがちで、賃上げの余裕はない

・「日勤で残業をして、その日の夜勤に入るような働き方だった。土日も盆も正月もなく、心身ともに疲れ果てた」。免許はあるが離職して現場を離れた「潜在看護師」が70万人いるが、その多くは所在不明で、連絡すら取れない

・看護師の約7割が、なんらかの健康不安を抱える。このままでは人命を預かる緊張と不規則な長時間労働の重圧に耐えきれず、影響が患者に及びかねない

 日経ビジネス電子版のこの記事によると、看護師の離職率は年10%超。そして、潜在看護師の多くが「戻りたくない」と言っている、という。

 ウチの病院では、PCUの看護師さんだけが笑顔。白衣の天使率が高い。

末期がん患者を優先的に受け入れ、積極的な治療をしないPCUは、看護師さんの精神衛生にいいのかも知れない。

いずれ受け持ち患者との死別が避けられない、としても…



2022年9月23日

二刀流を育てる

 

 昨年、投手と打者の二刀流で米メジャーリーグMVPに輝き、今年も大活躍の大谷翔平選手。その大谷選手を輩出したのが、岩手県の花巻東高校だ。

同校野球部の佐々木洋監督は、以前は野球関連の雑誌ばかり読んでいた。ところがある時、試合で思うように勝てなくなった。

「自分自身が変わらなくては」。佐々木監督はそれらを全部捨て、代わりにビジネス誌を読み、東京に経営者の講演を聞きに行って、経営を学んだという。

(以下、日経ビジネス電子版より佐々木監督インタビューのエッセンスです)

・野球で一生メシが食べられるのは、ほんの一握り。野球がうまくなることだけに高校生活を費やすのは無駄。筋肉は年を取れば落ちるが、知識や知恵は一生使えるだから、野球以外の道へも導く

・野球をやるために花巻東に来た子の成績があまりに良かったので、「なんでうちの高校に来たんだ。進路選択を間違えているぞ」と言って東大受験を勧めた。彼は2浪して合格した

・アメリカンフットボールの道に進む子もいる。彼はめちゃくちゃ足が速く、体もでかいので「アメフトでなら、一流大学に進学できる」と説得した

・指導者の仕事の一番の肝は、生徒の個性を見極めて、意識と意欲をその個性が伸びる方向に導いてあげること

・趣味は盆栽。枝の張り具合を観察し、それぞれの良さを生かすようにワイヤーを掛けたり、外したりして成長を導く。適切な誘導が必要なのは人間も同じ

・東北のチームは雪でグラウンドが使えない時、「下半身を作る」と走り込みをしていた。うちでは走り込ませない。走って痩せたら、体が出来ないから

・大谷には、1年生のときに食事量を増やしてもらった。2年生に上がるときには、入学時より体重が20キロ増えた

・東北の子にもともと野球の才能がないから、強豪校が生まれなかったのではない。「常識」に惑わされ合理性を欠いた指導の下、才能を潰されていただけ

・大谷は自身の二刀流について、非常識なことをしているとは思っていない。小学生の頃の延長でプレーしているだけ。むしろ指導者たちが非常識すぎて、打者か投手のどちらかしかさせず、才能を失わせてきたというのが野球の歴史

・才能を伸ばすのは難しいけれど、才能を潰すのはたやすい

・私に大谷を育てる力があるなら、毎年、大谷のような選手を出しているはずだが、現実はそうではない。あれだけの逸材を育てることなど、私にはできない。ただ、できるだけ才能を潰さないようにと考えてきた

・「米国で二刀流をしたら、たくさん叩かれるだろうが、おまえが開拓者になれ。新渡戸稲造のように太平洋の懸け橋になれ」と彼の背中を押した

人間力だとか心の野球だとか、そんなことを口にする指導者のことが、へどが出るほど嫌い。試合に勝つことと、生徒を育てること。そのどちらも達成するのがプロフェッショナル。指導者の自己満足なんていらない



2022年9月16日

おらおらナントカ

 

「この病院に、本はあるかね」

「ハイハイ、ありますよ~」

「ほれ、あの、おらおらナントカいう本」

「ハイハイ~」

 入院生活の長いYおばあちゃんの要望に応えて、看護助手のKさんが、ラウンジの本棚に走る。

「ハイ!」

Kさんが手渡したのは…

ふた月も前の、くたびれた「週刊女性自身」だ。

 呆然とした表情で、派手な表紙を見つめるYさん。

 いくらなんでも、それはないでしょ!

 

 その夜、「おらおらナントカ」という言葉を手掛かりに、ネット書店を探してみた。

「おらおらでひとりいぐも」 若竹千佐子著 河出文庫 という本がヒット。

これかなぁ。さっそく取り寄せて、Yさんに手渡す。

 翌週、Yさんはめでたく退院。非番だった私に、丁寧なお礼の手紙を残してくれた。

 

「おらおらで~」は、夫に先立たれてひとり暮らす「74歳の桃子さん」の日常が、東北弁を交えて描かれている。岩手県遠野市の主婦、若竹千佐子さんが、60歳すぎてから書いたデビュー作だ。

いきなり芥川賞を受賞し、田中裕子主演で映画化もされている。

そして先週、「リベラトゥール賞」というドイツの文学賞を受賞した。

 

小説の主人公、桃子さんの内なる声は、こんな風に書かれている。

「おらがどん底のとぎ、自由に生きろと内側から励ました。あのとぎ、おらは見つけてしまったのす。喜んでいる、自分の心を」

「んだ。おらは周造の死を喜んでいる。そういう自分もいる。それが分がった。隠し続けてきた自分の心の底が、ぎりぎりのとぎに浮上したんだなす。不思議なもんだでば、心ってやつは」

「おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我れの力で生きでみたがった。それがおらだ。おらどいう人間だった。なんと業の深いおらだったか。でもおらは自分を責めね。責めではなんね」

「周造がくれた独りのときを無駄にはしない。そう思って生きてはきたが、ときどき持ち重りがするよ。独りは寂しさが道連れだよ」

 作品の大切な要素である東北弁を、苦心してドイツ語訳した人にも拍手!

著者の若竹さん自身、55歳の時に、夫を病気で亡くしているという。



2022年9月9日

生老病死の風景

 

 多岐にわたる看護助手の仕事のひとつに、入浴介助がある。

 患者さんをベッドごと浴室に運び、寝間着を脱がせて髪と体を洗い、横になったまま入浴できる「シャワーベッド」という装置に入れる。

その間に、すばやくベッドのシーツ交換。

 週2回の入浴日には、朝から夕方まで20人の患者さんを、連続してお風呂に入れる。夏の浴室は蒸し暑く、まるでサウナで筋トレしているよう。時間との戦いでもある。

 防水エプロンで全身を覆うのだが、看護師さんが「カンセン」と呼ぶ病気の人の時は、エプロンを二重にし、N95型高性能マスクとゴーグルで顔を覆い、両手にゴム手袋をはめる。

 この4階西病棟は、以前いた3階南病棟より、さらに重篤な患者さんが多い。気管切開で喉に穴が開いた人、お腹に胃ろうの穴が開いた人、尿道に管を入れている人、顔全体が酸素マスクで覆われている人…

 植物状態の人もいる。患者さんの多くが、呼びかけても反応がない。

 隅に置かれた大きなゴミ袋が、うんち入りの紙おむつで、すぐいっぱいになる。充満する糞尿の香り。最初から最後まで、「イタイ!」「コワイ!」「アツイ!」と叫び続ける患者さんもいて、最初はかなり戸惑った。

 うんちが肛門を塞いでいるとみるや、看護師さんがゴム手袋をはめて、「摘便」という処置を行う。肛門に指を入れて、直腸のうんちをかき出すのだ。

「ハイ、笑って~!」「笑って!」

 看護師さん2人がかりで、大きな声で患者さんに呼びかける。

お腹に力を入れてもらうため、なのだが…

お尻に指を突っ込まれたこの状況で、笑える人がいるのかな。

 

そして、次々に運ばれてくる患者さんの中には、仏さまも混じっている。

「背中洗いまーす、横向いて下さいねー」

看護師さんが表情も変えずに、声掛けしながら入浴させるので、最初は気がつかなかった。でも途中で、死に化粧担当の看護師さんが入って来て、口や鼻に綿を詰めていく。

やせた体に、まだ温もりが残っていた。

先日は、最後の患者さんが仏さまだった。体を洗おうとしたら、ご家族(娘と孫)が、ふだん着の上に防水エプロンをつけて入って来た。

そのお孫さんは、最近看護師になったばかりだという。

てきぱきとした手つきで、天国に旅立ったおばあちゃんの体を清めていた。

 

生老病死の最終章を垣間見た、その翌日。

自然学校の仕事で、子どもたちと木登りをした。

夏の陽光を浴びた小さな命が、いつも以上に輝いて見えた。



2022年9月2日

SUMMER CAMP ! ④~続・ナナのプライド

果てしなく遠く思えたロープウェイ駅が、霧の中から姿を現した。行きかう人も増えてきた。

すると…

KO寸前のボクサーみたいな足取りのナナが、リュックを自分で背負う、と言い出した。辛うじて他人の目が、彼女の気力をつなぎ止めている。

ロープウェイに乗って山麓駅に下り、愛車の助手席にナナを乗せて、本隊のバスを追いかける。

「きのうナナが買ったお土産はどこ?」「まりさんがちゃんと預かってくれてるよ」「よかった!ママにお菓子とキーホルダー買ったんだ」

 上機嫌で話し始めたナナに、ホッと胸をなでおろす。左カーブを曲がって、ふと助手席を見ると…

またオエ~ッとやっている。

「ナナちゃん…」 クルマのことは気にするな!どうせ安い中古車だ(涙)

 路肩にクルマを停めてナナを休ませながら、ようやく駅にたどりた時には、本隊を乗せた列車はとっくに発車した後。予約なしで乗った1時間後の特急は満席で、仕方なくデッキの床に陣取った。

ナナはまだ、吐き気が収まらない。小さな体から、1リットルぐらい、水分が抜けてしまったかも。

 最初はそっけなかった車掌さんも、ナナを見て顔色を変えた。「予約済なのに乗客が来ない指定席2席」に案内してくれた。

やっとありついた、ふかふかシートに寝かせると…

 ナナのバッテリー残量、ついに0%。

 列車が中野駅を通過し、「ナナちゃん、起きて!新宿に着くよ!ママに会えるよ!」いくら体をゆすっても、目を開けてくれない。

駅で待つママに電話して、「特急あずさ到着ホーム、7号車乗降口」まで来てくれるよう頼んだ。

 ママは、幼い弟の手を引いて現れた。清掃が始まった車内に駆け込み、呼べど叩けど、ナナは微動だにしない。彼女をママがおんぶし、弟と荷物は私が引き受けて、夜逃げした家族のようないでたちで、ホームに降りた。

 エスカレーターに乗ってから降りるまでの間に、ナナの様子を手短かに話し、飲み物が喉を通るようになったらたくさん飲ませて、とママに伝えた。

 雑踏の中を、夜逃げ家族がタクシー乗り場に急ぐ。

すると…

ママの背中から、か細い、でも毅然とした声が聞こえてきた。

 「いま何しゃべってたの?」

 

※ナナは自宅でひと晩、死んだように眠り、翌朝起きてからは全くいつも通り。キャンプがとても楽しかった、と話しているそうだ。子どもって、いきなり電池切れするけど、フル充電も早い! 




2022年8月26日

SUMMER CAMP ! ③~ナナのプライド

 

 サマーキャンプ最終日、子どもたち全員で北横岳(2480m)に登った。

霧が渦巻く頂上でおにぎりを食べ、早々に下山にかかる。

 いちばん後ろを歩いていたら、ピンクのリュックを背負った子が、登山道にうずくまっているのが見えた。

 ナナ(小2)だ。

 お腹が痛い、という。

 リュックを預かり身軽にして、しばらく休ませる。

「ゆっくり下りられる?」と聞くと、

うん、うなずいて歩き始めた。

そして、いくらも行かないうちにしゃがみこみ、嘔吐した。

今日までテントに泊まりながら、初対面の上級生たちと3日間を過ごしてきた。しかも、ナナにとって初めての、本格的な山登りだ。緊張の連続で、疲れもピークに来ていると思う。

幸い、あとは下るだけ。一歩ずつ足を前に出せれば、そのうちロープウェイ駅に着くよ。

水で口をすすがせて、頃合いを見て「さぁ、もう少し下りようか」と言うと、フラフラと立ち上がった。

それからは、数分歩いてはしゃがみこんで嘔吐、の繰り返し。手でお腹を押さえ、顔は涙でグチャグチャ。自慢のノースフェイスのウェアも、汚れてしまった。

先を行く子の「ヤッホー!」という元気な声が、次第に遠ざかっていく。

後ろから、「関西のおばちゃん風軍団」御一行が、おしゃべりしながら近づいてきた。ナナを見たリーダーが、ふと立ち止まる。

そして振り向きざま、軍団のメンバーに指示を飛ばした。

「サトーさん、この子にウェットティッシュあげて!」「ヤマダさん、経口補水液ね!」「誰か、塩分タブレット持ってたよね⁈」

お約束の「飴ちゃん」はもちろんのこと、痒い所に手が届く応急処置グッズの数々を頂いた。

関西のおばちゃん風軍団は、歩く保健室だ。

 そして、「お父さんもガンバッテ!」と声を掛けて、去って行った。

 ナナの本物のパパは、たぶん30代だろう。でもありがとうございます。

東京に帰るJRの発車時刻が、刻一刻と迫ってきた。ケータイの圏内に入った時に、本隊のまりさんに状況を話して、ナナを待たずに下山するよう伝えた。

するとその時、へたり込んでいたナナが、突然顔を上げた。

「いま何しゃべってたの?」

ひとりだけ遅れてしまった自分のことを、みんなに知られるのが気に入らないらしい。

ナナは推定体重19キロ。さっさと背負ってしまえば、みんなに追いつけるかも。でも、何度「おんぶしようか?」と言っても、首をタテに振らない。

   (続く)



2022年8月19日

SUMMER CAMP ! ②~ママに会いたい

 

 ふと気配を感じて、うっすら眼を開けた。

パジャマ姿の女の子が、枕元に立っている。

 まるで小さな妖精だ。

 夢なら覚めないで…

 だんだん目が慣れて来たら、1年生のアオバだった。

 パジャマ姿の子どもって、本当にかわいい。昼間はわがままなアオバだけど、パジャマを着るとかわいい。

 毎朝こんなふうに起こしてもらえたら、人生バラ色だなぁ。

 

  何しろ子育て経験がないので、2泊3日のサマーキャンプは、サプライズの連続。夜、脱衣場で着替えを手伝っていると、半分ぐらいの子が、パンツをはいたまま風呂に入っていく。

これって普通のこと?

そして1年坊主まで、「ドライヤーはないの?」ときた。

 テントで寝る夜の森は、子どもには相当なチャレンジだ。日中はあんなに元気だったアカリが、「ママに会いたい~」と号泣する。

さらに夜半、シカの群れが近づいて「ピーッ」と鋭く鳴くものだから、おびえて泣く子が続出した。

この夜は幸い、おねしょ事案は出なかった。以前、男の子がうんちを漏らした時は大変だったらしい。

そうかと思えば、わが超マイペース1年生コンビ、コースケとユキヒコは、テント内を寝袋でゴロゴロ転がりながら、朝まで爆睡!あきれるほど大物だ。

虫を極端に怖がる子もいれば、視界に入った虫を、すべて叩き潰さないと気が済まない子もいる。

3年生のモモカが、黒ゴマより小さな虫をサラダの中に見つけて、「取り換えて!」と言ってきた。

モモちゃん。ぼくが育った昭和の日本ではね、ラーメン屋でスープに赤ちゃんゴキブリが浮かんでいても、れんげでどけて、おいしく飲んだもんだよ。

ひとりでトイレに行けない子。自分で歯磨きができない子。食物アレルギーを持っている子もいるし、薬の管理が必要な子もいる。

2泊めはひとりで20人の面倒を見たので、けっこう忙しかった。

たった3日間でも大変なのに、ワンオペ育児のママは1年365日、働きながらこれをやってるのか…

 

森でロープブリッジをしている時、レンタロウがトイレに行きたいという。「トイレは遠いから、そこらでやっちゃいな」と言うと、「そこらってどこ?」突っ立ったまま、ポカ~ンとしている。

都会っ子は、立ちションしたことないのかな。



2022年8月11日

SUMMER CAMP ! ①~ぼくトイレ

 

 都会の小学生が、北八ヶ岳の森に集うサマーキャンプ!

晴れて、3年ぶりに再開される。

今夏はコロナの影響が残り、40人×3泊4日×8コースを20人×2泊3日×3コースに、大幅に縮小して行われる。「これじゃ赤字になるだけよ!」と、上司のまりさんはいう。

でも人数が少ない分、じっくり子どもと関わることができるから、楽しみ。

 

 そしてキャンプ初日。猛暑の東京から、子どもたちを乗せたバスが着いた。

わが3班は、コータロー(4年)、ワカ(3年)、ハルカ(2年)、コースケ(1年)、ユキヒコ(1年)の5人だ。

むむ、1,2年生が3人も! 今年はなかなか大変そう。

 昼食後、さっそく霧の森に入る。ロープブリッジ、ボルダリング、綱渡り、ロープとヘルメットで大木を登る木登り、オリエンテーリング、火をおこして飯盒で米を炊き、まな板で野菜を刻むBBQ、ドラム缶風呂、テント泊…

 思い切り遊び、食べるうちに、みんなの性格が見えてきた。

 最年長のコータローは口数こそ少ないが、いつも穏やかな笑顔。BBQでは率先して野菜を切り、鍋を洗ってくれる。でも班対抗オリエンテーリングでは、一転して闘志むき出し。班を離れて猪突猛進し、危うく行方不明に。

 ワカは「何か質問ある?」と聞くと、真っ先に手を上げるタイプだ。オリエンテーリングでは、1年生をかばって歩く優しさもある。でも、とにかく食いしん坊。私のおかずまで平らげた挙句、「夜食におにぎり作って!」だって。

 ハルカは、何をやっても「すごく楽しい!」「おいしすぎる!」とポジティブ発言をしてくれるムードメーカー。そして、かなり勝ち気な子だ。根性で高さ20mのカラマツを登り、「私がいちばん高く登ったよ!」と絶叫した。

 そして問題は…やっぱり2人の1年生だった。

初日に「班長やりたい人、手を上げて!」と言うと、全員が勢いよく「ハイ!」と挙手。そこで民主的にジャンケンで班長を決めたのが、運の尽き。

よりにもよって、コースケが勝ってしまった。

 その後3日間、集合のたびに「班長、点呼して!」と叫んでも、いつも揃わないのがわが班。肝心のコースケが、どこかに行っちゃってるのだ。

 そして、コースケに輪をかけてマイペースなのが、ユキヒコだった。

20人全員が集合を終えて、さぁ森に向かって出発だ!という時。

あるいは、みんなで食卓を囲み、箸を手に「さぁ頂きます!」という時。

絶妙のタイミングで、必ずユキヒコが言う。

 「ぼくトイレ」

 

 かくいう私も、「団体行動?そんなのク〇喰らえ」タイプなのだが…

 彼には、負けた。



肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...