2016年12月31日

フリーランサー2年目の備忘録


 2016年も、あと数時間で終わり。だらだらした南国タイでの年越しと違い、きちんと1年を振り返る気になるから不思議だ。

以下、フリーランサー2年目の備忘録。

 今年最大のトピックは、夏を中心に102日間、信州の山荘で過ごしたこと。涼しさを通り越して、肌寒いほどのひと夏になった。

リオ五輪は、はるか別世界のできごと。静かな森を歩き、セネカ、プラトーン、ソロー、新渡戸稲造、司馬遼太郎を読んだ。

元ジャンボ機機長、マダガスカル駐在大使夫人、ネパール盲学生支援者ら、森の住民たちとの出会いもあった。

 国外滞在は、1~3月に計76日間。去年(86日間)より少し短くなった。タイを拠点にラオスとミャンマーを訪ねた後、大学山岳部の学生たちとヒマラヤ山麓を歩いた。

「再会の年」でもあった。

33年ぶりに、高校山岳部の仲間たちと会う。8月には、パリ日本人学校時代の同級生と、37年ぶりに会うことができた。

消息不明だった私を、探し当てた友に感謝。SNSの威力を思い知る。

春と秋は、関東の城下町でボランティア。障がい者や高齢者をクルマで病院送迎、貧困家庭の子の塾講師、在住外国人の日本語教師、の3本立て。

車いすの人を病院まで送ると、診察を受けても薬をもらっても、会計を素通りする。障がい者の多くが高齢者、かつ生活保護の受給者で、代金を支払う必要がないことを、初めて知る。

学びの面では、近所の大学で「多文化共生ワークショップ」(日本語教師養成講座)を受講。「病院ボランティア養成講座」にも通った。

収入と支出について。昨年は失業給付があり、前の会社からボーナスも出たので、150万円の収入があった。今年は、社会福祉法人からの給料が5万円。もうひとつの有償ボランティアと合わせて、合計年収23万円。ラオスの一人当たりGDPと同じで、国内中心の暮らしには少し足らず、日本国債を売って充てる。

 退職後しばらく、税金と社会保険料は現役時代と同じ額を「惜しみなく奪われて」いた。この夏ようやく、実際の所得に見合った額になった。

  さて明日から新年。フリーランサー3年目の抱負は? 愛読する社会学者・河合薫のブログに、ミドルが大切にしたいこととして、こんな言葉があった。

「他者のまなざしに頼らず、他者から笑われてしまうようなことであれ何であれ、自己の内面的世界を頼りにする」

「社会的欲求とか、他者からの評価とか、他者との競争とか一切関係ない、自らの価値。そこまで自己を切り離して、きれいな欲求を持つ」

 2017年、きれいな欲求を持って日々を過ごしたい。




2016年12月22日

流動客調査員


 革ジャンの腕に腕章を巻き、師走の街角に立つ。

カチカチと、手にしたカウンターで人を数える。

その名も「流動客調査員」。

商工会議所が、昭和40年代から行っているこの調査。マンウォッチングができて日当も出るので、応募してみた。

学生のころ冬山でビバークし、報道カメラマン時代は立ちっぱなしで張り込みをした。私にうってつけのバイトだ。

割り当てられた場所は、駅から徒歩数分の銀行前。折り畳みイスが支給されたが、MBTを履いて6時間、ずっと立っていた。

なにぶん小さな街なので、すぐ知った顔に会う。この仕事、地元の人はやりにくいかも知れない。引っ越して2年の私でも、いろいろ出くわした。

そこを行く色黒の男は、ハニー。日本語教室に来るインド人だ。24歳、厳格な菜食主義者。虫も殺さぬ優しい顔立ちながら、今日はかわいい日本のガールフレンドを連れている。

 彼は私に気づかない。デートの邪魔をしては、とこちらも声を掛けずにいたら、目の前を3度も、行ったり来たり。こちらが透明人間になったよう。

 次に会ったのは、中学生のKくん。彼は、私がボランティアをしている学習塾の生徒だ。「鱈」「鱚」「鰈」、魚偏がつく漢字は次々書けるのに、英語はぜんぜんダメ。受験には向かないタイプ。

黒い制服姿で、おしゃれな美容室の前をウロウロしている。かなり挙動不審だ。私がじっと観察していても、まったくお構いなし。

そのうち、カットを終えた女性が出てきた。優しい笑顔は、お母さんらしい。

肩を並べて帰って行く、その後ろ姿を見送った。彼の家は、母子家庭だ。

午後3時、知らない男の子に「おはようございます!」と、あいさつされる。

すれ違いざま、別の子に「変なおじさん!」と言われる。

夕方、ボランティア仲間のおばさまが歩いてきた。今度は私に気がついた。伏し目がちに近づき、唐突に「忘年会出る?」と言って、そそくさと去って行った。

そんなにひと目をはばからなくても・・・

カウンターの数字を見ると、通行人は1時間平均で800人ほど。6時間で5000人が、それぞれの用事を抱えて、通り過ぎて行った。

道の奥にドンキがあるので、黄色いレジ袋を手に下げた人が多い。ここにシャンゼリゼや表参道の絢爛さはないが、道行く人の人生が垣間見れて、楽しかった。

調査の過去データでは、駅前の人出は年々、減少している。この夏、5階建ての商業ビルが閉鎖された。東京から転入してきた知人(3児の母)は、「駅前なのにパンツ1枚買えない」と嘆いている。


今日の調査を、活気ある街づくりに生かしてほしい。

やがて冬の陽が陰ると、人通りが途絶えた。最後の1時間は、寒さがこたえた。

風のない日でよかった。




2016年12月11日

○▲×■!


 東京で働く友人が、超満員の通勤電車(女性専用車両)で、一触即発の場面に遭遇した。10数分間に2度、別々の方向から罵声を聞いた。

「いてーよ、オバサン」

「ふざけんなババア、いてーんだよ」

 圧死しそうなほどの混み方で、かなり不快を感じていたのだろう。でも、これが女子の口から出た言葉かと思うと、怖い。

 ついでに思い出した。新聞社の編集局にいた頃、同期から聞いた話だ。

 深夜、いよいよ最終版の締め切りが迫る時間帯。となりの部署から、言い争う声が聞こえてきた。女性デスクが電話越しに、取材現場の部下と口論している。

 だんだん、口調が乱暴になる。ただならぬ雰囲気。

そして・・・ひときわ大きな声で、

「ク●して寝ちまえ!」 ガチャン!!

 時に殺伐とするこの職場で働いて20年、百戦錬磨の彼も、思わずたじろいだという。

 女性デスクとはその後、一緒に仕事をする機会があった。内心、かなりビビった。いざ会ってみれば、若輩の私にも気遣いを忘れない、いい人だった。

 殺人的に混んだ電車内や、紙面の全責任を負う締め切り間際。そういった状況が、かくも女性を豹変させるのだろうか。

 アイエンガーによると、通勤がもたらすストレスの蓄積は、解雇や離婚より健康を害する度合いが大きいという。カーネマンの研究でも、通勤は1日で最も不快な時間で、通勤時間が20分長くなると、失職の5分の1のダメージに匹敵するという。

 これらはアメリカの話だ。マイカー通勤で、渋滞に巻き込まれるストレスを指しているのだろう。毎朝、乗車率200%の通勤電車に押し込まれる、日本人のストレス量は計り知れない。

 私は比較的、恵まれていた。サラリーマン生活25年のうち、成田、仙台、バンコクではマイカー通勤。とりわけバンコクでは、ありえない専属運転手付き。福岡時代は、城址公園の中を徒歩で会社に通った。

東京本社に仕えた時も、遊軍やグラフ担当の時は自由裁量で働けた。シフト勤務で夜勤も多く、そういう日は朝の「痛勤」を免れることができた。

いま会社を辞めて、地方で福祉に携わっていると、現場で接する女子の雰囲気が明らかに違う。ひと言でいえば、女性らしくある。これまで「女性の優しさもひとつの戦略」と、肝に銘じて生きてきたが、危うくそれを忘れそうになる。

満員電車に乗る必要がなく、時間の流れも穏やか。ゆとりある環境では、彼女たちの口から「○▲×■!」などという言葉が発せられることもないだろう。

この安らかなる日々よ、永遠なれ。


2016年11月29日

3ちゃんレンタカー


 早くも雪が降った11月のある朝、ケータイが鳴った。

「週末は信州にお出かけですよね。タイヤをスタッドレスに替えときますね」

 いつも借りているレンタカー店からだった。行き先が標高1600メートルの山中で、途中に峠越えもある。すべてをお見通しの、ありがたいお言葉。

ずっと、駅から徒歩15分以内の賃貸物件を選び、近所でレンタカーを借りて済ませてきた。モノを持たない生き方が、シェアリング・エコノミーとして脚光を浴びているが、わが借りもの人生は年季が入っている。レンタカー歴は20年。

カーシェアリングが盛んになり、レンタカーにも価格破壊が到来した。近所のガソリンスタンドが、副業でクルマを貸しているが、1日借りても2500円だ。

 その代わり、この種のクルマは相当くたびれている。ただ動いてくれればいい、という割り切りが必要だ。

2年前、いまの街に引っ越してきて、いろいろなレンタカー店を試した。そのうち、自宅から自転車で通える距離に、新しい店がオープンした。

小さな自動車整備工場の片隅に、レンタカーののぼりを立てている。とうちゃん、かあちゃん、ねえちゃんの一家3人で兼業する「3ちゃんレンタカー」だ。

 クルマは、修理工場の客から下取りしたもので、走行距離も少なめ。メーカー系レンタカーに比べても、状態がいい。本業が自動車整備なので、メンテナンスや清掃は完璧だ。

すっかり気に入って、通い詰めた。この夏は、丸々ふた月借り切り、「禁煙車」のステッカーを外してもらって、マイカー気分を味わった。

 クルマを借りに行くたび、一家の飼い犬に吠えられる。支払いにカードを出すと、おかあちゃんは読み取り機のエラーで、毎回真っ青になる。

 でもそんなことは、まったく気にならない。

いつも、優先していいクルマを回してくれる。ただでさえ安い料金を、さらに値引きしてくれる。出発時は、一家総出でお見送り。クルマを返却した帰りには、ミカンや泥つき大根をおすそ分けしてくれる。

 あいにく酒に弱いので、私には行きつけのバーがない。食に淡泊なので、行きつけのレストランもない。今回、生まれて初めて「行きつけ」ができた。レンタカー屋だけど。

つくづく、行きつけっていいもんだなあ、と思う。

ところが最近、にわかにクルマが借りにくくなってきた。3週間先の予約が、すでに一杯で取れない。店のおねえちゃんは、「先月は3日しか休めなかった」と、うれしい悲鳴を上げている。個人的にはうれしくない。

例えていえば、行きつけのクラブで、なじみのホステスを取られた男の気分だろうか。経験ないですが。

シェアリング・エコノミーが廃れて、ふたたびクルマの所有が流行る日を待望している。

2016年11月24日

変化は友だち


 アメリカ大統領選の時、たまたま長野の山中にいた。

 テレビもネットもないおかげで、トランプ・ショックの直撃を免れた。

 結果が明らかになるにつれ、日経平均は急落し、ドル円も大きく動いた。いっぽう当のNY市場は、上昇してトランプ勝利を好感した。日本だけが、むだに狂騒曲を演じたようだ。



 国内でぼんやり暮らしていると、アメリカの空気感は読めない。投票前、トランプの支持率が、最後までヒラリーと競っていた。下品な顔で暴言を吐き、勝てるはずのないおっさんの、意外な健闘ぶり。もしかしたら・・・

そしてふたを開けてみれば、米国民の多くは「あのおっさん」に投票し、「もしトラ」が現実化した。

ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなど、こぞって反トランプの論陣を張ったはず。アメリカ人は、あまり新聞を読まないのだろうか。

新聞は、しょせんエスタブリッシュメントの代弁者。あの国の真実は、新聞の中にはないのか。

かつての新聞の影響力は、いまやテレビやネットの足元にも及ばない。それが証明されただけなのかも知れない。



振り返れば、今年1年で Brexit とトランプ・ショックという、ふたつの大きなサプライズがあった。

世の中、確かなことなど何もない、と改めて感じた。

でも自分でコントロールできない海外の政治イベントには、一喜一憂しない。将来予測も、不確定要素が多すぎて、あまり意味がないと思う。

今回の投票結果がポピュリズムの台頭、一時的な保護主義、排外主義につながる可能性はある。でも、ヒト、モノ、カネの自由な往来を伴うグローバル化の流れは、誰にも、たとえアメリカ大統領でも止められない。

グローバリゼーションを進めてきたのが当のアメリカで、多くのグローバル企業を擁するアメリカこそが、このシステム最大の受益者なのだから。

幸いグローバル化のおかげで、いまは誰でも世界市場にアクセスできる。クリック数回で、1000円から世界中の株や債券、不動産に分散投資が可能だ。

小さな街で賃貸に住み、いくつかの組織で働き、貯金はETFでグローバル経済全体に分散しておく。家財道具は減らして、いつでも引っ越しOK。

こうしてリスクを分散し、生き方に流動性を持たせておけば、どんな変化も友だちにできる・・・と思う。

悲観は気分。
 楽観は意志、の気概を持ちたい。



2016年11月16日

異国の幽霊


 日本語ボランティアを名乗って2年。夜の市民会館を舞台に、英、印、印尼、中、台、露、比、伯、エルサルバドル等の方々に、1対1で我流日本語を伝授してきた。

先週は生徒のベトナム人から、なかなかゾッとする話を聞いた。

 彼女は霊感が強い。そして悪いことに、アパートの前が病院である。

 シャワーを浴びる水音で、夜中に目覚めた。

その音は、自分の部屋のバスルームから聞こえてくる。

 身を固くしていると、今度はトイレの水を流した。

 ・・・たしかに誰かいる。

 日本語らしき言葉で、独り言をつぶやいていたという。

 彼女は気配を感じるだけだが、故郷の兄はさらに霊感が強く、「見て」しまうことがあるらしい。

 彼女は最初、「日本語検定の文法を教えて」と希望してきた。にわかボランティアの悲しさで、文法を教える技術はない。内心困っていたら、大丈夫だった。

 小学生の時、両親が離婚したこと。技能実習生として来日し、従業員20人の町工場で働いていること。節約のために卵とキャベツばかり食べて、5キロやせたこと。日本で3年がんばった後は、オーストラリアに行きたいこと。

テキストには目もくれず、つたない日本語で一生懸命、身の上を話してくれる。90分間、相槌を打っているうちに終わった。

年ごろなのに「今の給料では結婚相手に負けるから」、当面は独身でいるそうだ。ベトナム女性はみな、この人みたいに自立心が強いのだろうか。

 別の日の生徒は、台湾出身。2年前に死別した夫とのことを話してくれた。

 口の悪い人で、いつもバカバカ言われ続けた。最初に覚えた日本語が「バカ」。でも彼女ががんで入院すると、毎日見舞いにきた。夫が亡くなる時、言葉が不自由で、感謝の気持ちを伝えられなかった。それが心残り。

「てにをは」のめちゃくちゃな日本語で、涙ながらに語る。気持ちはご主人にも、十二分に伝わっていただろう、と想像した。

 この関東平野の端に、世界中から人が来ている。

欧米や、将来性のある中国でなく、この
日本に来て日本語を学んでくれる。

ただただ、感謝しかない。

そして会の日本人ボランティアは、真面目な人が多い。きちんとテキストに従って教え、生徒の日本語検定合格を生きがいにする人もいる。

私は不真面目。しょせんはボランティア、自分だって楽しみたい。学習意欲の旺盛な人は敬遠して、友だちが欲しい人、日本語でおしゃべりしたい人を探す。そして、雑談に持ち込む。

フランスとタイで10年も暮らしながら、仏語もタイ語もカタコト以下で終わった語学音痴だ。自分の母語でできる異文化交流が、とても楽しい。



2016年11月9日

パリで育つと美食家になる・・・とは限らない


 ミャンマー北部の避暑地、メイミョーを訪れたときのこと。タクシーに乗っていると、ロンジー(腰巻)姿の運転手が、坂の途中でブレーキを踏んだ。

道端に何かが並んでいる。降りてみると、イチゴだった。日本の赤いイチゴに比べると、小ぶりで白く、とても貧相だ。

迷っていると、運転手が2人分買ってきてくれた。

泥水にざっと浸したイチゴを、彼は無造作に食べる。ホテルに戻ってから流水でよく洗い、恐る恐る、一粒食べてみた。

おいしい。

日本の、品種改良を重ねられたイチゴの甘さとは違う。南国の土と太陽で育った濃密さ、野太い甘さを感じた。



フェイスブックに、友人の「どこそこで何を食べました」という投稿が並ぶ。おいしそうな写真がたくさんある。

たまには当ブログも食べものネタを・・・

子どもの頃、パリですごした。放課後はエッフェル塔が見える公園で、コーラ1リットルの一気飲みを競った。休日は小学生の分際で、ボカシなしの「エマニエル夫人」を鑑賞の後、シャンゼリゼ通りのマクドナルドへ。フランス料理のつもりで?ビッグマックをほおばった。

その後、日本の高校へ。好きな山登りの費用を捻出するため、200円だった学食のカレーを、2か月連続で食べた。大学時代も山登りに熱中し、街では節約。いちばん安かった学食のカツ丼を、来る日も来る日も食べ続けた。

山岳部の冬山合宿には「乾米」という、粉々になった米を乾燥させたものを背負っていった。安かったのと、荷物を軽くするためだ。家畜のエサ用を、業者から仕入れた。

19歳のとき、インド放浪の旅に出た。貧乏旅行がカッコいいとされた時代。いかに1日500円、1000円の予算で旅を続けるか、が目的化した。

インドに着いた晩、屋台のカレーを食べた。暗くてよく見えないが、泥みたいなカレーだ。口をつけても、泥みたいな味がした。ひたすら辛く、その辺の水をグビグビ飲んだ。これが、インドか。

その夜中から、ひどい下痢が始まった。ひと月後に帰国するまで、毎日続いた。ひと月下痢しても、人は死なないとわかった。

帰国した成田空港の検疫で、便から赤痢菌が検出され入院。隔離病棟のベッドで、食べたおかゆがおいしかった。

長じて新聞社のバンコク特派員になると、今日はアフガン、明日は南太平洋と出張続き。飛行機の座席で暮らす日々は、機内食が栄養源だった。雲の上の食事はタダだ。

3年間の任期終盤は、機内食を見るのもいやになった。タイ航空で洋食を頼むと、ステーキでもパクチーとナムプラーの香りがした。

・・・やっぱり食事ネタはうまく書けない。



2016年10月31日

ラットレースの行く末は


 バンコクから2時間強のフライトでシンガポールに着くと、混沌から整然へ、雰囲気ががらりと変わる。何度か、このカルチャーショックを楽しんだ。

 シンガポールの一人当たりGDPは5万2千ドルを超え、いまや日本(3万2千ドル)を大きく上回る。道行く人は忙しそうで、歩いていると次々に追い越される。同じ南国でも、のんびりしたタイとはずいぶん違う。

バンコク駐在時代、シンガポール支局にタン君という助手がいた。腰が軽い上に腰の低い好青年で、いつも進んで雑用を引き受けてくれた。

英教育専門誌が最近発表した大学ランキングでは、アジアのトップがシンガポール国立大。タン君の母校だ。能ある鷹は爪を隠す。

ちなみに、東京大はアジアの4位。北京大、精華大にも抜かれ、世界では39位だった。


 大手広告代理店で、その東大卒の新人社員が自殺し、過労死認定された。彼女は亡くなる前、「1週間に10時間しか寝ていない」とツイートした。

 私が入社したころの東大卒には、「おれはこんな所にいるような器じゃない」という気概があった。新聞社も、理不尽と長時間労働がまかり通る世界。早々に見切りをつけて、去っていく人がいた。

1週間に10時間しか寝なければ、もはや思考力は残っていない。彼女はそうなる前に、プライドを賭けて「ちゃぶ台返し」をするべきだった。

労働はしょせん、生活の手段にすぎない。24時間365日、猛烈に働くのは経営陣だけでいい。


日が暮れて、隣町の市民会館へ。ボランティアで、生活保護の子たちの宿題を見る。
 そのほとんどが母子家庭で、学校の授業についていけない子、不登校の子が多い。小学校の算数に四苦八苦する子が、実は中学生だったりする。

親が貧しいという理由で、子がハンディを負うことは許されない。でも、塾に行けない彼らの受験勉強を手助けすることには、違和感を覚える。

日本の教育は、「ブラック企業の長時間労働に黙って耐える人間」を量産している。雇われやすい人間になるのと、雇われにくい人間になるのと、果たしてどちらが幸せだろうか。安易に前者を選べば、命が危ない。

先日、一緒に英語を勉強した中学生の女子が、リストカットした。「生きていても仕方がない」と母親に訴えたという。
 14歳に生きる希望をなくさせるのは、われわれ大人の生き方がおかしいからだ。


閑散として高齢者ばかりが目立つ城下町に住んでいると、たまには人混みが恋しくなる。そういう時は、ジョギングで駅を目指す。JRと私鉄の改札口に、朝だけ出現する「都会の雑踏」に会いに行く。

職場や学校に急ぐ人の群れを、ひとりTシャツと短パン、ジョギングシューズ姿で突っ切る。そして、「もう2度とラットレースには加わらない」という思いを新たにする。

人それぞれが、自分らしく生きられる世になりますように。


2016年10月23日

国王に会いに行く


タイのプミポン国王が亡くなった。10年前、即位60年を迎えた国王をバンコクで取材した。

チャクリ王朝創立記念日の朝、ラマ一世広場に着くと、すかさず関係者が行く手を遮った。我が国の宮内庁職員に、気味悪いほど物腰が似ている。「あなたの服装では、ここから先に入れられない」という。

私は、前月のASEAN首脳会議取材で着たスーツとネクタイ姿。政治家と王様では格が違う、と言いたいのだろうか。

ロイター通信バンコク支局のカメラマン、ラティフが高みの見物をしている。「この格好のどこが悪いんだろう」と尋ねると、「もっと色の濃いズボンじゃないとダメなのさ。決まってるだろ」勝ち誇ったような口ぶりで言う。

一瞬、何もかも投げ出して家に帰ろうと思ったが、辛うじて思いとどまる。別のスーツを取りに、支局付運転手を自宅に向かわせた。

彼は途中で渋滞にはまり、式典20分前にバイクタクシーで戻ってきた。会場裏の暗がりでパンツ一丁になって着替え、警官に笑われた。

汗だくで撮影位置に着くと、すぐ黒塗りの王室専用車が目の前に横付けされ、プミポン国王が皇太子を従えて降り立った。

ファインダー越しに見る国王は当時78歳。表情に生気がない。祝賀ムードにふさわしい笑顔を狙ったが、いい写真は撮れなかった。

同じ年の6月、今度は在位60年記念式典の本番が行われた。天皇皇后両陛下をはじめ世界中から王室・皇室が集い、盛大なイベントとなった。

混雑を見越して3時間前に赴いた宮殿前は、すでに人、人、人の海。その数、30万人。

一年中暑いバンコクでも、6月はことさら暑い。雲ひとつない炎天下、さすがのタイ市民も日射病で倒れ、担架で運び出されていく。

予定時刻を大幅にすぎて、プミポン国王が宮殿バルコニーに姿を現した。大きな望遠レンズでのぞいても、豆粒にしか見えないほど遠い。

式次第がわからないまま、成り行きを見守った。国王は玉座に腰かけ、微動だにしない。そのまま1時間が経過した。

「おい帰るぞ。もう飽きた」

やじ馬気分でついてきた支局長が、うんざり顔で言う。もとより異論はない。人込みかき分けながら大通りに出て、タクシーで会社に戻った。

パソコンを開いて、つまらない写真を東京に送る。ついでに、外国通信社のサイトをのぞく。バンコク発の写真を見た瞬間、目が点になった。

プミポン国王が王妃とともに、にこやかに手を振っているではないか。まさか我々が帰った後、このような展開が待っていたとは・・・

翌日、私の写真の代わりに、ラティフが撮ったロイター電がわが社の朝刊を飾った。涙。

(ラティフはその翌年、流血のミャンマー民主化デモ取材でピュリッツァー賞を受賞した。パキスタン系米国人の彼は、とにかく粘り強かった)


2016年10月15日

人生を変える南の島 ②


・・・飛び立つ気配がない。ニアス空港が、救援機で満杯だという。

インドネシア空軍の輸送機が着陸してきた。担架に乗せられたけが人が、次々に運び出される。頭に巻かれた包帯から、血が滲んでいる。

ニアス島に向け折り返す空軍パイロットと交渉し、乗せてもらうことに成功。しっかり金を取られたが、これぞアジアの寛容だ。

離陸後1時間のフライトで、あっけなくニアス島上空へ。見下ろすと多くの建物が全半壊し、黒煙を上げている。バンコクを出て30時間、ついに現場に到着した。

空港から街までの道は、寸断されている。若者のバイクの後ろに、腹と背に大荷物をくくりつけてまたがった。亀裂を避けながら街に入ると、異様な光景が目に飛び込んできた。

建物が倒壊し、廃虚と化した街並み。死んだ女性の首が、がれきから出ている。抱き合って泣き叫ぶ親子。重機の轟音の中で続く、生き埋めになった人の救出活動。

死臭と砂ぼこりにまみれながら、機械的に写真を撮った。

すぐに夕闇が迫る。宿も全滅、今夜は被災者と公園で野宿だ。

 辛うじてつながった携帯電話で、東京に状況を伝える。カメラの画像をパソコンに取り込み、キャプションをつけて電送。だが電波が不安定で、何度も途中で切れてしまう。もう締め切り時間だ。

切り札として背負ってきた重い衛星電話機を出し、宇宙経由で写真を送った。

ふと我に帰ると、すっかり暗くなっている。自宅をなくした人が家族ごとに固まり、黙って地べたに座っている。

言葉が通じないので笑顔を向けると、すぐに人懐こい笑顔が返ってきた。そして男たちが、手早く廃材で、即席の机とイスを作ってくれた。おばちゃんが隣に座り、蚊をうちわで追い払ってくれた。

送信も終わって一息つくと、どこからともなく、カップラーメンと白いご飯が運ばれてきた。急に空腹を感じて、無心で食べた。

みんな笑顔で見ている。食事をする気配がない。

まさか・・・彼らのなけなしの食料を食べてしまったようだ。

やがてすっかり日が暮れた。島中が停電し、何も見えない。赤道直下なのに、夜風の冷たさが身に染みる。

暗闇から手が伸びて、今度は毛布が差し出された。

温もりを感じながら、地べたに寝ころぶ。惨禍を闇が覆い隠して、空には満天の星が輝いていた。


2016年10月9日

人生を変える南の島 ①


「人生を変える南の島々。」という本がある。

この冬はどこに行こうか。パラパラめくっていたら、バリ島やプーケットと並んで、ニアス島が載っている。

手が止まった。

ニアス島。インドネシアのスマトラ島から、さらに海を渡った小さな島。インド洋の大波が打ち寄せ、サーファーの人生を変える島。

10年ほど前、サーフィンもしないのにこの島に行き、忘れられない経験をした。



バンコク着任6日目。その日も外務省や大使館で、タイで働くための手続きに追われた。並行して新居と車探し。夜は仮住まいのサービスアパートで、荷物の山に埋もれていた。

出し抜けにケータイが鳴る。東京本社デスクからだ。

「インドネシアでマグニチュード8.2の大地震発生、すぐ出動準備を」

まだ引っ越しも済んでないのに。正直、ため息が出た。CNN臨時ニュースを見ながら、外が明るくなるのを待つ。

震源地のニアス島は、空港があるメダンから車で10時間、さらに船で10時間の彼方だ。かなり被害があるようだが、情報は錯綜している。

一夜明け、ジャカルタ経由で空路メダンへ。到着ロビーには、CNNテレビの大取材班が陣取っている。

同僚のシンガポール特派員は、すでにニアス行きの船に乗った。マニラ特派員も、隣のシムルエ島に向かっている。気ばかり焦るが、夜を徹して動くより明朝、一気に飛行機で海を越えることにした。

市内のホテルはどこも満室。怪しげな男に連れられて、窓のない連れ込み宿で、見知らぬ街の夜を過ごす。

翌未明、外は土砂降りの雨。バイクに座席をくくりつけた3輪タクシー「ベチャ」をつかまえ、ずぶ濡れになって空港に向かう。途中、検問所で「ベチャは空港乗り入れ禁止」と言われ、50キロの撮影機材を抱えて立ち往生。通りがかった車を強引にヒッチハイクして、なんとか空港ターミナルにたどり着いた。

ところがニアス行き定期便は、救助隊員らですでに満席。東京から来た、NテレビとS新聞の取材班も足止めを食っている。3社で有り金をはたいて、古ぼけたプロペラ機をチャーター。呉越同舟で乗り込んだ。


2016年10月2日

ランプの青白い点滅


 ナナカマドが真っ赤に色づく森から、祭り囃子が聞こえる町に下りてきた。

海を見下ろしながら、毎日のジョギング。送迎ボランティアも再開した。



「今日は注射を10本、打つんですよ。おでこに打つのが太くて痛い。もう慣れましたけど・・・」

マンションに夫と暮らすおばあちゃんは、脳梗塞と白内障。朝は歩けたのに、3時間後に病院に迎えに行くと、目がうつろ。車いすに乗せられて出てきた。

 白内障の手術後、ますます目が見えなくなった。病院では訴えを信じてもらえず、「ウソ発見器のような装置にかけられた」と怒っている。

 田んぼの中に暮らす別のおばあちゃん。1年前のひざの手術後、かえって痛みが増した。病院はいつも3時間待ちのうえ、医師が横柄で、話を聞いてくれない。別の病院にかかると言うので、高速道路に乗って大学病院に連れて行った。

 丘の上にそびえ立つ、巨大構造物。ひと目で病院とわかる、陰気で無機質な造りは、近づくだけで気が滅入る。不安げな後ろ姿を見送り、向かいのスターバックスで、ソイラテを飲んで待つ。

病院内は、いつも患者でごった返している。診察に2~3時間待ちは当たり前だ。会計にも時間がかかり、健康な人間でもしんどい。

診察と会計の後、薬の処方に2時間待ったという話さえ聞いた。

3人め、川沿いのアパートから人工透析に通うおじいちゃん。週3回、朝9時から午後まで、病院のベッドで管につながれる。

夕方、透析室まで迎えに行くと、ウナギの寝床のように並んだベッドに、びっしりと人が横たわっている。点滴がぶら下がった棒が林立し、沈黙が支配する病室のあちこちで、ランプが青白く点滅する。

おじいちゃんは淡々とした人だが、1年前と比べて、足元が危うくなってきた。歩行器にすがってゆっくり歩き、車に乗るのも大儀そう。ボランティアの会合で相談すると、「転んだら大変だし、車いすに乗せて運んだら?」と言われた。

確かに、その方が時間短縮にもなる。でも、こちらの都合で車いすを使ったら、彼はすぐ自力で歩けなくなりそうだ。そして、一度寝たきりになったら・・・あとは、坂道を転がり落ちるようなものだろう。

彼らを見ていて、西洋医学はしょせん、対症療法にすぎないと思うことがある。根治を期待して病院に群がり、医者にすがるのは、時間の無駄でしかないのかも。病気の多くが細胞の老化だとすれば、老化は医者には止められない。

老いや病を受け入れながら、自分らしい生き方をして、最後は平然と死ぬ。これからの時間で、心の準備をしておこうと思った。

会社に行かない、雇われない暮らしを始めて、2年経過。2年前は「ボーイズ・ビー・アンビシャス」だったが、最近は「置かれた場所で咲きましょう」な気分。


2016年9月25日

バラマキ、海を渡る


 市街地が晴れていても、我が家は雲の中。

雲の中にも、手紙は届く。

 夏を信州ですごす前に、転送手続きをしておいた。律儀な日本の郵便制度はありがたいが、残念ながら、届くのは請求書ばかりだ。

 電気、ガス、水道代の請求が、毎月それぞれ2軒分。税金と社会保険料。賃貸マンションの更新料。火災保険の請求書。

 そして海の向こうから、ヨコ文字の請求書まで舞い込んだ。

差出人は、泣く子も黙る「タイ王国警察」。

20の春、チェンライでマリ○ァナ吸ったのがばれたか? 違った。スピード違反の反則切符だ。時速90キロ制限の道を112キロで走ったのだと。

まったく身に覚えがないが、オービスで撮られた証拠写真がついている。今年、タイに滞在したときの日付だ。

 そして、レンタカーを借りる時に使ったクレジットカードから、有無を言わさず1000バーツ(約3000円)がチャージされた。

 タイの幹線国道は6車線あり、流れは日本の高速道並み。時速90キロで走ったなら、路線バスにも抜かれてしまう。

これは、警察とレンタカー会社がグルになった、外国人狙いの税金稼ぎに違いない。



そして今日、住民票を置く自治体から封書が届いた。

健康保険の納付書か、それとも年金? この前振り込んだばかりなのに。時がたつのは早い。

ところが、中身は書類だけで、お約束の振込用紙が見当たらない。書類は独善的なお役所ことばで、とてもわかりにくい。タイ警察の英語より難解だ。

わが読解力を駆使すると、お金を払うのではなく、お金がもらえる、と読める。

目を疑う。どうやら、低所得者への給付金らしい。

私が、低所得者。

初めて知った。

2年前まで、けっこうな額の税金を、給料天引きされた。会社を辞め、昨年は収入が激減。今年になって、所得税はもとより、住民税も免除された。

行政のくくりでは、住民税が非課税になった人は、低所得者なのだ。

新聞で毎日見かける単語が、まさに自分だったとは。目からウロコ。図らずも、バラマキ政策の受益者となってしまった。

いくらもらえるかが、とても小さく書いてある。

ひとり3000円。何度ゼロを数えても、3万円ではない。

もし本当に支給されたら、そのままタイ王国の国庫に納めさせて頂こう。

2016年9月19日

頭上の魔術師たち


近くに別荘を持つ友人が、来客用の寝具を譲ってくれた。

彼女の義弟は、サッカー界のレジェンド。純白に輝くこの布団を、彼が使ったことがあるかも知れない。

うわさが口伝てにリレーされ、夏の終わりに「かも知れない」が抜け落ちた。

我が山荘を訪れる女性たち、泊まり客はもちろん、お茶を飲みにきた人まで「カズが寝た布団、見せて!」と、押入れをのぞいていく。

「カズが寝た布団に泊まる信州1泊2日の旅・シカとの遭遇体験つき」

 旅行商品として売り出せそうな勢い。



元ジャンボ機パイロットの山荘を訪ねた時のこと。

バサッ。玄関に立っていると、いきなり大きな枝が降ってきた。

見上げれば、はるか頭上に人影。誰かが木に登っている。ハシゴも命綱も使わず、とんでもない高さで枝払いをしている。

おそろしく身軽な彼は、実はネパールから来たシェルパだった。これまで何度も一緒に、ヒマラヤ登山をした仲だという。

その手があったか。今までじゃまな枝があると、木ごと切り倒していた。持つべきは山岳民族の友だ。

そして我が喫緊の課題は、キツツキが家に開けた、げんこつが入る大穴6つ。

落ちぶれたとはいえ、私も元山岳部員だ。ヘルメットとハーネス姿も勇ましく?バルコニーの手すりによじ登って、軒先の穴3つまで塞いだ。でも、地上から10メートルほどにある残り3つは、とても手が届かない。

業者に頼むと、鉄骨の足場で家を取り囲むといい、数10万円の見積書をよこすらしい。たかがキツツキの穴に、だ。東南アジアの業者だったら、たとえ20階建てでも、竹とひもで足場を組んで、スルスル登っていくのだが。

先日、救世主が現れた。

ロープを肩に海外の大岩壁を渡り歩く、現役アルパイン・クライマー夫妻。山好きが高じて、信州に移住してきた。教職やアルバイトで稼ぎながら、クライミング最優先の暮らしをしている。

1歳のかわいい娘を車に乗せ、我が家に来てくれた。

ギアをジャラジャラいわせて、いざ出陣。ロープを柱に固定し、アッセンダーをかませて登っていく。宙吊りになりながら手を伸ばし、岩に支点を打つための電動ドリルで、穴に板を固定する。

軽やかな身のこなしで、魔法のように、すべての穴を塞いでくれた。

さて、一件落着とくつろいでいた、その夜。

ガサッ ゴソッ 屋根裏から、不気味な物音がする。

そこにいるのは、誰だ。私には小鳥の羽音に聞こえるが、妻は「爪の生えた小動物に違いない」という。

いずれにしても、屋根のどこか、7つめの穴から侵入したようだ。

やれやれ・・・

森の暮らしは、キツツキとのイタチごっこ。

2016年9月12日

ケータイ圏外生活の終わり


 バルコニーに出ると、外は闇。

 森の中で7つ、窓の明かりが漏れていたのがお盆の頃。1軒、また1軒と雨戸を閉ざしていき、9月に入って最後の明かりが消えた。

 最寄りのコンビニは、家から10キロ離れていて、近所には街路灯さえない。夜の戸外は、「鼻をつままれてもわからない」暗さになる。

 そんな夜が明け、誰もいない森で木を切る。刃渡り20センチのノコギリでも、けっこう大きな木が切れる。

 運動がてら、バッサバッサと調子に乗って切りすぎる。前の住人が丹精したシャクナゲを、単なる枯れ木、と丸坊主にした。失業男がエネルギーを持て余すと、ろくなことをしない。

もし今20歳だったら、ノコギリを奮う相手が、木では物足りなくなるのかも。失業率の高い国で犯罪が多いわけを実感できた。

生ゴミを捨てに出る。徒歩10分、国道わきのゴミ置き場に、「文芸春秋」を発見。今年の芥川賞「コンビニ人間」の掲載号だ。すかさず持ち帰る。

高原の別荘地でゴミを漁る中年男。

雨の日の読書では、低酸素に頭が慣れたのか、古典や哲学書、何巻もある歴史小説に手が伸びる。テレビやネットに気を取られ、都会のマンション暮らしで放置していた本を、一気に片づけた。

「物を考える人にとって、あらゆるニュースはゴシップである」「けっして古くさくならない物事を知る方が、どんなに大事なことか」(H・D・ソロー)

今日は携帯電話会社の人が来て、電波の増幅器を置いていく。

これまで、ケータイ圏外生活を謳歌していた。着信音が鳴らない、静かな暮らし。緊急地震警報も鳴らない、自己責任の暮らし。

この20年余、日曜日のトイレの中にまで、業務連絡が追いかけてきた。ケータイが手のひらサイズになり、インターネットが普及し、会社が社員にスマホを配るようになって、自分の時間が消滅した。

昭和の頃までは、ひとたび会社を出てしまえば、時間は家族のものだった。ICTの発達も善し悪しだ。

やっと、ケータイの圏外に住む自由、メールチェックの頻度を自分で決める自由を手にした。

ささやかな勝利。

夏の終わり、水道の水が出なくなり、業者を呼んだ。ケータイが通じないのに驚かれた。通信会社が無料で機器を貸してくれることを、彼に教わった。

窓辺に増幅器を設置。ついに、和室の畳一畳分に限って、アンテナが立つようになった。

タダに目がくらんで、山上暮らしの自由を、ひとつ失った。


2016年9月5日

木はどっちに倒れる


せっかくの田舎暮らし。晴耕雨読といきたいところなのだが、標高が高すぎて野菜が育たない。代わりに、晴れた日は木を切っている。

最初は、木に囲まれた暮らしは天国に思えた。そのうち、「昼なお暗い」「洗濯ものも乾かない」・・・どうも木が多すぎる、と結論した。

ひょろ長い夫が、細い木1本倒すのに悪戦苦闘。それを見た妻がひと言、「木が木を切ってる」。



新聞社にいた頃、インドネシアの森林違法伐採をルポした。

首都ジャカルタで、科学部のサトウ記者と待ち合わせる。彼とは新潟県中越地震で、自衛隊ヘリで一緒に震源の村に向かったことがあった。

プロペラ機を乗り継いで、ボルネオ島へ。マレーシア国境で四輪駆動車を借り、暗くなるまで山道を進む。集落に着いても宿はなく、民家の軒先で野宿する。

翌日から、道はさらに悪くなった。車を捨てて、村の青年のオートバイで奥地へ。路面の凹凸で体が宙に浮き、兄ちゃんの腰に抱きつく。

ほこりまみれで未舗装路を進み、ハエがたかる屋台で干からびた揚げ物とごはんを食べ、民家の軒先を借りて寝る毎日。

5日目、川にぶち当たる。救命胴衣をつけてモーターボートに乗り、急流をさかのぼる。水しぶきで、全身ずぶぬれになる。

ここでよくない知らせが届いた。「違法伐採の男たちは武装している」。我々も、自動小銃を担いだ国立公園レンジャーに護衛を頼んだ。

源流から、木材運搬用トロッコに乗って森に入る。最後は炎天下、トロッコの軌道上を延々と歩いた。

ジャカルタを出て7日目の午後。熱帯雨林の彼方から、チェーンソーの音が聞こえてきた。さらに進むと、木々が無残に横たわっている。

違法伐採の現場だ。

カメラを構える私を追い越して、サトウ記者が突進する。科学部は秀才タイプばかりで、彼ほど最前線で体を張る記者は珍しい。

半裸の男たちが、手に手にチェーンソーや斧を持っている。が、それを人に向ける気はないようだ。銃も見当たらない。

「もうすぐ木が倒れるよ。危ないからこっちに来なよ」

人相は悪いのに、以外に親切だ。

場所を移って安心していると・・・

 バキバキバキッ

20メートルはある大木が、我々めがけて降ってきた。


2016年8月31日

天皇の家庭教師


 森を散歩していたら、向こうからおじいさんが歩いてきた。

麦わら帽子をかぶって、ゆらりゆらりと。

あいさつすると、帽子の下で優しげな青い瞳が光っている。

 その日は朝から晴れて、この夏初めて、北アルプスがはっきり見えた。重厚な岩山の連なりを、しばらく2人で眺めていた。

 その1週間後。こちらで知り合った元国際線パイロット氏に、「明日、うちにイギリス人が来るんだけど興味ある?」と誘われた。なんでも、「中世日本(鎌倉・室町時代)で寺が社会に与えた影響」を研究する元教授だという。

 たまにはアカデミックな話もいい。でも日本史は苦手だ。難しい話を英語でやられるのも苦手。

 翌日、森の中を30分歩いてパイロット氏宅に着くと、見覚えのある人が立っている。

あの時のおじいさん。

奥さんは日本人で、本人も訥々とした日本語を話した。

名前をマーティンさんという。経歴を聞くと、ただのじいさんではなかった。英ケンブリッジを卒業後に来日し、請われて東大へ。その後アメリカに渡り、ハーバードとプリンストンで教えていたという。

絵に描いたようなインテリというか、インテリが服着て歩いているというか。

さらに驚いたことに、東大時代、彼は皇太子(現天皇)の英語教師をしていた。皇居の中までタクシーで通ったので、運転手が何度も行き先を聞き返した。

英語の勉強中、背後の水槽で魚が泳いでいた。「最近、彼が生前退位に言及したのは、公務から離れて魚の研究がしたいのでは?」とはマーティンさんの見解。

プリンストン時代は、作家の村上春樹も大学にいた。ある日ランチに招待すると、ハルキは15キロの道のりをジョギングできて、シャワーと食事の後、また走って帰っていった。「彼はとても真面目でシャイな人でした」。

マーティンさんは最近、学部長職を最後にプリンストンを定年退職。妻の母国で老後を送るために、47年ぶりに日本の土を踏んだところだという。

思いがけない出会いがある。朝の散歩は三文の徳。

毎日森を歩いていると、苔むした古い山荘が点在しているのを見る。廃屋とばかり思っていると、夏の夜、突然窓に明かりが灯る。ひっそり暮らす彼らは、マーティンさんのみならず、多彩な経歴の持ち主だ。

大学教授。外交官。指揮者。画家。パイロット。山岳ガイド。環境コンサルタント。援助団体主催者。山野草愛好家。

人生の先輩に話を聞くのが、こちらでの楽しみになった。

そんな散歩の途中、路傍にサンダルや運動靴が置いてある。気味悪いほど、あちこちで見かける。

キツネの仕業だそうだ。玄関先やバルコニーから片方だけくわえて、自分の縄張りに持っていく。

夏が終わり、山荘から人影が消えると、森はいよいよ彼らのものだ。


2016年8月26日

残暑の丸の内


 信州の森を出て、東京・丸の内へ。小学校の同窓会に出た。

42年ぶり、劇的な再会なのである。

「32年ぶりの劇的な再会」だった高校の同窓会では、私だけ当時のことをろくに思い出せず、話に加われなかった。それがトラウマになって、今回は出席にかなり勇気が要った。42年ぶり・・・懐かしさより、怖れが先に立つ

 生唾を飲んで、会場のレストランへ。すでに、当時の恩師ほか6人が集まっていた。

いきなり、目の前に座った先生を思い出せない。

 冷や汗を流していると、先生の方から「あなた誰だっけ?」。今まで数えきれないほどの子を教えてきたのだろう。そして、先生と私は半年しか重なっていないことも判明。お互い覚えていないわけだ、ということにしておく。

 クラスメートのうち2人の顔は、すぐわかった。変わってないな~、と思ったら当たり前で、この2人とはその後同じ高校に入り、卒業まで一緒だった。

 残りの4人とは正真正銘、42年ぶりの再会になる。お互い、ウッと息をのむ。当時の白黒写真を見せあい、「これがボク、こっちがキミ」と確認するうち、徐々に記憶が蘇ってきた。

今日ここに集まったのは、母校・パリ日本人小学校の当時3年生たち。クラスが10数人だったので、その半分が揃ったことになる。

親の転勤で友だちがひんぱんに入れ替わり、日本全国、世界に散らばった。長らく音信不通だった時期を経て、今回7人もが集まれたのは奇跡に近い。

日本人学校ができる前は現地校に通い、フランス人から「シノワ(中国人)!」といじめられた。帰国後、今度は日本の学校で「フランス帰り!」と仲間はずれに。思い出話をするうち、みな似たような体験をしていたことを知る。

その後親として、我が子を学校に通わせたTさん、「少しでも皆と違う子を排除する日本の子どもたちの気質は、今もまったく変わらない」と言っていた。

「学校の廊下にシャンデリアが並んでて、赤いじゅうたんが敷き詰められてたよね」「毎月のように友だちのお別れ会があって、出し物を考えるのが大変だったよね」「そうそう!」みんなの会話が弾む。ところが・・・例によって、ことごとく覚えてない。

相当ぼんやり生きていたようだ。もったいないことをした。

M君の帽子お洒落だなあ、と眺めていたら、彼はデザイナーだという。ほかにもグラフィックデザイナー、ミュージシャンなどクリエイティブな職業が多い。いちどパリの空気を吸うと、やっぱりその後の生き方に影響する。

感慨にふける私の傍でグラフィックデザイナーのE君、「あの頃、Sちゃんから日本の少女マンガを借りて読んだおかげで、絵心に目覚めた」。

・・・別にパリでなくても、目覚める場所はどこでもよかったみたい。




肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...