2016年11月9日

パリで育つと美食家になる・・・とは限らない


 ミャンマー北部の避暑地、メイミョーを訪れたときのこと。タクシーに乗っていると、ロンジー(腰巻)姿の運転手が、坂の途中でブレーキを踏んだ。

道端に何かが並んでいる。降りてみると、イチゴだった。日本の赤いイチゴに比べると、小ぶりで白く、とても貧相だ。

迷っていると、運転手が2人分買ってきてくれた。

泥水にざっと浸したイチゴを、彼は無造作に食べる。ホテルに戻ってから流水でよく洗い、恐る恐る、一粒食べてみた。

おいしい。

日本の、品種改良を重ねられたイチゴの甘さとは違う。南国の土と太陽で育った濃密さ、野太い甘さを感じた。



フェイスブックに、友人の「どこそこで何を食べました」という投稿が並ぶ。おいしそうな写真がたくさんある。

たまには当ブログも食べものネタを・・・

子どもの頃、パリですごした。放課後はエッフェル塔が見える公園で、コーラ1リットルの一気飲みを競った。休日は小学生の分際で、ボカシなしの「エマニエル夫人」を鑑賞の後、シャンゼリゼ通りのマクドナルドへ。フランス料理のつもりで?ビッグマックをほおばった。

その後、日本の高校へ。好きな山登りの費用を捻出するため、200円だった学食のカレーを、2か月連続で食べた。大学時代も山登りに熱中し、街では節約。いちばん安かった学食のカツ丼を、来る日も来る日も食べ続けた。

山岳部の冬山合宿には「乾米」という、粉々になった米を乾燥させたものを背負っていった。安かったのと、荷物を軽くするためだ。家畜のエサ用を、業者から仕入れた。

19歳のとき、インド放浪の旅に出た。貧乏旅行がカッコいいとされた時代。いかに1日500円、1000円の予算で旅を続けるか、が目的化した。

インドに着いた晩、屋台のカレーを食べた。暗くてよく見えないが、泥みたいなカレーだ。口をつけても、泥みたいな味がした。ひたすら辛く、その辺の水をグビグビ飲んだ。これが、インドか。

その夜中から、ひどい下痢が始まった。ひと月後に帰国するまで、毎日続いた。ひと月下痢しても、人は死なないとわかった。

帰国した成田空港の検疫で、便から赤痢菌が検出され入院。隔離病棟のベッドで、食べたおかゆがおいしかった。

長じて新聞社のバンコク特派員になると、今日はアフガン、明日は南太平洋と出張続き。飛行機の座席で暮らす日々は、機内食が栄養源だった。雲の上の食事はタダだ。

3年間の任期終盤は、機内食を見るのもいやになった。タイ航空で洋食を頼むと、ステーキでもパクチーとナムプラーの香りがした。

・・・やっぱり食事ネタはうまく書けない。



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