2015年12月31日

プロであり続けることの難しさ


 新聞社のカメラマンというのは、本当に大変な職業だ。他人事となって1年たった今、つくづくそう思う。

 1日5~6回ある締め切りに追われるように働き、休日も電話1本で呼び出される。ひとたび現場に出れば、頼れるのは自分だけ。決定的瞬間を撮りっぱぐれたり、ピンボケ写真でも撮ろうものなら、翌日の新聞に隠しようのない事実としてさらされる。

 他人事になって、本当によかった。今だに夢でうなされる。

 報道カメラマンは、ニュースの第一線に立ち会える。今をときめく旬な人にも会える。人生の一時期を彩るには、実に面白い仕事である。でも一生続けるのは無理、というのが個人的な感想。

 たとえば、事件取材やスポーツ取材には、瞬間を捉える反射神経が必要だ。50歳すぎて、20~30代と対等に渡り合うのは難しい。

よい撮影位置を確保するために、脚立や重い撮影機材を抱え、ヨーイドンでライバルと競争する必要もでてくる。

逆に、いつ訪れるともわからない「その瞬間」のために、極寒のなか、あるいは酷暑のなか、立ったまま何時間も待つこともある。

そして、報道カメラマン最大の敵は「慣れ」ではないかと思う。

ひとつとして同じ現場はないのだが、経験を積んでくると、「この状況なら、次はこうなる」と読めるようになってくる。

すると、いい写真のために敢えてリスクを冒すより、見飽きたアングルではあるが、より確実に撮れる方に流れる。いつしか仕事が、ルーティンワークになる。

このようにして、腐敗臭が漂う「ベテラン報道カメラマン」ができ上がる。

ひと頃、国内外の地震や津波の現場をはしごするようなことがあった。悲惨な光景を目の当たりにしながら、「前の現場に比べれば、大したことはない」と思う自分がいた。事実を余すことなく読者に伝えよう、という気力が湧かなかった。

その頃から、私には腐敗臭が漂い始めていたと思う。

ところが同僚の中には、いるのである。何年たっても初心を忘れず、より斬新なアングルを求めて考えを巡らし、労をいとわずに走りまわる人が。

ある時、たまたま同じ現場で働いて、彼我の間に横たわるあまりの差に愕然とした。

この恐るべき体力と精神力のスタミナは、どこから来るのか。いくら考えてもわからなかった。

情熱を失わなければ、努力できる。飽きないというのも、ひとつの才能だろうか。私にはとても真似できない。

できればもう一度、寝るのも忘れ、食べるのも忘れるほど熱中する「何か」がしたい。

50歳すぎて、またイチから自分探しである。


2015年12月26日

今年出会ったことば


 会社を辞めてはや1年。新しく出会った人たちから聞いた、印象に残るひと言。



「自由100%、寂しさも100%」

 3年のリハビリで、車いすを捨てて再び歩きだしたユリコさん。医者の診察後、街で食事や買い物を楽しんでいるという。「自由を取り戻しましたね」と水を向けて、返ってきたのがこのことば。「息子は嫁に取られ」、箱根おろしが吹く山間の市営住宅にひとり暮らす。



「ミヤサカ君、歳取って最後にものをいうのは金だよ」

 老人ホームに入った奥さんの元に、週3回通うMさん。以前は2人でそれぞれ個室に入居し、月50万円かかっていた。自らは何とか自宅に戻ったものの、なりわいの不動産屋は開店休業状態で「もう破産しそう」。



「あたしゃツライよ」

 台湾から来た4歳のアミちゃん。幼稚園が終わった後も、英語や水泳、バレエなど、習い事がてんこ盛り。午後8時すぎの日本語教室で、切り絵で遊びながらポツリと漏らしたひと言がこれ。教育熱心なお母さんは、私大医学部の授業料がいくらかかるか、周囲の日本人に聞いて回っている。



「男の人から花を頂いたの、生まれて初めて」

 ユキエさんを医院に送った待ち時間、スーパーをのぞくと花束が売られていた。明日で90歳になる、と聞いたのを思い出し、買って別れ際に手渡した。ユキエさんはずっと独身で、幼稚園の先生を40年務めた。



「お母さんのカーシャが食べたい」

 カーシャはロシアの伝統的な朝食で、そば粉や麦、牛乳で作ったお粥。カーシャが食べたいソフィアも金髪に碧眼、八頭身のロシア美人だ。日本人男性に嫁ぎ、義父母と4人で丹沢山ろくに暮らすが、最近はいささかホームシック気味。日本語学習の一環とはいえ、「好きな食べ物は何ですか?」と聞いてしまったのを後悔した。



「長生きなんてするもんじゃない」

 ユキコさんは昭和7年、浅草生まれ。腰痛に加え、腎臓にも持病がある。6人きょうだいの長女で、戦争中は空襲警報のたび、妹を背負って防空壕に避難した。「痛みを我慢しながら生きても仕方ない」と言われ、うまく返せなかった。次に送迎する機会があったら、なんとか楽しい話題に持っていきたい。

※「Vulnerable な人びと」のシゲコさんは先週、入院先で亡くなった。ただ1度病院に送っただけだが、印象深い人だった。一期一会。謹んでご冥福をお祈りします。


2015年12月19日

新幹線で30分のユートピア


 東京から80キロ離れて1年。

 海と山に囲まれて暮らし、土地の恵みを享受している。

 先日、マイカー代わりに使っているレンタカー屋のお姉さんから、泥だらけの大根をもらった。おいしかった。

 東京でも、マイカー代わりにレンタカーを使っていた。東京では、ちゃんとガソリン満タンで返却したか、疑わしげに給油口を開けられたりした。泥付き大根なんてくれなかった。

 台湾から来たアミちゃん(4歳)のお母さんは、大根の葉をくれた。ボランティア仲間のタカノさんからはシイタケ。時々、通院に付き添うカヤモトさんからは生姜と里芋。自家製梅のジャムをくれたおばあちゃんもいた。

 オカダさん宅で「ミカンいるだけ持ってけ」と言われた時は、「昨日もらったばかりなので・・・」と、断らざるをえなかった。

 ジョギングで街はずれを走っていると、あちこちにミカン畑がある。熟れたミカンがたわわに実って、地面にボトボト落ちている。頭上では、カラスや小鳥たちが飽食してゲップをしている。

 知り合いのおじいちゃんは、「うちにもミカン畑があるけどよう、足が悪くなってからは行けないんだわ」と言っていた。たとえ収穫しても、1キロ2~3円にしかならない。草刈りだけは、シルバー人材センターに頼んでやってもらうという。

 農家の軒先にはミカンが山積みになっていて、「ひと山100円」と書かれた集金箱が置いてある。なぜか街中のヒライ書店でも、ミカンひと山100円で売っていた。

実情を知ってしまうと、100円でも高いと思う。この辺でミカンは、買うものでなく拾ってくるものだ。

もちろん、もらいものだけでは生きられない。でも東京のように金がすべてで、金がないと飢え死にする雰囲気はない。気持ち穏やかに暮らせる。

さて、今年も忘年会シーズン。師走を日本で迎えていることもあり、個人的に史上最多、8回の忘年会をこなしている。今、半分終わったところ。

会費がタダだったり、1000円、2000円だったりするのは、安い店が多い上に、所属する組織から補助があるからだ。東京・大手町界隈のオフィシャルな忘年会では、店がまずくて高い上に、会社の補助などないので、8000円取られていた。今年は1万円と聞く。

いまや一部大企業より、NPOやボランティア団体の方が潤っているかも知れない。

地元の忘年会が終わった後、自転車で5分走れば帰宅できてしまうのも、とても気に入っている。


2015年12月12日

Vulnerable な人びと


 5階建て市営団地の最上階に、足と心臓の悪いシゲコさんは暮らしている。

 月1回の通院日に、車いす仕様の介護車両で迎えに行く。団地の入り口で待つが、シゲコさんは現れない。

エレベーターのない団地の階段を、5階まで上がる。呼び鈴を押そうとすると、マジックで「ドアをノックして下さい」とある。数回ノックしたが、応答がない。自宅の電話に掛けてみると、留守電になっている。

 団地の周りをウロウロしていると、自治会長のおばちゃんが出てきた。事情を話すと「シゲコさんはね、前も薬を飲みすぎちゃって、救急車で運ばれる騒ぎがあったのよ」と、少し迷惑そうに言う。そのまま、どこかへ行ってしまった。

 我がNPOのボスが、ヘルパーに連絡してくれたが、どうにもならないという。一緒に飲んだばかりの、社会福祉協議会のHさんに助けを乞う。合鍵を持っている民生委員に当たってくれたが、電話がつながらない。

 なおもウロウロしていると、1階のおばあちゃんが買い物かごを下げて出てきた。シゲコさんが下りて来ない、と話すと顔色を変え、「あの人は一人で出歩けるような人じゃない。部屋で倒れてるかも知れない」と言う。

 以前、シゲコさんを病院に送ったことが1回だけある。会うなり「これ持って!」と手提げを突き出し、やおら四つん這いになって、団地と車道との段差を降り始めた。ぶっきらぼうな口調で、北海道の寒村で生まれたこと、16歳で出会った夫と最近死別し、息子とも離れて独り暮らししていること、子どもの頃「明日おじさんが死ぬ」と予言したほど霊感が強いこと、など話してくれた。

 再度、一緒に5階に上がる。「そんな叩き方じゃ聞こえないよ」と、おばあちゃんはドアをガンガン叩き、「シゲコさ~ん」と叫ぶ。応答なし。

反対側から非常階段を上り、柵を乗り越えバルコニーに不法侵入を試みる。窓にはカギがかかっており、中の様子はカーテンで見えない。前回、救急隊員は風呂場の窓から室内に入ったそうだが、その方法も使えない。

 1時間以上が経ち、次の予定があってその場を離れた。後で聞くと、シゲコさんは部屋で動けなくなっていて、救急搬送されたという。間一髪だった。

 人工透析と腰痛のため週3回、病院通いしていたシズエさん。車に乗っている間じゅう、「痛い、痛い」とうめき声を上げる。本人はもとより、乗せる私も地獄だった。シズエさんは先月入院したまま、いまだ連絡がない。

白血病で毎週の輸血が必要だったカズコさんも、ある日病院に送っていくと、そのまま緊急入院してしまった。残された夫も足が悪く、一人ではどこにも行けないはずだ。その後、送迎の予約が入らないので、チャリンコで様子を見に行く。自宅はすべての雨戸が閉められ、ひっそりと人けがなかった。

腎臓病で週3回、透析に通うサトルさん。いつもは15分前に、歩行器にすがってアパート前で立っているのに、今日は姿が見えない。そういえば最近、透析中に血圧が下がってしまい、処置に時間がかかることが多い。

ドアを叩き、名前を呼ぶ。緊張が走る。

何度目かで、「鍵開いてるよ~」と眠そうな声で返事があった。「どうしたの~?」「もう8時半です」「え、そんな時間?寝坊しちゃったな~。まだ朝ご飯食べてないし、どうしようかな~」「でも病院の予約があるんですよね」「そう、そうだよね~。じゃあ行きますか~」「・・・・・」

この人は・・・大丈夫だ。



2015年12月6日

パスポート・パワー


 南の国へと、旅立つ季節がやってきた。

 パスポートを出してみると、ページに余白がない。

 増補分を含めた90ページが、最後の1ページを残して出入国スタンプで埋まっている。有効期限は残っているが、更新が必要だ。

 一時期、2週に1回ペースで海外出張をしていた。

 そういう世界に憧れて新聞社に入ったとはいえ、過ぎたるは猶及ばざるが如し。もう一度、似たような暮らしをしたいとは思わない。

 いまは、いろいろ調整しながら、生活のペースを自分で決められる。これぞ人生。このまま、雇われない生き方を続けたい。

 よくぞ日本人に生まれけり。心からそう思うのは、外国に着いたときだ。

見知らぬ国の空港に降り立ち、イミグレに並ぶ。入国審査は厳重を極め、行列が遅々として進まない。いよいよ自分の番になり、緊張して菊の御紋入り赤パスポートを差し出す。

 何も聞かれずポン、とスタンプが押され、ひとりだけ90秒で終了。

 そういう経験が、1度や2度ではなかった。

 タイに住んでいた時、何度かアフガニスタンに出張した。バンコクにはアフガン大使館がなかったため、その都度マレーシアのクアラルンプールまで「ビザ取り出張」に出ていた。即日発給されないので、毎回2泊3日。今こんなことをしたら、会社の経理に何を言われるかわからない。

 在マレーシア・アフガン大使は大の親日家。面接では「何か困ったことがあったら連絡しなさい」と、カブールの自宅電話番号まで教えてくれた。ビザ更新で一緒になったアフガン人は、国外に出るのがどんなに大変だったかを切々と訴え、どこでも行ける私のパスポートをとても羨ましがった。

 仕事で南太平洋の島に行った時、オーストラリアの空港を経由した。私のパスポートには、アフガニスタンやパキスタン、イランなどの入国スタンプがベタベタ押されている。それを見たイミグレの係官は、即座に私を行列から引き離した。

いつもと全く逆のことが起きた。公衆の面前で、スーツケースの中身を全部ひっくり返され、洗濯前のパンツ含め、所持品を詳細に調べられた。オーストラリアに対する私の心証は急降下した。

「ならず者国家」などと勝手にレッテルを張られた国の人たちは、この種の屈辱を日常的に味わっているわけだ。本当に理不尽だと思う。

カナダの金融機関が発表した「パスポートパワー・ランキング」では、ビザなしで渡航できる国の数を調べている。首位は米国と英国の147か国。アジアのトップは意外にも?韓国で、145か国。日本は143か国で8位だった。韓国とは、アフリカや中南米諸国への外交力で差をつけられたか。

次にパスポートを更新する頃、60歳になる。不慮の事故さえなければ、まだまだ外国に行けるぞ。

夢見る男の横から、妻のひと声

「不慮の金欠で、どこにも行けなくなったりして」



2015年11月29日

アジアで走れば③


中国・浙江省杭州は、街の真ん中に西湖という大きな湖がある。

湖畔には、共産政権前からの老舗ホテルやレストランなど、古い建物が並ぶ。柳の枝が風になびき、小雨が沛然と降るさまは、水墨画の世界を彷彿とさせる。

アンケートでは、市民の生活満足度が中国一高いそうだ。

2008年、北京五輪の聖火リレーがパリで妨害された。フランス資本のスーパー「カルフール」が、中国各地で報復の焼き討ちにあった。杭州市民だけは穏健で、当地の「カルフール」は変わらぬにぎわいを見せたという。

その年の5月、五輪関連の出張で杭州に行き、窓から湖が見渡せるホテルに泊まった。数日滞在し、次の目的地・雲南省昆明に空路向かう朝。ついに欲望に負けて、西湖一周ジョギングを敢行した。

湖は大きい。多少は理性が働いて、橋と中州を通る短いコースにしておいた。

それでも15キロある。

中国有数の観光地だけあり、週末の湖畔は人出が多い。幸い、平日の今日は快適に走れる。周回道路に面した広場のあちこちで、おばさんたちが太極拳や社交ダンスの練習をしている。

1時間半ほどで走破。シャワーを浴び、フライトまでの時間をホテルでくつろいでいた。

部屋に、不吉なケータイの着信音が響く。東京本社のデスクからだ。

 「四川省で大きな地震が・・・北京や、遠くバンコクでも揺れたらしいよ。気がつかなかったの?」

「ちょうど走っていたもので・・・」

とは言わなかった。マグニチュードM8の巨大地震だ。

テレビのチャンネルを回す。BBCでもCNNでも、番組を中断して臨時ニュースを流している。ただ事ではない。

案の定、次の電話で

「とにかく現場に向かってくれ」
と、出動命令が出た。

被災地に近い成都空港は閉鎖されている。まず重慶に飛び、タクシーをつかまえて現場を目指す。

英語が全くわからない地元の運転手と、中国語が全くわからない私。真夜中の山道は、漆黒の闇。行けども行けども、何も見えない。朝刊の締め切り時間が、無情にも過ぎていく。

「今朝走るんじゃなかった・・・体力を温存しとけばよかった・・・こんな時に大地震? よりにもよって・・・」

ひとりつぶやく午前3時、異国の後部座席。

(出張先で新潟県中部地震に出くわして以降、なぜか私の行く先々で地震が起きた。同僚記者からは「地震男」「頼むからこっちに来ないでくれ」と疎んぜられた。四川大地震に遭遇したこの時、ふつう企画出張では使わない衛星電話を持参していて、2週間に及んだ被災地取材で命綱になった。虫が知らせたのかも知れない)





2015年11月25日

管理職からの逃亡と、無理やりダイバーシティ


 日本や外国を旅して、写真と文でルポルタージュを作る。時には、会社の金でヒマラヤ登山もしたい。

 新聞社に就職した当初の入社動機は、断続的に20年余り、かなえられてきた。

 いずれ自分も現場を離れ、管理職になる。その日が来ることはわかっていたが、見て見ぬふり。報道カメラマンを志す者にとって、朝から晩まで社内にこもって管理業務をすることは、キャリア上の〝死″を意味した。

 40代になり、いよいよその時が近づく。先輩たちを見て、自分も本心を偽りながら管理職を務めることができるのではないか、と都合よく考え始めた。

甘かった。

 朝夕刊を作るための編集会議。社内では「立ち合い」とか「土俵入り」と呼ばれている。初めて出た時の絶望的な気分は、今だに覚えている。

 会議スペースを埋める、見渡す限り灰色一色の群れ。政治部、経済部、社会部、国際部、地方部などなど、取材部デスクたちのくたびれたスーツ姿が並ぶ。LGBTもクソくらえとばかり、揃いも揃って「日本人・中高年・男」たちだ。みな、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。澱んだ空気に、窒息しそうになった。

 私自身、立派な「日本人・中年・男」である。自分の属性だけは変えられない。見かけだけでも個を貫こうと、スーツやネクタイを着けず、柄シャツを着用。勇気ある行為、と自画自賛したが、最後まで無視された。

 (他本社には、短パンとサンダルで編集会議に出席し、局長に「ここはビーチか」と言わしめた豪快な先輩がいる)

 弱小部署の中間管理職は、権限がないに等しい。新聞製作の中枢に飛び込んでみて、写真はしょせん、記事の添え物としか扱われないことを思い知らされた。そのくせ、自分や部下が失敗した時だけは責任を取らされる。割に合わない。

 恵まれていた現役時代との、あまりのギャップに夜、眠れなくなった。心療内科の門を叩く。毎日ジョギングしていると言ったら、門前払いを食いそうになる。なんとか大量の抗不安剤を処方してもらい、規定の2倍ずつ飲んで、苦難の日々を乗り越えた。

やがて無能ぶりが認められ、配置転換してもらうことができた。

 中高年の日本人(男)が作る、中高年の日本人(男)のための新聞。そんな新聞に未来はあるのか。

 携帯電話で世界を席巻したノキアが、あっという間に没落した一因は、経営陣が「フィンランド人・中高年・男」という画一的な集団で、変化に対応できなかったためと言われている。

 政府が管理職の女性比率を引き上げる数値目標を課すせいか、最近会社が急に女性管理職を増やし始めた。「立ち合い」にも、女性の姿が目立つようになったという。その陰で、ろくな準備期間もなしに登用された一人が、心を病んで休職したと聞き、私は言葉が出なかった。その人には在職中、とても世話になっている。 

 女性はもちろん、レズやゲイやバイやトランス、オカマちゃん、外国人などなど、が参加すれば、会議はがぜん楽しくなる。議論百出、面白い新聞ができそうだ。でも会社側が、体面だけで多様性を追求すれば、ただ犠牲者を生むだけ。組織はむごいことをする。

 与えられた仕事が辛くて、心身にまで影響が及びそうになったら、とにかくその場を逃げてほしい。仮病でも降格願いでも脅しでも、どんな手を使ってもいい。世の中、病気になってまでやらなければならない仕事など、ない。

 逃げてもいい。逃げるが勝ち。逃げた方が楽しい。会社を辞めても大丈夫。

 私が証明する。



2015年11月20日

アジアで走れば②

2002年に独立した新しい国、東ティモール。

独立前後の激しい内戦から脱し、初の国政選挙が実施された2007年7月の首都ディリは、落ち着きを取り戻しているように見えた。

だが経済は破綻状態で、失業率は高い。目つきの悪い若者たちが、街角にたむろしている。唯一まともに泊まれるホテルの窓ガラスは、銃弾が貫通した穴が開いていた。

国連平和維持部隊のオーストラリア兵が、自動小銃の引き金に指をかけて市内を巡回している。

街外れの丘の上に、両手を広げたイエス・キリスト像がある。ホテルから、片道7~8キロほどか。街を流しているボロボロのタクシーを捕まえて丘まで行き、よく海沿いをホテルまで走った。

日中はとてつもなく暑いので、ちょうど途中で日が暮れるぐらいの時間を見計らってスタートする。すると、「真っ赤な夕陽に向かって走る」ヒーロー気分が味わえる。

こんなことばかりしているので、報道カメラマンとしては、なかなかヒーローになれなかった。

それはさておき。

走りながら見下ろす南太平洋の海は、底が見えるほど透き通っている。いつの日か治安が安定し、海岸が観光客でにぎわう日が来るだろうか。いまは非番のオーストラリア兵たちが、マッチョな上半身むき出しに、砂浜を走ったり泳いだりしている。

その日もひとっ走りしてホテルに戻ると、顔なじみになったフロントの女性に

「どこに行ってたの?」

と聞かれた。

「ちょっとキリスト像までジョギングに・・・」
と答えると、

「Oh、デンジャラス! あの辺は治安が悪いですよ。明日からは私の息子と一緒に行きなさい」

と、親切に言ってくれた。

だが、その脇で無邪気にジュースをすすっている彼女の息子は、どう見てもまだ小学生。小学生に護衛される私は、いったい何なんだ。

彼女の言う「デンジャラス」がどの程度のものなのか、にわかには計りかねた。

その答えは、私がバンコクに戻った7か月後に出た。ジョギングコースにほど近い大統領と首相の私邸が、失業した元兵士たちに襲撃された。銃弾を浴びたホルタ首相(当時)は空路、オーストラリアの病院に緊急搬送され、危うく一命を取り留めた。

そんな事件があってもなお、あの時は危なかったという気はしない。

会社を辞めたいま、東ティモールは遥かな国。いつかひとりの観光客として訪れ、成長した彼と一緒に、またあの静かな海沿いを走りたい。




2015年11月15日

アジアで走れば①


早朝ジョギングで派手に転んだ。

場所は駅前。すぐ起き上がり、何事もなかったような顔をして走り続けたが、恥ずかしかった。

家に帰って調べてみると、手のひら、肘、膝から出血している。

今までだったら、路面に凹凸があっても、とっさに体勢を立て直せたはず。バランスや筋力が衰えてきたとしか思えない。また鍛えなおさないと、この冬にバンコクの悪路で走ったら骨折ものだ。



話は飛んでパキスタン。バンコク駐在時代に、イスラマバード・マリオット・ホテルを出張でよく利用した。

ライティングデスクの引き出しに、ジョギングマップが入っている。タフでなければエリートにあらず、旅先でも運動を欠かさないアメリカ人ビジネスマンを顧客に持つ、米系ホテルらしい気配りだ。

単純なアメリカ人たちと一緒にはされたくないが、私も相当なジョギング中毒。学生時代から30年来の習慣で、

「走らないと病気で死ぬ」

と本気で思っている。

出張にもシューズ持参で、隙あらば走っていた。



ここイスラマバードでも、さっそく地図片手にホテルを飛び出す。

混沌のパキスタン。路上はホームレスや聖職者、馬やロバからテロリストなどで埋め尽くされ、普通はとても走る気になれない。だが、首都イスラマバードだけは例外。整然とした計画都市で、弁護士などのホワイトカラーや富裕層が多く住む。歩道も整備されていて、外国人が走っていても違和感なさそう。

空気が乾いて、気候も程よい。

気持ちよく走り出す。バンコクからの長いフライトの疲れが、汗とともに流れていく。

地図に従って角を曲がる。

と、道の真ん中が鉄条網で塞がれている。張り詰めた空気。

土のうの奥で人影が動く。自動小銃の銃口が、いきなり私のこめかみに向けられた。

訳もわからずバンザイしながら必死で笑顔を作り、あわててUターン。

ホテルが見える場所まで戻ったところで、どっと冷や汗が流れた。

いつの間にか、泣く子も黙る諜報機関、ISIの敷地に紛れ込んでしまったようだ。

いい加減な地図のおかげで、大変な目に遭った。



※イスラマバード・マリオット・ホテルは、私が泊まった半年後の2008年9月、爆薬を満載したトラックが突っ込んで炎上し、死傷者300人余を出した。現在は営業を再開している。


2015年11月8日

マラリア発 破傷風行 ②


 さっそく飛行機を押さえなければ。パプアニューギニアからパキスタン、気が遠くなるほどの距離だ。いったい、どうやって行けばいいんだ。

インターネットさえ通じれば、すぐに最短経路や空席状況を検索できる。だがここニューギニアのジャングルにネット環境はなく、宿のフロントに怪しげな固定電話があるだけ。とりあえず、バンコクのタイ人助手を電話でたたき起こそうか。

ふと思いついて、クレジットカード会社が会員向けに提供している24時間アシストサービスに電話してみる。ニューヨークのコールセンターにつながり、女性スタッフは私の窮状を聞くと、さっそく調べてくれた。

パキスタンのイスラマバードまでは、ポートモレスビー、ケアンズ、シンガポール、ドバイ、カラチ経由が最も早いとのこと。ケアンズ~シンガポール間は席も押さえてくれる。他のフライトは、空港で直接空席を当たるしかないというが、親身な対応に感激する。

翌未明、宿の車でウエワク空港まで送ってもらう。チェックイン後、手荷物検査もなしで飛行機に乗り込むことができた。この辺の空港は、乗客をテロ犯と疑ってかかる習慣はないようだ。

途中マダンを経由して、まずポートモレスビー着。治安が悪いことで有名な空港だ。国内線ターミナルから国際線ターミナルへ、強盗に用心しながら駆け足で移動する。

ポートモレスビーから、同じくエア・ニューギニーでオーストラリアのケアンズへ。次にエア・オーストラリアでシンガポール。シンガポールから、エミレーツ航空の夜行便で砂漠の街、UAEのドバイ。ドバイから同じくエミレーツで、アラビア海を越えてパキスタンのカラチ。カラチからパキスタン航空国内線で、被災地にほど近い首都イスラマバードへ。

飛行機を5回乗り継いで、30時間。ウエワクを出た翌日の夕暮れに、イスラマバードにたどり着いた。すぐに車で、日本の緊急援助隊を追って夜の山岳地帯に分けいる。

その晩は、車中で夜を明かした。被災地の夜は、氷点下近くまで冷え込んだ。

やがて夜が明けると、石積みの民家が軒並み倒壊し、あたり一帯ががれきの山と化した光景が目に飛び込んできた。死者9万人、負傷者10万人余に及んだパキスタン北部地震。この日からカメラを担いで、震源地を駆けずり回った。

病院は倒壊し、仮設テントの救護所には負傷者があふれている。手に入る食料は、ビスケットと水ぐらい。電気や上下水道などのインフラが破壊され、衛生環境は日に日に悪化していく。

バンコク赴任時、破傷風と狂犬病の予防接種を受けてきた。学生時代のアジア放浪で、A型肝炎と赤痢に罹ったので、その免疫も残っている気がする。

でも数日前まで、マラリア汚染地域であるニューギニアの密林で、毎日蚊に刺されまくった。

この状況でマラリアを発症したら、生きて帰れないかも知れない。

ふと我が身を省みて、背筋に悪寒が走った。




 

マラリア発 破傷風行 ①


私が新聞社のバンコク駐在カメラマンだった2005年当時、海外駐在カメラマンは3人。それぞれニューヨーク、ロンドン、バンコクをベースに、世界を3分の1ずつカバーしていた。

 地球儀で見るの守備範囲は、西はアフガニスタン、東はニュージーランドや南太平洋の島々、北はモンゴル、南は・・・南極までのようだ。

 この範囲、厳密に決められている訳ではない。バンコク赴任前に上司に確認すると、
「どこ行ってもいいよ」
と言われた。

赴任した年の7月、ロンドンで同時爆破テロが起きた。出張先のシンガポールでBBCを見ながら「ロンドンは大変だなあ」と思っていたら、東京から電話でロンドン行きの指示が出た(結局は行かずに済んだ)。その後も東京の要請で、ロンドン管轄のはずのイランやヨルダンまで出張した。

「どこ行ってもいい」はつまり、「どこまでも行け」という意味だった。

戦後60年にあたる2005年10月、厚労省の遺骨収集団に同行して パプアニューギニアに渡った。バンコクからシンガポール、ブリスベーン、ポートモレスビーを経由して、ようやく3日目にかつての激戦地、ニューギニア島北岸ウエワクにたどり着いた。

 昼なお暗い熱帯雨林での遺骨収集も10日目、明日は遺骨を胸に帰国の途へという夜、携帯電話が鳴った。赤道直下のジャングルにいても、デスクの魔手からは逃れられない。
「今どこにいる? パキスタン北部の山岳地帯でM7.6の地震。相当の被害が出てるみたいだよ」
「なに? パプアニューギニアにいるの? じゃあちょっと無理かな」

「え、パキスタンのビザ持ってる? それを早く言えよ。取材が済んでるなら、すぐに向かってくれる?」
 余計なことを言ってしまった。先月、パキスタンからアフガニスタンに向かった日本人教師が行方不明になった。事態が動いた時のために、バンコクでパキスタンの取材ビザを取っておいたのが仇になった。

 さっそく飛行機を押さえなければ。パプアニューギニアからパキスタン、気が遠くなるほどの距離だ。いったい、どうやって行けばいいんだ。




2015年10月26日

心のファック・ユー・マネー


インベストメント・バンカーは、一生暮らせるカネを稼ぐことを目標にする。

名付けてファック・ユー・マネー。

上司に「くそったれ!」と啖呵を切って、会社を辞めるためのカネだ。

金額にして、3~4億円だという。

「巨大投資銀行」の作家・黒木亮が、日経新聞に書いている。

彼自身も銀行や商社で働き、一生暮らせる蓄えを作って46歳で退職。いまは自分が書きたいテーマだけを書き、ロンドン郊外に暮らしている。

カネで幸せは買えなくても、自由を買うことはできるのだ。

ところでこのファック・ユー・マネー、好景気に居合わせたウォール街の投資銀行家だけが稼げるカネだろうか。

アングロサクソンたちの弱肉強食、一攫千金とは一線を画す地道な方法で、「慎ましく暮らせば」一生食べていけるカネを作る。

それを実践した先人が、日本に2人いる。

日比谷公園を設計した明治期の林学博士・本多静六と、今年91歳になる言語学者、外山滋比古。

2人に共通するのは、若いころから貯金を習慣にして、そのカネを銀行に預けず、株式に投資したことだ。

本多は学者ながら巨万の富を得て、慈善家としても活躍。外山も大金持ちでこそないだが、主義主張を通して40代で転職し、捉われない生き方を謳歌している。

彼らの時代、株で財を成すには幸運も必要だったと思う。個人の投資先は国内に限られ、情報も少ない。時には、買った株が紙くずになったこともあったはずだ。

いまや、時代は変わった。

ポマード頭の橋本龍太郎が首相在任中、命を削って断行した「金融ビッグバン」。私たちに外国株投資への道が開かれた。

そして7年前に登場したのが、VT。

私が「株式投資の最終兵器」と信じる金融商品だ。

Vanguard Total World Stock の略で、NY市場に上場する投資信託。この1本で、新興国や小型株を含め、世界8000社以上の株が買える。

たった60ドル(約7000円)で、究極の国際分散投資ができるのだ。

給料の一部で、雨の日も風の日もVTを買い続ける行為は、私に夢と希望をもたらした。会社に行くのが辛い時期を持ちこたえ、人より早く退職する決心もできた。

若い友人たちも、ぜひVTで「心のファック・ユー・マネー」を作ってほしい。

※でも投資は自己責任でお願いします・・・


自然学校で

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