2015年1月28日

路上観察業


 今週は通称「バンコクの青山通り」こと、ランスアン通りのサービスアパートに泊まっている。14階の部屋は2ベッドルームにダイニング、ソファ、ライティングデスクがあり、バスルームも2つ。こんなぜいたくが出来るのは、予約していた小さめの部屋を、受付の女性がアップグレードしてくれたからだ。33階の屋上にはプールもあり、発展を続ける都心を一望できる。

 早朝ジョギング中に、マンション建設現場に入っていくトラックの荷台で、作業員がハンモックに揺られながら寝ているのを見かけた。走行中の荷台は風通しも良く、適度に揺れてさぞ気持ちがいいだろう。この上なく優雅な出勤方法だ。

 車のタイヤを3本頭からかぶり、おなかに巻いてバイクで走っているおじさんを見かけた。どこかに届ける途中だろうか、これも東京の青山通りでは見かけない風景だ。タイヤを3本バイクで届けてくれと言われたら、確かにこの方法しかない。それに、もし車とぶつかって跳ね飛ばされても、タイヤと一緒にコロコロ転がって、多少目は回るが無傷で済む。日本では道交法違反に問われるのだろうか。むしろ一石二鳥の良いアイデアだと思う。

 大学生が集うおしゃれなスターバックスの店先で、農家のおばちゃんがヤシの実を売っている。もぎたてのヤシの実をトラックで運んできて穴をあけ、ストローを差して1個20バーツ(約75円)。スタバのトールラテは日本と変わらない値段なので、その5分の1だ。見ていると、通りがかりのお金持ちにもよく売れている。スタバの零細株主である私としては、やや気が気でない。どこかほかの場所で商売してくれないかな・・・

 角のローソンでは、おにぎりや焼き魚弁当、おでんといった日本のコンビニおなじみの品のほかに、石焼き芋まで売っていた。この暑い国で石焼き芋が売れるのだろうかと思っていると、若い女性が買っていった。この店は両方の通りに面して入り口があるため、歩行者の「冷房の効いた近道」代わりにされている。何も買わずに店内を通過していく人が引きも切らないが、店員は何も言わない。株主ではないので私も何も言わない。

 ランスアン通りの両側は再開発の最中で、建設現場だらけ。今は空き地になっている場所も、そのうち工事が始まりそうだ。数年後には全く別の街に変貌するだろう。

相次ぐ政変で、経済が停滞していると報じられるタイ。だが、バンコクやチェンマイは訪れるたびにどこかしら変わっていて、飽きることがない。なんとなく緩い空気を保ちながら、発展途上の国特有のエネルギーと無秩序さで、前に進んでいる。現状維持が精いっぱいに見える日本にいるより、ここに身を置いているだけで気持ちが軽くなるような気がする。

問題は、この街で何をするかだ。

 世の中に、路上観察業、という職があればいいのにと思う。

2015年1月25日

労働許可証ありません


 タイにはリタイアメントビザというありがたい制度があり、50歳になると同時に長期滞在が可能になる。

 私がなぜこのタイミングで会社を辞めたかがばれてしまう。

 ところがこの制度には条件がいくつかある。ひとつは「タイの銀行口座に80万バーツ(約300万円)以上の預金残高があること」だ。だがこの条件をクリアするためタイの銀行に行くと、「労働許可証のない人は口座を作れません」と言って追い返される。

 普通、リタイアメントビザを取る人はリタイアした人なのでは?

 労働許可証と言われても・・・

 バンコクの旅行代理店で、雑談でこの件を愚痴ると「知り合いの仲介業者を紹介できます」「この仲介業者は入国管理局に強力なコネがあるので、銀行口座がなくても確実にビザが取れます」「ついては代行手数料○万バーツです」とのことだった。

 さすが、融通無碍なタイ!お金さえ払えばどうにでもなるらしい。

 賄賂が必要な場面に出会った時、その国が嫌いになってしまう人もいるだろう。私は大好きだ。

とはいえ、その○万バーツが惜しい。ネットには「○○銀行××支店では労働許可証なしでも口座が開けた」「先月は開けなかった」など色々書いてある。情報を総合すると、銀行口座を開設できるかどうかはいくつかの銀行の、特定の支店の、その時の担当者次第ということらしい。これは手間がかかりそうだ。

先日チェンマイで、銀行口座開設にトライした。向かうはバンコク銀行ニマンヘミン支店。女性行員に英語で「口座開設したい」と告げパスポートを渡すと、「ワークパーミットは?」と恐怖の問いかけが。「実は観光ビザしか持っていません」「でも大好きなチェンマイに移り住みたい」「そのために貴行に口座を開き、日本からお金を送る必要があります」と必死に説明する。

 行員が奥に引っ込む。上司の判断を仰いでいるようだ。ひと月前、バンコクのカシコン銀行でにべもなく断られた経験が頭をよぎる。その時は妻の友人(現地在住)に「パスポートと一緒に札束を差し出せば」と言われ、1ドル札30枚の両端を100ドル札で挟んだものをちらつかせた。何の効果もなかった。

彼女が戻ってきた。「運転免許証は?」想定外の質問だ。「・・・持っていません」絶体絶命。

 ところがその後、言われるままにデポジットを渡し、日本とタイの住所と電話番号を記入、10回ぐらいあちこちにサインして20分後。あっけなくバンコク銀行の青い通帳と、VISAデビット付キャッシュカードを手にすることができた。

 何が幸いしたかわからない。とりあえず、第一関門を突破したようだ。
チェンマイ市内フードコートの午後6時

2015年1月21日

ネコと遅いインターネット


 タイの田舎でネコと遊んで暮らす、という退職前の夢が実現した。

 少々行儀の悪いネコで、すぐ食卓やキッチンに飛び乗ってくるという誤算はあったものの、まずまず期待通りの生活だ。

 時折吹くさわやかな風、鳥のさえずり、目に映る南国の草花・・・それらを味わうのに、1日の大半を費やしている。

 もともと活字中毒気味なので、毎日市場へ英字新聞を買いに行くが、買うだけで満足してしまって読まない。頭の中は空っぽになりつつある。

 ところが、せっかく都会から離れてのどかな環境にいるのに、ついインターネットをのぞいてしまう。迷惑メールしか来ていないのに、何度もメールボックスをのぞく。ニュースサイトを当たり、イスラム国による邦人殺害予告を知る。日銀の金融政策決定会合で揺れる株価や為替をチェックする。

 こちらで借りているポケットwifi には、21.6Mbps と誇らしげに書いてあるが、この性能、LTEだ4Gだが当たり前の今の日本に比べるとずいぶん遅いのだろう。とにかくウェブサイトの中の画像が、いつまでたっても現れない。動画なんて夢のまた夢。それでも文字情報だけでも、と動かない画面を延々と見てしまう。ふだんネットにつながっていないと不安なほうではないのだが、これも一種の中毒症状か。

 タイの地方にいると、日本のネット環境の方こそ特別に思える。東京で働いていた頃、友人たちは路上でも電車に乗っていても富士山頂でも、いつでもどこでもフェイスブックでコメントを交換し、LINEやツイッターでやりとりしていた。乗り物の中でまで動画が見られたり・・・これは実はすごいことなのだ。そしていつの間にか、私たちはその便利さを当たり前と思ってしまっている。だから外国でネットが遅いだけでストレスをためる。

 こちらに来るとき(去年の12月)に成田空港で読んだTIMEには、世界人口72億のうち、ネットに接続できない人がいまだ43億人いると書いてあった。その半分は貧困層。インフラとしてはすでに世界人口の85%までカバーできているそうだ。

 2007年に仕事でアフガニスタンに行ったとき、きれいなイギリス英語を話すアフガン人の青年ジャワットが助手についてくれた。ラジオでBBCを聞いて英語を独習したのだそうだ。カブールの丘を埋め尽くす泥壁の家々のひとつで、雑音だらけのラジオにかじりついて勉強する彼の姿が目に浮かんだ。

 私は日本語のネット空間がそこそこ広いのに満足し、インターネット情報の9割が英語なのを忘れがちだ。米英の一流大学は、講義をネット上で無料公開し始めた。先進国で生まれた子どもだけでなく、たとえインドやアフリカの農村で生まれても一級の教育を受けられる世の中が、すぐそこまで来ている。

 遅いネットと格闘しながら英語を学び、スタンフォード大のサイトにアクセスを試みるもう一人のジャワットが、タイ北部にいる私の隣に住んでいるかも知れない。
 

2015年1月18日

Je ne suis pas Charlie...①


 タイ北部の村にいます。


 今回は小さめの2階建て一軒家を借りてみた。

 バンコクより北にあるせいか田舎のせいか、日が暮れると気温が下がり、家の中は涼しすぎるほど。しかも南国仕様のこの家は、窓はたくさんあるけれど窓ガラスはない(網戸だけ)ので、室温は外気温と同じだ。明け方は小鳥のさえずりが枕元まで盛大に入ってくる。

すでに体も南国仕様になっているのか、今朝は家の中でダウンジャケットを着ていた。こちらの太陽はエネルギッシュすぎて、いつも逃げ回っているが、今朝ばかりは日の出が本当に待ち遠しかった。

 バンコクも年に何日か、最低気温が20度を切る日がある。そういう時は盛大にせきやくしゃみをし、鼻水を流す人が急に増える。日本人には微笑ましく感じる光景だが、こちらでは水シャワーが一般的なので、風邪をひきやすいのだろう。気温が10度台の朝に水シャワーを浴びるのは結構な覚悟が必要。一度やってみるとわかる。しかもタイ人は日本人よりよほどきれい好きで、朝シャン(←古いか)してこない日本のおじさんは露骨に嫌われる。

 自転車で30分ほどの市場まで買い物に行ったり、庭をほうきで掃いたり、洗濯したり、3度の食事を考えたり、ドイツ人のおじさんが焼くパンを近所まで買いに行ったりしていると、1日は本当にあっという間だ。去年までどうやって会社に行く時間を捻出していたのか、すでに想像もつかない。

 この家ではモバイルルーターを借りてネット接続している。まあのんびりした速度で、メール5通を受信するのに1分かかったりするが、私は1日中スマホを見ている人ではないので(見たくても持ってない)平気だ。

 もちろんテレビはない。今までは職業上、事件事故をいち早く知るために、休みの日もテレビをつけっ放しにしていた。25年間も・・・これからは、表層的な情報からは意図的に離れてみようと思う。
 ここで話は突然、パリに飛びます。



Je ne suis pas Charlie...②


パリの連続テロ事件が起きたのは、バンコクでテレビのあるアパートに住んでいた時。ついチャンネルを回してしまった。CNNでは犯人が路上で市民を射殺する瞬間や、警官隊が容疑者を撃つ瞬間(正確には0.1秒前まで)の映像が流れていて、衝撃的だった。

事件後すぐ、レピュブリック広場に” Je suis Charlie” と紙に書いた大勢のパリ市民が集まった。数日後にはレユニオン広場などに数百万人が集まったという。その迅速な行動ぶりに、さすがはパリ市民と思った。でも今は少し考えが違う。

Charlie Hebdo の風刺画をネットで見ると、まあ品のないこと。預言者ムハンマドがこれ以上ないほど醜悪に描かれている。政治家は思う存分デフォルメし、風刺すればいい。でも彼らのどこに、人さまの宗教を悪く言う資格があるのだろう。自分が信じ、仕える宗教を悪しざまに言われて、どんな気持ちになるか。想像力の欠如というより、他者への配慮がなさすぎる。「言論の自由」のはき違えだろう。

度を越えた風刺画を、言論の自由として許す社会、それに反発して極端な行動を起こすアラブ系フランス人。背景には、フランス人(特に生粋のパリ市民)の根深い人種差別感情があると思う。フランス語を話せない人間、フランス語の発音がおかしい人間を、時として人とも思わない扱いをする。小中学校時代の7年弱をパリで暮らし、現地校にも通った私には、パリ周辺に暮らすアラブ系移民の人たちの気持ちが、少しだけわかる気がする。観光旅行でシャンゼリゼを歩いただけでは絶対にわからないパリが、そこにはある。

これが十字軍の時代だったら、どうぞ宗教戦争でも文明の衝突でも、勝手にやって下さいだ。ところが、自分の懐具合がグローバル経済にリンクし、国境を越えることも多い今の暮らしには他人事でない。保護主義やテロ警戒度の高まりは、私にとっては明らかにマイナス。第一、また9.11直後のように、飛行機に乗るたびに靴やベルトまで脱いでバンザイするのは・・・できれば遠慮したい。

この件で “Je suis Charlie” と旗色鮮明にするのは、日本人として賢明でないと思う。玉虫色がいちばん!でも、テロ行為には反対だが、Charlie Hebdo の編集方針にはもっと反対、という意味で、私は小声で “Je ne suis pas Charlie….” と言いたい。


2015年1月14日

プノンペンを終の棲家に・・・?


  旅行や出張で知らない街に行くと、いつも「自分はこの街で暮らしたいだろうか」と考えてみる。投資家やウェブ関連、文筆業など場所に縛られない仕事なら、住む場所は自分で自由に選ぶことが出来る。そんな生き方に憧れる。

 ここプノンペンはどうだろう。

おおざっぱな印象では、物価は決して安くない。たとえば賃貸不動産物件は、スターツやレオパレス21が進出していて邦人需要が増えているようだが、日本人が快適かつ安全に暮らせるレベルのアパート賃料はバンコクと変わらない。

日本食材は、イオンが出来たので不自由しなさそう。日本食レストランは町中至る所にあり、ランチはどこでも5~7ドルで食べられる。

 私は現地の食べものだけで生きていくことはできない。若いころは(笑)中国で3か月ずっと中華料理で満足していたし、欧米に行けば昼夜ハンバーガーやステーキとフライドポテトでOK!外国でまで日本料理レストランに入り浸る駐在のオヤジたちを、心底軽蔑していた。それがどうだ、今や自分が隙あらば日本食を食べている。昨夜も「おりがみ」というレストランに入ってしまった。サバ塩定食おいしかったなあ。

バンコクで暮らした40代初めの3年間は出張続きで、今日はインドネシアのサテーとナシゴレン、明日はパキスタンでケバブとマトンビリヤーニ、といった日々の繰り返し。当時、心底食べたくて夢にまで見たのは「卵かけごはん」だった。ある年齢になってから外国生活が続くと、体が日本の白いごはんを欲するのだろうか。

またそのころは飛行機移動も多く、タイ航空の機内食を毎週食べていた。ただでさえ飽きるのに、洋食を頼んでもタイ料理の香りがするのには参った。

ここプノンペンの交通機関で、一番お世話になっているのはトゥクトゥク(座席付の荷台をバイクで牽引するタクシーとでも言いましょうか、風通し抜群)だ。料金は交渉制で、ひと乗り2ドルぐらい。距離換算ではバンコクのメータータクシーより割高だと思う。もっともこれは外国人料金で、クメール語が出来ればもう少し安くなるかも知れない。

車とバイクが増え続けている割に信号が極端に少なく、ラッシュ時の大通りを渡るのは本当に苦労する。長く暮らしていると、やっと車の切れ目を見つけて渡りはじめたその瞬間、逆走してきたバイクに轢かれてあの世行き、という日が訪れそうだ。

プノンペンは人口構成が若く発展の真っ最中で、日々刻々と変化していく面白い街だ。人々は穏やかで、素朴な笑顔に出会える街でもある。政治も今のところは落ち着いていて、グローバル経済に国を開いていこうという姿勢がある。

住んでみたい気もする・・・が、もう少し旅を続けることにする。個人的には因縁浅からぬ土地、というか生まれ故郷なので、時々様子を見に来たい。


2015年1月11日

プノンペンの民宿カレー


生まれ故郷、カンボジアのプノンペンに里帰りしています。

 「東洋のパリ」と言われた古き良き60年代のプノンペンで生まれ、クメールルージュの粛清を前に命からがら日本に逃げのびた我が激動の人生を想い、滂沱の涙を流す主人公であった・・・

 実は当時の記憶はほとんどないのだが(なにしろ物心ついたのが高校時代なので)、母乳代わりにカンボジアのバナナを食べていたせいか、バナナさえ投げ与えておけば機嫌がいい人間に育ってしまった。大人になり、スマトラの地震で被災地に入ったときは、3日ぐらいバナナしか食べずに取材し、何の問題もなかった。

 今回は8年ぶりの里帰りになる。それ以前は、クメールルージュの指導者を裁く特別法廷の取材などでカンボジアに来ていた。「オオカミに育てられた少女」に会いに、プノンペンから車で10時間かけて北部ラタナキリ州まで行ったこともあった。当時はそんな怪しげな話題でも出張できたのだが、2008年のリーマンショックが世界を、そして日本の新聞社を大きく変えてしまった。「日本には全く影響ない」とのたまった時の財務大臣、誰でしたっけ?

 カンボジアに来たからと言って、特に何もすることがない。キッチン付のサービスアパートを借りてのんびりしている。戸籍謄本に書いてあった出生地「モニヴォン通りのカルメット病院」まで行って、セルフィーしてきた。20年前は廃墟のようだったプノンペンの街並みには高層ビルが出現していたが、大通りを少しはずれるとおじさんが立ちションしている。暇そうにしている人が、バンコクよりさらに多くて嬉しい。

朝のジョギング中、何やらニュースで見覚えのある、側頭部を刈り上げ肥満された方の写真を見かけた。北朝鮮大使館であった。条件反射で緊張してしまったが、入り口に設けられた検問所のボックスの中では、警備要員が机に脚を投げ出して熟睡中であった。カンボジアと北朝鮮の、きわめて良好な関係が伺えた。

 平時はバナナ以外のものも食べる。アパート隣にできたばかりの日本食レストランに入ると、全員カンボジア人のスタッフから「イラッシャイマセ~」と唱和された。カンボジアには外資がどんどん入ってきているが、中国や欧米資本などと伍して、日本も珍しく存在感がある。雄大なトンレサップ川沿いに、東横インそっくりの場違いなビルが建っていると思ったら、ほんとに東横インだった(3月開業予定)。王宮近くには王宮より大きな「イオンモール」がある(昨年オープン)。

日本語のフリーペーパーも、たちどころに3誌見つけた。日本人の多さがわかる。読むと、若い日本人がチャンスを求めてどんどん海を渡って来ているようだ。日本人トゥクトゥクドライバーまでいるという。

ちなみに「イラッシャイマセ~」のカレーライスは、ジャガイモと人参がゴロゴロ入り、田舎の民宿で出てくるカレーみたいでおいしかった。


2015年1月7日

バンコクで「住所不定・無職」を楽しむ


早朝ジョギングの後、コーヒーチェーン店でクリームチーズベーグルとカフェラテを注文する。気温は早くも25度を超えた。

店内は空いており、会話の大半が何かの金額で占められている白人ビジネスマン2人、タブレットでメールチェックに余念がない初老の華人夫婦、年齢差がありすぎる白人男性とタイ人妻に子供2人の一家、がぽつりぽつりと離れたところに座っている。

大きな窓から表通りを眺める。正月明けのスクムビット界隈はすっかり喧騒が戻り、車とバイクがひっきりなしに行きかっている。店を通るといつも声をかけてくるマッサージ屋のおばさんが、バイクタクシーで出勤してきた(あの色気たっぷりの誘い方、絶対マッサージだけで終わりそうにない・・・)。ショッキングピンクのど派手なタクシーの脇では、運転手がプラスチックの椅子を持ち出して、もう1時間も手持ちぶさたに座っている。

会社を辞めて、どうしてバンコクに?と人に聞かれる。ひと言でいえば「温まりに来た」ということになるだろうか。日本の冬に比べればこの気候は本当にありがたく、こうして短パンとTシャツでいられる。

でも街を歩いているとしょっちゅう犬の糞を踏みそうになるし(時には人糞も落ちてる!)、インフレと円安でモノは高くなった。たまに食べるとおいしいタイ料理も、唐辛子と砂糖、味の素が大量投入されていて、とても毎食は食べられない(ちなみにここでは日本料理やイタリア料理にも普通に砂糖が入ってます)。市内各所に次々オープンする巨大ショッピングモールに入ってみても、買いたいものが見つからない。

結局今の私には、意味もなくほっつき歩いたり、ぼんやり座って外を眺めたりできる、この街の「緩さ」が何より必要なのだろう。これが東京だと、共働きの夫婦が会社へと出払った白昼の住宅街で、働き盛りの中年男がぽつねんと歩いているだけで怪しまれる。公園で遊んでいる子供に声をかけたりしようものなら・・・かなりの確率で警察に突き出されますね。おお怖い。

成田・仙台・バンコク・福岡。会社員時代に思いもよらない転勤で移り住んだ街は、どこも暮らしやすかったが、その中でも仙台とバンコクが、私たち夫婦が「もう一度暮らしたい街」のトップ2。特にバンコクは、3年間の駐在中は出張ばかりで暮らしたという実感がないので、この機会にじっくり味わってみたい

まず住みたい街に住んでみる。すべてはそれから。

あらかじめ職場と仕事が用意されていたサラリーマン時代とは順番が逆だが、長い人生のいっとき、こういう選択ができることに感謝しながら、しばらくぼーっとしていたい。

2015年1月4日

オオトカゲと走る


サワディー・ピーマイ。今朝もベンジャキティ公園を2周走った。

 バンコクはここ数日、最低気温が20度を切り、湿気がないのでとてもすがすがしい。連休で車が減るので空気が澄み、正月3が日の気分に浸ることができた。

ただ昼になるとクーラーをつける暑さになるのが、ここ熱帯の正月だ。

 池に沿った公園の周回コースを走り始めて間もなく、”excuse me…” という控えめな声に振り返ると、車いすの男性が周回コースわきの段差を越えられずにいた。戻って後ろから押し、段差越えを手伝う。

 東京で出勤前に走っていた世田谷区の砧公園でも、70代と思われる車いすの男性とジョギングコースで度々すれ違い、目顔であいさつを交わしていた。朝日を浴びて走り、ただでさえ前向きな気持ちになっているところに、こういう人たちに出会うとますます前向きな気分になり、ほとんどつんのめりそうになる。

 小一時間、毎朝走っていると人に話すと、吐きそうな顔をされることがある。よほどストイックな人間に思われるらしい。私は現代人には珍しく、摂取カロリーより消費カロリーの方が多いようで、20歳の頃より50歳の今の方が体重が3キロほど軽い。走りすぎ? 東京やバンコクのような大都会で走るのは、排気ガスを余計に吸い込んでいるだけかも知れず、果たして健康にいいかどうかもよくわからない。

いちど習慣にしてしまうと、むしろ走らない日の方が気分が悪い。出張先のパキスタン・イスラマバードで走っていて、知らないうちに軍の施設に近づいてしまい、土嚢越しに銃口を向けられたことがある。ホルタ大統領が襲撃されたころの東ティモールでも走って、宿の女主人にあきれられたことがある。

 タイでジョギングをする上での大問題は、野良犬だ。もしかしたら放し飼いの飼い犬なのかも知れない。暑い日中は歩道でぐうたら寝ているくせに、早朝に限って活発で、徒党を組んで吠えかかってくる。車やバイクには無関心なのに、走って横切ろうとするとなぜか見逃してくれない。

 バンコクのルンピニ公園は、東京でいえば日比谷公園のような都心の公園なのだが、走っているとたまにオオトカゲを見かける。人だかりができている時もあれば、誰もが無関心な時もある。バンコクで暮らしていることを肌で感じるひとときだ。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...