2005年7月、インド洋沖で沈没した日本海軍潜水艦「伊166」の海上慰霊祭に同行した。
伊166は、開戦直後にオランダの潜水艦を沈め、太平洋戦争で最初に戦果を上げた栄光の潜水艦となった。が、終戦の前年、イギリス潜水艦に攻撃されて沈没。乗組員の大半が戦死している。
式典当日、マレーシア中部クラン港から船に乗り、マラッカ海峡の沈没海域へ。到着すると、停止した船上から、遺族らが花束を海に投げる。61年ぶりに実現した現場での慰霊祭。遺族の表情は、意外にも淡々としていた。
聞くと、今では伊166、沈められたオランダ潜水艦、沈めたイギリス潜水艦、それぞれの遺族の間で交流しているという。
歳月が、憎しみの連鎖を解き放つのだろうか。奇跡のような話だと思った。
それにしても。
潜水艦は、単独で敵の海に潜り、偵察や破壊活動を行う。無線交信を最小限にして、隠密行動を取る。運悪く見つかってしまえば、回りは敵ばかり。味方に危機を知らせる間もなく攻撃、撃沈され、こつ然と「行方不明」になる。
以前「えひめ丸」事件で行ったハワイで、米原潜「コロンビア」の内部を見せてもらった。艦内は狭く、兵器と機械類でいっぱいで、乗員の居住スペースがない。なんと魚雷室の中にまでハンモックが吊ってあり、夜は魚雷を抱くようにして寝るという。
潜水艦乗りにはなりたくない、と思った。
乗り組んだ潜水艦が、魚雷や爆雷で攻撃される。不気味にきしむ艦内。ついに壁に穴が開き、海水が勢いよく吹き出す。浸水し、少しずつ海底へと沈んで行く。狭い艦内は停電で真っ暗。海水が足元から胸まで迫る。逆に酸素はどんどん減る。息苦しさが募る。もう、浮上できる見込みはない。
このまま、誰にも知られずに死んでいくのか。そう悟った時、どんな気持ちで最後のひとときを過ごしたのだろう。
潜水艦の戦いは、悲惨すぎる。
ところで近年は、潜水艦ばかりか島も沈没する。
地球温暖化で海面が上昇し、水没の危機に瀕した、中部太平洋の島国キリバス。2007年8月、環境企画の仕事で訪れる機会があった。バンコクからシドニー、フィジー経由で3日がかり。日本からも数千キロ離れている。
キリバスの中心、ベシオ島は、戦中派には「タラワ島」と言った方が通りのいい、玉砕の島だ。
戦争末期、太平洋の島々で続いた玉砕戦。タラワでも、圧倒的に優勢なアメリカ軍相手に、初めから勝ち目のない、凄惨な戦いが繰り広げられた。
上陸する米海兵隊に対して、日本軍守備隊は水際で応戦し、3日間の戦闘で全滅。砂浜には、今も米軍の戦車や上陸用舟艇の赤さびた残骸が点々と残り、当時の戦闘の激しさを伝えていた。
このベシオ島には、「ダイニッポン小学校」がある。「大日本土木」という会社が日本のODAで港湾整備を行っているのが、この校名の由来か。地元の子どもたちが通うこの学校、大日本帝国の名残ではない。
現在のベシオ島は開発が進み、スーパーを中心に市街地が広がっている。木が伐採されて木陰も少なく、ひたすら暑い島だ。戦死者の多くが餓死・栄養失調による病死だったフィリピンやニューギニアの戦跡の、むせかえるような暑さに比べ、3日で散った「玉砕の島」タラワを吹き抜ける風は、カラリと乾いていた。
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