2015年8月9日

大日本帝国を訪ねて①


 戦後70年の今年、テレビや新聞では連日、戦争関連企画が報道されている。

 そこで私も、ひとり「戦後70年」ごっこ。ボランティアでお年寄りを病院に送る車中、片っ端から戦争の話を聞いている。

 オイヌマさんは海軍兵士として、本土空襲にやってくるB29をレーダーで捉える訓練をしていた。ホンダさんは終戦前日の空襲で、街が停電して玉音放送が聞けず、戦争が終わったことを知らなかったと話してくれた。

 こうして体験者から戦争の話を聞けるのも、今だからこそ。「戦後80年」ではもう難しいと思う。

 日本が太平洋戦争を戦ったのが、1945年までの3年8か月。私は「戦後60年」に当たる2005年から3年間、バンコクに駐在していた。その間、インド領アンダマン島からフィリピン・レイテ島、南太平洋のタラワ(現キリバス)、ニューブリテン島ラバウルまで、取材でかつての戦場に行く機会があった。

戦場カメラマンではなく、戦跡カメラマンだ。

戦場カメラマンとして華々しく活躍する代わりに、往時の戦場を訪ねては、しみじみと感慨に浸っていた。

ちょうど、いちばん勝っていた頃の大日本帝国の勢力圏が、特派員として当時、私が持たされた守備範囲と重なっていた。現代のジェット旅客機で移動しても、端から端まで10時間以上かかる広大さだ。

遠く離れた異国のジャングルで出会う、朽ち果てた日本製爆撃機や戦車の残骸。土を掘れば、鉄兜や飯ごうと一緒に出てくる日本軍兵士の遺骨。それらを目にして、まず私の頭に浮かんだのが「身の程知らず」という言葉だ。

米国との圧倒的な国力の差を無視して戦争に突き進み、アジアの多くの国を侵略した挙句、やがて必然的な破滅へと転がり落ちていく。

日本人とは何者か。いざという時、国家は国民を守ってくれるのか。どうしたら、戦争を防ぐことができるのか。

私たちは、犠牲になった数百万の声なき声から、できるだけ多くを学ばなくてはならない。

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