2015年8月9日

大日本帝国を訪ねて②


地獄の戦場、ニューギニア戦線。

上陸した15万兵士のうち、生きて日本に帰れたのは1万。亡くなった人の多くが、餓死と病死だったという。

2005年、厚労省の遺骨収集団に同行した。

オーストラリアのケアンズ経由で、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーに入国し、空路ニューギニア島北岸のウエワクへ。途中、日本軍が敗走中に多くの犠牲者を出した、オーエンスタンレー山脈の上空を飛ぶ。当時の戦場が「ココダ・トレイル」として整備され、今ではオーストラリアの若者に人気のトレッキングコースになっているという。

ウエワクの町はずれ、太平洋に面した海辺に、老朽化した木造ホテルがある。オーナーは元日本兵の川畑さん。ここで毎日、ごはんとみそ汁の日本食を食べ、四輪駆動車で密林に向かった。

メンバーは厚労省職員2人と元日本兵2人、遺族2人、そして保育士と大学生の女性2人。これに、大勢の村人がアルバイトで作業に加わる。

戦時中、野戦病院が置かれていたという場所で、ひたすらスコップで土を掘る。注意深い作業で、頭骨や大腿骨、小さな骨片が次々に掘り出された。

歳月を経た骨は土と同化し、持ち上げただけでボロボロと崩れてしまう。赤ん坊を背負った村の女性が、骨をそっと手に持ち、にぎやかに世間話をしながら、ブラシで丁寧に泥を落としていく。

遺骨と一緒に、メガネや水筒などの遺品も見つかった。衣服や靴は、すでに土に還ってしまったようだ。日本から5000キロ離れた熱帯の地で、銃弾や飢え、病に倒れた持ち主の心中を想像し、胸に迫るものがあった。

10日間の作業で47人の遺骨を収集し、ホテルの庭で荼毘に付した。

同行した元日本兵、新井敏夫さんに話を聞いた。

新井さんは 1943年の上陸以来、武器、弾薬はおろか食べ物にも事欠く負け戦の中で、終戦までの2年間、ニューギニア東部のジャングルをさまよっている。

当時、兵士たちの間では
「地獄のビルマ、極楽のジャワ。生きて帰れぬニューギニア」

という言葉が流行った。新井さんも、爆撃で多くの戦友を失い、何度も修羅場をくぐった末に生還している。

「自分は司令部付の兵隊だったので、恵まれていた。ひもじい思いはしなかった」
と言って、つらい思い出は話そうとしなかった。

参加者の最年少は、保育士の鈴木絵里さん(22)。今回が初めての海外旅行となった。

「アニメのパプアくん、のイメージで来ました」。

戦争は「プラトーン」などのハリウッド映画でしか知らない。今回の遺骨収集は、友達に誘われて来た。

「ジャングルの中で、歯がついたままの下がく骨を見つけたときは、言葉にならなかった」

村の古老、ピーター・モックさん、84歳の話。戦争中は村にも連合軍の空襲があり、日本の「ヘータイサン」と一緒になって逃げまどった。巻き添えで、村人もたくさん死んだ。自分も空襲で、右目を失った。お腹をすかせたヘータイサンに、ヤシの実やバナナ、タロイモをあげた。それでも飢えとマラリア、アメーバ赤痢で、バタバタと死んでいった。

ニューギニアを含め、今も海外に残されている日本人の遺骨は、114万人余。元兵士や遺族の高齢化、長年の風雨にさらされて土に還りつつある遺骨の状態を考えると、収集作業は限界を迎えていると感じた。

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