2015年8月16日

大日本帝国を訪ねて④


ジャカルタ支局のK記者と、良からぬ事を企んだ。

ゼロ戦の撃墜王、坂井三郎のベストセラー「大空のサムライ」。この本を夕刊の文学紀行面で取り上げて、ラバウルに行こう。

調べると、バンコクからシンガポール、ブリスベーン、ポートモレスビー経由ラバウルまで、片道3日かかる。果てしなく遠い割に、それほど大きな記事にはならない。会社思いの私は、費用対効果で気がとがめた。Kさんの「行っちゃいましょう!」の一言で、決行する。いま思えば、牧歌的な時代だった。

「では一週間後にポートモレスビー集合、ということで」

2006年1月、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーに降り立つ。が、「ラスカル」という強盗団が跳梁跋扈していて、気軽に街を歩けない。高価な腕時計をして出た外国人が、蛮刀で腕ごと切り落とされたという。空港近くのエアウェイズ・ホテルに泊まり、Kさんの到着を待つ。ジャカルタに電話してみると、あんなに楽しみにしていたKさん、体調不良で行けないという。

翌日、ひとり小型機でニューギニア島を縦断し、ニューブリテン島ラバウルへ。軍歌で名高い「ラバウル航空隊」の基地はその後、背後にそびえるタブルブル山の噴火で埋まり、戦後日本の援助で作られた新空港に着陸した。

私は5年前の夏も、ラバウルに来た。その時は、商社マンとして赴任した大学の後輩を訪ねる旅。彼は学生時代、人一倍環境問題にうるさかったが、会社で材木部門に配属され、今はこの国の木を切りまくっている。人生とは因果なものだ。

この時のタブルブル山は火山活動が活発で、真っ黒い噴煙を盛んに噴き上げていた。戦時中は「花吹山」と呼ばれ、ゼロ戦が噴煙を基地の目印にしていたという。

ホテルの芝生が、ひと晩で真っ白になるほど火山灰が降る。寝ていると、不気味な地鳴りでベッドが震える。まるで、地獄の一丁目のような所だ。

もう2度と来ることはないだろう。と、その時は思った。そのパプアニューギニア、かれこれ3回目の訪問になる。

今回、火山は活動を休止し、噴煙のないラバウルには青空が広がっていた。熱帯の植物が青々と茂り、明るい印象の町に変わっていた。

翌日、坂井三郎らゼロ戦パイロットが活躍した、日本軍の飛行場跡へ。滑走路は火山灰に厚く覆われ、広大な褐色の広場になっている。地元青年の案内でジャングルに分け入ると、日本軍重爆撃機の残骸が放置されていた。胴体や主翼を触ると驚くほど薄く、60年余の歳月で、腐食してボロボロだ。

アメリカ軍に比べエンジン性能で劣った日本軍機は、その分機体を薄く、軽くして、飛行性能を維持した。その代償として、銃弾を受けるとすぐ燃料に引火して炎上、墜落してしまったという。

逆にアメリカは、機体が重くなるのを承知で、防弾鋼板を厚くした。飛行機はまた作ればいいが、パイロットの養成には時間と金がかかるからだ。

この熱帯の地で空戦を重ね、日本は優秀なパイロットを次々に失っていった。人命の重さを巡る設計思想の違いが、やがて戦争の勝敗をも左右することになる。

半ば火山灰に埋まった爆撃機の、操縦席をのぞき込む。「もしこの時代の日本に生まれていたら・・・」と、ひとりで背筋を寒くした。私は幸運だった。

日米両軍が連日、大空を血に染めて戦ったラバウル。その舞台を、火山灰が覆い隠していく。残骸は長い歳月に朽ち果て、赤いブーゲンビリアが咲く平和な島に戻りつつあった。

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