2017年4月22日

美顔エステの快楽


 外出支援のボランティアをしていると、助手席に座る利用者は障がい者、高齢者、生活保護受給者だ。

 3つすべてに該当する人もいる。

 車いすでひとり暮らす男性を乗せたり、自炊する失明した女性を乗せたり。

 その行き先は、決まって病院だ。

 傍から見れば大変な状況だが、みな淡々として、感謝のことばを忘れない。

 毎週、病院通いをする婦人がいる。車いすに掛けられた上品なひざ掛けのふくらみは、片足がない。治療のための通院だとばかり思っていたら、違った。患者のために、ボランティアで美術指導をしているそうだ。

 日々感じるのは、障がいや病気の多くと貧困の一部は、彼らの生き方とは何の関係もないということ。

「なぜこの人が、こんな目に遭わなければならないのか」

 答えは見つからない。



 世の不条理にぶつかった日は、送迎帰りに近所の児童館へ。主催者が心の広い人で、会社に行かない社会不適応者にも居場所を与えてくれる。

 古びた建物に入ると、子どもたちが音楽に合わせて踊っている。いやリズムを無視して飛び跳ねている。その小さな背中が、たまらなくかわいい。

 時々ひざの上によじ登ってきて、その日の出来事を話してくれる。

 たちまち幸福で満たされる。家路につく頃には、心のビタミンが120%充填されている。今日も夕焼けがきれいだ。



 その日もいそいそと児童館へ。いきなり、アンパンマンが大好きなYuiちゃんのママに「ちょっと顔貸して」と言われる。

 怖い。なにか粗相でもあったか。でもきれいなYuiちゃんママにだったら、ボコボコにされてもそれはそれで・・・

 いやいやそういう話ではない。エステティシャンの試験を控えた彼女の、練習台に抜擢されたらしい。

 くすぐったいから首から下はパスしたい。「美顔エステ」は、もともと首から上だけだそうな。知らなかった。

 その翌週、誘った妻とは予定が合わず、一人のこのこ温泉町のエステサロンへ。ドアの前に立った時は、恥ずかしくて帰ろうかと思った。

 その後のことは、とても語り尽くせない。人生初のエステ体験は、至福の2時間31分。自分の顔とは思えない、ぷよぷよ肌になった。

 ・・・世の不条理を書くつもりが、なぜか美顔エステの話に。

でもせっかくなので、このままにしておきます。


2017年4月15日

停電が消えた街


1年ぶりのカトマンズは、街から停電が消えていた。

「電気が消えていた」の間違いではない。去年もひと月滞在したが、毎日16時間ずつ停電していた。しかも、電気が来るのは決まって寝ている間。実感として、ほぼ電気のない生活だった。

電気がなければお湯も出ないし、ネットもつながらない。暗くなれば、ローソクと懐中電灯が手放せない。日本なら大地震直後の被災地のような暮らしが、市民の日常だった。

そのカトマンズ名物「停電」が、劇的になくなった。もともと電力は豊富なのに、役人が国民に回さず、収賄目的でインドに売っていたという。

そんな噂が本当に思えるほど、この国の政府は腐敗している。真実はともかく、一緒に行った日本の大学生に、あの不便さを体験してもらいたかった。

 去年も今年も、学生の中には海外旅行が初めての人がいた。ネパール9度めの私は、ヒマラヤを眺めるより彼らを眺めているほうがよっぽど面白かった。

彼らが驚くツボは予測不能だ。ここで驚くだろうな、という場面はスルーする。それでも、ネパールは国全体がビックリ箱だ。ネタには困らない。

「ほら、首都の目抜き通りを野良牛が散歩してるよ」 やっぱり驚いた!

就職を控えた男子と女子。男子には諦念のようなものを感じた。自由な時代が終わり、これから滅私奉公が始まる、とアンニュイな空気を漂わせる。その気持ち、とてもよくわかる。

それに比べると、女子は前向きだ。仕事の面でも夢を語るし、仕事と山登りを両立させようとしている。

男子の人生観が仕事で塗りつぶされがちなのに対して、女子は仕事が人生のすべてとは考えない分、希望を見出しやすいのだろうか。

山岳部員たちと私との年齢差は、ちょうど30。この30年間に、自分は何を得て、何を失っただろうと考える。すでに体力では敵わない。せめて感受性だけは、これ以上摩耗させないようにしたい。

ひとつ、自分の未熟さに気づかせてくれた会話があった。

 共通の知人を否定する私の意見に、女子が同意してくれない。私が非難されたと感じた言葉にも、「それはミヤサカさんのことを心配して言ったんじゃないですか?」と言う。

 帰国後、その知人に会いに行った。どうやら彼女が正しいらしいことがわかった。一方的に誤解したまま、危うく疎遠になるところだった。

雇われない生き方をしていると、自分で人間関係を選べる。会いたい人だけに会っていれば済む。これからは、苦手と思っている人にも会おうと思った。

2年続けてヒマラヤに行き、世代を超えた交流を持てたことに感謝。おかげで、いろいろな気づきがあった。





2017年4月8日

ヒマラヤで出会った人たち


 ヒマラヤ山中で、底冷えする夜が明けた。

宿でチヤパティと卵の朝食。隣では、ひとり旅のイスラエル女性と地元青年が話している。

「私はユダヤ人。ユダヤ人ってわかる?」

「え~っと・・・・・・パレスチナ人?」

ミルクティーを吹きそうになった。

あわてて振り返ると、イスラエル女性は「Nooooooo!」と言いながらも、顔が笑っている。

歴史的にはともかく世界地図では、ネパール青年の答えも×ではない。

別の村で同宿した、アルゼンチンの若いカップル。故郷コルドバからネパールまで遥かな道のりを、アフリカを回って来たという。地図で見たら、確かにアフリカ経由が近い。それでも地球の反対側。はるばるよく来たものだ。

顔中毛だらけのフランス男性。長旅で底が抜けてしまった登山靴を、ひもでグルグル巻きにして歩いている。これから徒歩1週間の道のりを「これで歩く」。去年は四国遍路をしたという。仕事はパリのファッション写真家。

このランタン谷は、2015年の地震で大きな被害を受けた。やっとトレッカーが戻り始めた段階と聞いていた。いざふたを開けてみたら、道中は欧米人で大にぎわい。途中、村のロッジは満員になった。

山が好きなら一度は行きたい、ヒマラヤ・トレッキング。飛行機を乗り継いで10数時間、最低でも10日から2週間の休暇がいる。日本で働く限り、簡単には来られない。ガイドを雇えばお金もいる。

今回のトレッキング中に出会った日本人は2人。ほかに見かけたアジア系は、韓国の単独行者だけ。圧倒的に白人が多かった。

日本人のひとりは20代の男性。外資系で働いているが、それでも休むのが難しい。「高橋まつりさん」(電通新人社員過労自殺事件)のおかげで社内の空気が変わり、やっと休暇が取れたという。

現地旅行社の話では、日本人トレッキング客のほとんどは定年退職後の高齢者。それに比べて、地理的にもっと離れたヨーロッパや北米、さらには南米から、老若男女あらゆる世代がネパールまでやってくる。

出会った彼らはクリエイティブ系からブルーカラーまで、職業もいろいろだった。彼らの国では、当然のように長期休暇が認められている。

第2次大戦中のドイツ軍兵士は、作戦中でも休暇を取っていたという。戦争でも休む。負けそうでも休む。「神風特攻隊」「玉砕」の国との、この差は何だ。

 帰国したら、国内でも「働き方改革」が進められていた。期待して新聞を開くと、青天井だった残業時間に上限を設けようという程度の話。

 この国は、100年遅れている。

日本人が気軽にヒマラヤを歩ける日は、いったいいつ来ることやら。





2017年3月31日

雪のランタン谷で


母校の山岳部員とヒマラヤへ。

昨年はアンナプルナ山群。今年はランタン谷を歩いた。

 部員には女子もいる。日ごろから心身を鍛え、合宿で雪山や岩壁に挑む。普通の大学生とは、モノが違うと感じる。

 上級生は、遭難事故を経験している

3年前、吹雪の北アルプス。リーダー格のメンバーを目の前で失った彼らは、着のみ着のまま氷点下の一夜を耐え抜き、ヘリコプターで救出された。

 病院に下ろされた時は低体温症のため、自分で歩けなかったという。問わず語りに語られる話からは、間一髪の生還だったことが伺えた。

 ヒマラヤで目撃した、彼らハタチの食欲はすさまじい。お腹が空くと殺気立ってくる。怒ったようにダルバート(野菜カレーと豆のスープ、ごはんがセットになったネパール定食)をお代わりする姿を見ていると、生きててよかったねと思う。

 心の傷が癒えない部員がいる。風雪への恐怖。そして、亡きメンバーに対して「あの時、もっとできることがあったのでは」と考えてしまう人がいる。

 過酷な冬山で仲間を救えるのは、劇画に出てくるスーパーマンだけだ。山登りは自己責任。東北の「津波てんでんこ」の言い伝えと同様、山でもまず、我が身を守ることが大切だ。

「あなたに責任はない」と毎日100回、周りが言う必要がある。

 前に他大学が遭難事故を起こした際、「このレベルの山登りをしていれば、何年かに1度は事故が起きても仕方ない」と監督が言った。山岳部では違和感のない発言だが、それは記者会見の席上。かなり物議を醸した。

山の事故が裁判沙汰になる今なら、ただでは済まない。でも部員はみな、危険は覚悟の上で登っている。

山では想定外の雪崩、落石、悪天候、ほんのわずかなミスが命取りになる。私自身、ずいぶん際どい思いをした。雪の穂高を登っていて、目の前で登山者が滑落死したことがある。友人知人の何人かは、山に逝った。

そのせいで刹那的になったとか、性格が屈折したということは(たぶん)ない。その逆だ。生きているだけでラッキーという境地は、日常のささいなことに幸せを見い出せる。特に逆境で、それは大きな心の支えになる。

がんで余命宣告を受けたスティーブ・ジョブズが、大学の卒業式で「If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right」と語りかける場面をyoutubeで見た。死を実感できない学生たちは爆笑していた。

 毎日毎日、今日が最後と思いながら生きるのは大変だ。だが死に直面する体験をして「いずれ人は死ぬ。あす死ぬこともある」と、観念でなく実感として持つことは、1日1日を大切にすることにつながる。

 若い時にとても大変な経験をしたが、それは決して無駄なことではなかった。そう思える日がきっとやってくる。卒業していく部員に、そのことを伝えたい。

キャンチェン・ゴンパの朝


2017年3月25日

続・雨の成都


 ネパールの帰りも、ヒマラヤを越えて中国四川省・成都に寄った。

 成田便まで待ち時間がある。暇つぶしに、空港から市バスに乗って成都の繁華街へ。料金は10元(160円)。

 乗りものの窓から、流れる景色をぼんやり眺める至福のひと時。

 できれば一生そうしていたい。

 9年ぶりの成都だが、バスが市街地に差し掛かっても、ビルが立ち並ぶ風景に見覚えがない。

 近年の成都はIT企業が集積し、米フォーブス誌が「今後10年で最も発展する都市ランキング」の世界1位に選ぶ。9年あれば経済規模が倍増するほどの高成長で、すっかり別の街になってしまった。

 ちょうど昼時で、道に人があふれている。そのエネルギッシュな様子、まず日本ではお目にかかれない。



 9年前、死者9万人を数えた四川大地震の取材拠点として、この街に2週間滞在した。毎日夜明け前に起きて、被災地域に通った。

 それまで新潟県中越地震、スマトラ沖地震、パキスタン北部地震などを取材し、現場慣れしているつもりだった。それでも、ここは地獄だった。

 成都から徒歩10時間でたどり着いた震源地。4階建ての小学校が倒壊し、児童数百人が生き埋めになっていた。私が着いた時は捜索活動も一段落し、毛布にくるまれた遺体が道端に並んでいた。

 毛布の端から、かわいい小さな手足が見える。

 日本の新聞では、遺体写真は使わない。逃げるようにその場を去った。

 取材中に日が暮れて、夜は被災者のテントの入り口で寝た。ふと目覚めると、テントの前を子どもの集団が、音もなく通過していく。そのただならぬ雰囲気に、カメラを向けるのも忘れて目で追った。

 誰もが無言。泣きはらした目。朝もやの中で肩を寄せ合い、夢遊病者のように去っていく。

 地震で両親と家を失い、故郷を離れて疎開していく孤児たちだった。

 あんなにも、体全体に絶望を宿した人の姿を、生まれて初めて見た。

 その1週間後、何でもない場面で、涙が止まらなくなった。
 
 そして9年たった今なお、当時の感情にフタをしている自分がいる。



 バスの終点で降り、1ブロック歩いてみた。そこにはグッチやエルメスなど高級ブランドが並ぶ、ありふれた大都会の顔があった。

 地元の人でにぎわう食堂で食べた、一皿10元の麻婆豆腐が絶品だった。






2017年3月19日

雨の成都、午前2時


 誰かがドアを連打している。

 もうろうとして枕元の電気をつけると、檻のような空間が浮かび上がった。ここは四川省、1泊2500円の安宿。

大声で返事をしても、連打は止まらない。服を着てドアを開けると、廊下に立っていたのはフロントのおばちゃん。片手でパンをかじりながら、「さあ行こう」と手招きする。

 外は真っ暗だ。時計を見ると、空港に行く時間にはまだ早い。

 身振り手振りで「支度するから待って」と伝え、あわてて身づくろいする。その間も、断続的にドアの連打音。

 階段でフロントに下りてみると、待っているはずの送迎バスの姿はない。おばちゃん慌てて電話を掛けはじめ、なにか大声で怒鳴っている。

 結局、空港へのバスがやってきたのは約束の20分後。あらかじめ時間に余裕を持たせてあったので、飛行機には乗り遅れずに済んだ。

 やれやれ、これが中国だ。

 前の日の夜半、羽田から北京経由で成都空港に着いた。航空会社にトランジットホテルを手配し、「着いたら受付カウンターにお越しください」とのことだったが、到着ロビーのどこにもそれらしきカンターがない。

総合案内所もなければ両替所もない。銀行ATMもない。

 同じ便で着いた中国人乗客は、足早に去っていく。異国の空港に、無一文で取り残される午前1時。

 近代的な空港だが、猥雑さも残っている。わざとらしく右往左往してみると、すぐに一人の男が声を掛けてきた。思った通り安宿の客引きだ。言葉は通じないが、「1泊150元」「送迎無料」と言っているようだ。

「クレジットカードで払いたい」この大事な点が理解されない。言われるがまま、ボロボロのワンボックスに乗り込む。外は土砂降り。

 運転席と助手席に男がいた。さかんに話しかけてくるが、彼らは英語を話さないし、私は中国語がわからない。

車は大通りを外れたかと思うと、どんどん暗がりに入っていく。右折と左折を繰り返し、やがて街灯もないゴミだらけの裏通りで停車した。

やばい、と思った瞬間、玄関に明かりが灯った。小さな宿の前だった。

案の定クレジットカードが使えず、門前払いに遭う。すると男たちは、私を乗せて付近の宿を回り始めた。

タバコを勧められて、10数年ぶりに喫煙する。暗くて顔は見えないが、実は親切な人たちだ。

「日本円OK」の宿が見つかったのが、午前2時すぎ。

東南アジアを放浪していた学生時代の旅を思い出した。


2017年3月6日

エアチャイナの24時間


 ヒマラヤと素朴な人々の国、ネパールへ。

 今回は中国国際航空(エアチャイナ)で飛んだ。

 東京からカトマンズまで、往復1万キロで4万8千円。キロ当たり5円を切る、圧倒的な安さ。

エアチャイナへの、ネット上の評判はよくない。

日本語ネット社会は「嫌中」が大流行り。よくもここまで、中国政府と一般企業、市民を混同できるもの。その材料はマスメディアが与えている。

エアチャイナへの酷評も、偏見と先入観に満ちたもので、信じるに値しない。

たぶん。

カトマンズまでは北京と成都で乗り継ぎ、24時間かかる。その間、中国を垣間見られる。むしろありがたい。

羽田空港のカウンターで、大きな荷物をカトマンズまでスルーチェックインにしてもらう。出発時刻に機内へ乗り込もうとすると、地上職員が大勢の乗客から私を見つけて駆け寄ってきた。

「お客さまの荷物をカトマンズまでスルーにすると、途中でなくなる可能性大です。タグを作りなおしましたので、北京と成都で引き取って、そのつど次の便に預けなおして下さい」

なんと。でも正直といえば正直だ。

巨大な北京空港では、3時間ある乗り継ぎ時間が、入国審査~国内線ターミナルへの移動~再チェックイン~セキュリティチェックでつぶれた。よく歩いた。

次の成都行き国内線は満席で、中国人が99%。大声で騒ぐ団体さん、負けじと声を張り上げるキャビンアテンダント、そしてひっきりなしに流れる大音量の機内アナウンス。

エアチャイナの旅に、耳栓は必須アイテムだ。

下を向いてイヤホンの音楽を聴いていたら、客室乗務員に何か注意された。機内での会話といえば「Coffee, Tea, or Me?」等々、定型ばかり。ヘブライ語でもスワヒリ語でも見当がつきそうだが、この場面での中国語はわからなかった。

成都で夜を明かし、いよいよ最後の区間、カトマンズ行き。カウンターの係員が、座席を「後方左窓側」から「前方右窓側」に替えてくれた。

カトマンズ空港でビザ申請窓口へのダッシュに負けると、長い行列に並ぶことになる。真っ先に飛行機を降りたいので、この位置はありがたい。

到着1時間前、カメラを構えて待つ。やがて、峩々たるヒマラヤの山並みが見えてきた。真っ白い雪煙をたなびかせているのが、世界最高峰エベレストだ。高度1万メートルを飛ぶ飛行機から、8848メートルの頂が近い。

成都の職員はこの眺めのために、黙って席を替えてくれたのだろうか。

今回乗った3便とも定時出発。地上職員やキャビンクルーの仕事ぶり、パイロットのアナウンスからは、生真面目なエアラインという印象を持った。



HIKIKOMORI

  不登校や引きこもりの子に、心理専門職としてどう関わっていくか。 増え続ける不登校と、中高年への広がりが指摘されるひきこもり。 心理系大学院入試でも 、事例問題としてよく出題される。 対応の基本は、その子単独の問題として捉えるのではなく、家族システムの中に生じている悪循...