2016年2月27日

停電と湯たんぽ


 1日13時間の停電。地震前から計画停電。

 これがネパールの現実だ。

 電気が使えるのは残り11時間。たいてい寝ている間に通電されるので、文明的な生活が送れるのは1日4時間ほどになる。

 4年前に来た時は、うかつにも気がつかなかった。仕事で泊まるレベルのホテルには自家発電があり、停電と同時に電源を切り替えていたからだ。

 ある晩、外で食事を済ませた後、レストランを出るとやけに夜道が暗い。通りがかる車のヘッドライトを頼りに、必死になってホテルに帰った。

 いま思えば、あれが停電だった。

 中級ホテルやB&Bに泊まる今回は、市民生活を身近に感じている。

 昨日、暗くなっても来るはずの電気が来ない。部屋は、蓄電池でぼんやり点く電灯ひとつだけ。給湯器が使えず、熱いシャワーも浴びられない。バッテリーを気にしながら、タブレットでメールを書く。そのうちwi-fi も息絶え、天涯孤独を味わう。

 翌朝、停電時間が細かく地区割になっていることが判明。その日、1キロほど離れた別のホテルに引っ越したのが原因だった。

 ネパール人に電気が来る時間を尋ねると、スマホで教えてくれる。すぐ時間が変更になるので、そのつど情報を更新するアプリが出回っている。

 今日は電気が来るのが午後2時から5時まで。何を置いてもホテルに戻り、その間に温水シャワーを浴び、タブレットやデジカメ、シェーバーの充電に勤しむ。

 こちらでは多くの人が、年中水シャワーを浴びる。同じ水シャワーで、気温が20度を切っただけで風邪をひくバンコク市民に比べ、氷点下の日もあるカトマンズ市民はたくましい。

 夜、地元の安食堂に入ると、暗がりで人がうごめいている。出てきた食べ物さえよく見えないが、とりあえず味はおいしい。

 慢性的な電力不足のネパールでも、この時期は特に停電が長い。暖かくなり、ヒマラヤの雪解けが水力発電に使えると、少しましになるようだ。

 昨年、大地震に追い打ちをかけるように、インドとの国境が政情不安で封鎖された。ガソリンとガスをインドに頼るネパールは、たちまち干上がった。首都カトマンズでは車が減り、空の便やバスに運休が続出。市民は炊事に薪を使ってしのいだ。

 自家発電はあっても、ガソリンが手に入らない。ソーラーパネルや車載バッテリーなど、あらゆる代替手段が使われた。在住日本人に聞くと、先が見えない不安感で、余震より国境封鎖の方が怖かったという。

 今月ようやく国境が開かれ、市民生活は平常に戻りつつある。ガソリン高騰で、空港から市内まで1500ルピー出さないと捕まらなかったタクシーも、数日前は交渉で550ルピーまで下がった(1ルピーは約1円)。

 暖房が効かないホテルでは毎晩、部屋が遠慮がちにノックされ、笑顔と湯たんぽが差し入れられる。天災と人災(政府の無策)が絡んだ絶望的なエネルギー不足を、人の温もりが補っている。


2016年2月26日

大きなお尻 小さなお尻


 バンコクを離陸して3時間。機内食のカレーも食べた。カトマンズ行きタイ航空機が、そろそろ目的地上空に達する頃だ。

 1周、2周、3周と旋回。いっこうに高度を下げる気配がない。

そのうち、液晶モニターに映る機影が、あさっての方向に向かい始めた。

 まさか。

やがてキャプテンからのアナウンスで、恐れていたことが現実になる。

「えー、カトマンズ空港が天候悪化で閉鎖されました。地上の報告によると、再開まで2~3時間かかるようです。当機はインドのコルカタに向かいます」

機内に動揺した様子はない。政情不安でネパール・インド間の国境が封鎖されて以来、ネパールではガソリンが枯渇し、航空燃料の補給もままならない。カトマンズに向かう飛行機は、初めから往復分の燃料を積んでいるのだ。

絶妙のタイミングで、客室乗務員がドリンクサービスを始めた。

コルカタに着陸すると、飛行機はターミナルから離れて停止した。乗客は機内に缶詰めのまま、いつとも知れないカトマンズ空港の再開を待つことになった。

トイレに、順番待ちの行列ができる。私の席は運悪くも、トイレの真横だ。

昨年の大地震と国境封鎖の影響か、乗客に外国人旅行者は少ない。トイレに立つ多くは、ネパールの女性たち。使用中とわかると、ごく自然に、私の席のひじ掛けに腰を下ろしてくる。

大きなお尻、小さなお尻が入れ代わり立ち代わり、目前に迫る。

この状況はいったい・・・

今まで滞在したタイで、人は身体的接触、特に異性間の接触を嫌った。その点タイ人は日本と似ている、というより日本以上だった。混みあう電車の中でも、何とか周囲の空間を確保しようとする。初対面でハグしたり、フランス人のように頬にキスなど、とんでもないという国民性だ。

そんな人たちの中で2か月暮らした後だけに、ネパールは人と人との距離がずいぶん近いな、と新鮮に思った。

同じネパール人でも、男はひじ掛けに座ってこない。立ったまま順番を待っている。

「男の尻だけは断固阻止する」という、私の視線を察するのだろう。

タイ航空のCAが笑顔を絶やさず、手にビニール手袋をはめ、こまめにトイレを清掃する。コルカタで2時間以上も待ったが、お尻の競演のおかげもあり、長く感じなかった。

結局、普通なら3時間30分のところを7時間30分かかって、暮れなずむカトマンズ空港に到着した。

乗客たちは、特に急ぐ様子もない。ゆっくりと身支度を整え、まるで何事もなかったかのように降りていく。

お尻に見覚えのある後ろ姿が、小さくなっていく。



2016年2月21日

預金通帳を食べられた


タイのATMから現金を引き出した時は、その場でお札の数を確認する。

 この用心深さ、インドで悪徳両替屋と対決していた頃の癖かもしれない。

 でも実際、こちらのATMの信頼度は、日本ほどではない。キャッシュカードを飲み込んだまま、返してくれないという話を聞く。

 恐怖である。

 自衛策として、街かどに設置されているATMは避け、銀行内のATMを使っている。トラブルがあった時、すぐ行員を呼べるからだ。

 今回チェンマイの両替商で、少しまとまった金額をバーツに替えた。

 現金は持ち歩きたくないので、一刻も早く銀行に預けたい。スーパーの入り口にATMを発見する。

近くに銀行は見当たらない。少し危険だが、ここに預けよう。

 ・・・でも不安だ。有り金を預けた後で、もしカードが出てこなかったら、身ぐるみはがれることになる。

 3台並ぶATMの右端は、通帳記入専用機だ。まず、このあたりで試してみよう。

 恐る恐る、通帳を挿入する。なかなか中に入らない。上下を逆にして、もう一度。ぎこちない動きで、通帳が飲み込まれていく。ウィーンという動作音。

 待つことしばし、画面に不吉な文字が浮かんだ。

Not in Service

 あとはキャンセルボタンを押しても、機械を叩いても、まったく反応なし。もとより非常用ボタンや、銀行直通インターホンの類は一切ない。

 絵にかいたような結果になった。

 隣のATMを使っていたタイ人に、銀行の電話番号を教えてもらった。ところが、何度かけてもつながらない。

 宿に戻り、フロントの女性に窮状を訴える。幸いこの時のホテルは、旅行者の面倒見がいいことで評判だった。私が部屋で待っている間に、代わりに何度も銀行に電話をかけ、そのつど状況を知らせてくれた。

「いま、担当者が食事に出ていると言っています」

「今日中に修理するのは難しいそうです」

「明日、口座を開設した支店に出向けば通帳を作り直すと言っています」

・・・やれやれ。

 女性にお礼を言いつつ、つい皮肉が口をついて出た。「こういうこと、しょっちゅうあるんでしょ」

 答えは、「No! You are lucky!」 だった。

 旅の途中で、支店に寄っている暇などない。今度は危険を冒してキャッシュカードを挿入し、残りを全額引き出した。

 タイを留守にしていた1年で3バーツ、利子がついていた。

 

2016年2月17日

チェンマイの家


 この冬も、タイ北部・チェンマイから車で30分ほどの郊外に滞在した。

ここには、6年前からお気に入りの家がある。会社時代は3泊するのが精いっぱいだったが、一昨年は8泊、昨年は9泊。今年は10泊してしまった。

木造2階建で、屋根は茅葺き。窓にガラスがなく、網戸だけなので風通し抜群。周囲を林と田んぼに囲まれ、夕方や夜明けは鳥たちの声がうるさいぐらいだ。

 この家は、エイズ孤児らを育てる日本のNGOの付属施設。それぞれ趣が異なる貸家が5棟あり、私が払う宿泊料はNGOの運営費として生かされる。
 他の滞在者と一緒に、施設を案内してもらった。大きなガジュマルの木を中心にした広い敷地に、子供たちの寮、図書室、縫製所、事務室などが点在する。現在、3歳から18歳までの30人が共同生活を送っている。

 建物の中から、幼児の泣き声が聞こえてきた。保母さんに薬を飲ませてもらっている。抗HIV薬はすごく苦いらしい。

開園後3年の間に、10人の子供たちが次々と命を落とした。治療法の進歩で、最近亡くなる子はいない。それでも、HIVに母子感染した子供たちは一生、薬を飲み続けなければならない。

部屋の掃除をしたり、食事を作ってくれるのは、施設を卒業した孤児や、先住タイヤイ族(シャン族)の若者たちだ。彼らはシャイで働きもの。その笑顔と、初々しくも一所懸命な様子を見ていると、いつも来てよかったと思う。

数人の日本人スタッフもいる。忙しそうな彼女たちが、実はボランティアだと聞いて驚いた。ビザの関係もあり、NGOが有給で日本人を雇うことは難しいようだ。それでも、希望者は多いという。

去年までここで働いていたSさんに、行きつけのクイッティオ(タイ式ラーメン)屋に案内して頂いた。彼女は、日本ではカメラマンとして働いていて、何となく私と経歴が似ている。

前の会社で大変な経験をして退職し、縁あってタイに渡った。カメラマン→タイでボランティア。2年がすぎた。これからどうするの? Sさんは、私のようなモラトリアム人間ではなかった。

現地の大学で1年間、タイ語を学ぶ。そして、チェンマイを拠点にバンコクにも出ながら、こちらで写真の仕事をするつもりだという。

「実はいま、近くに家を建てているんです。施設から独立した子たちの下宿にもなると思って」

すでに車を買ったとは聞いていたが、この思い切りの良さ。ボランティアの任期が終わっても帰国せず、生活の拠点をタイに移した人は、ほかに10人ほどもいるという。

報酬を気にせず働いているうちに、思わぬ出会いがあり、やがて自ら選択する機会が訪れる。Sさんの話を聞いて、自分はもう少し動き続けようと思った。

今年もチェンマイに来てよかった。



2016年2月12日

インパール遥かなり


 チェンマイ郊外の貸家に滞在し、高木俊朗「インパール」を読んでいる。

学生のころはアジアの安宿で、厳選して持ってきた数冊の文庫本を少しずつ読んだ。今は世界中どこにいようと、電子本をその場で買えるから便利だ。

 1944年、日本陸軍がミャンマーから国境を越え、遠くインド西部インパール攻略を企てた。行く手には大河チンドウィン川や、密林覆うアラカン山系が立ちはだかる。部下が反対する中、政権存続を賭けた東条英機首相と、その意向を汲んだ司令官、牟田口廉也が作戦を強行した。

「食料は敵から奪え」と言われ、軽装で出発した8万5千の兵は、インパール目前で重装備の連合軍に迎え撃たれる。敵戦車を前に、得意の銃剣突撃もむなしい。3か月の戦闘で大損害を出し、作戦は失敗した。

負傷し、飢えとマラリア、赤痢に苦しみながら敗走する兵士を、モンスーンの豪雨が襲う。次々と倒れた者が道しるべとなり、その道中は「白骨街道」と呼ばれた。ミャンマー北部を横断し、タイなどに生きて還れたのは2万人だった。

 先週、チェンマイから2日がかりで、ミャンマー国境に近いクンユアムの町に行った。町には、日の丸がひるがえる博物館がある。そこには地元の警察署長が収集した、日本兵の所持品が陳列されている。

 昼頃に着くと、受付の女の子がのんびりラーメンを食べている。人けのない館内には、色あせた軍服、鉄兜、小銃や手榴弾などが置かれていた。日本の団体が運営に関わっており、見学者も日本人が多いはずだが、説明板の日本語が奇妙だ。

 展示には感慨を覚えなかったが、西に連なる国境の山並みを眺めていると、1000キロを歩いてタイの土を踏んだ兵士の心中がしのばれた。せっかくたどり着いたこの地で、7千人が力尽きて亡くなったという。

 牟田口司令官は、たとえ食べ物や武器弾薬がなくても、皇軍精神さえあれば勝てると考えていた。ふと、ある情景が浮かんできた。

  カメラマン時代、陸上自衛隊の演習を取材した。軍事専門記者と、中国地方にある自衛隊駐屯地前で待ち合わせた。約束の時間に着くと、記者が仁王立ちしている。軍隊では常に「5分前」を励行しなければいけない、と怒られた。

 演習では、実弾が飛んでこないのをいいことに、銃を構えている目の前にしゃしゃり出て写真を撮った。さぞ演習の邪魔だったと思う。

 その後、部隊長の1佐にインタビューした。「少佐・中佐・大佐」といった旧日本軍の階級は、平和国家日本で「3佐・2佐・1佐」に改称されている。この際、イッサと呼ぶより「大佐殿」と呼んだ方が、こちらも分かりやすいし、たぶん本人も喜ぶだろう。

その彼が「いくら兵器が進歩しても、最後に戦闘の雌雄を決するのは歩兵の突撃です」と力説する。記者も、深くうなずいていた。この時、2人に帝国陸軍の亡霊が憑依したかと思った。

クンユアムの前週は、ミャンマー北部メイミョーにいた。件の牟田口司令官が指揮を取った地だ。標高1100メートルにある、イギリス植民地時代からの避暑地。木立の間に洋館が並び、いまは観光客を乗せた馬車が行きかっている。

 インパール作戦は、インドから中国に物資を運ぶ「援蒋ルート」の破壊が目的だった。逆に今は、200キロ先の中国国境から来たトラックが、物資を満載して西へ向かう。
 当時の連合国と日本、中国が、ミャンマーを舞台に今度は経済で戦っている。


2016年2月8日

不機嫌なカーナビ


 土地勘のない外国で運転するとき、カーナビは強い味方になるはずだ。

タイでレンタカーを借りた際、カーナビも借りた。後付けのカーナビを、係が運転席のフロントガラス正面にマグネットで取り付けてくれた。

 本当に目の前だ。タイのドライバーは、こうやって運転するのだろうか。

 しかし・・・これでは前が見えない。彼が去ってから、隅の方に装着しなおす。すると運転中、何度も振動で足元に落ちてしまった。

 さて今晩のホテルを目的地に入力しようとすると、まず登録されていない。

住所で探してみる。タイ語の地名は、ローマ字表記すると何通りもスペルがある。いろいろスペルを替えてみてもヒットしない。

あきらめて、あらかじめ登録されている市役所などを当面の行き先にした。

途中で気が変わり、クメール時代の遺跡に寄ることにした。脇道に入ると、日本のカーナビなら、最終目的地までの経路を再計算してくれる。ところがこちらのカーナビは、しばらく沈黙した後に「 Impossible!  Make U-turn! 」と連呼しはじめた。ヒラリー・クリントンを思わせる、低い女性の声だ。

市民の意向を無視して我を通そうとする。カチンときて、スイッチを切る。

すると何日かして、今度は勝手に電源が切れるようになった。肝心な場面で寡黙になる。彼女の機嫌を損ねたか。どうも、電源コードの接触不良らしい。指で押さえると復活する。

旅の後半、右手でハンドルを握りながら、左手でカーナビを押さえて走った。

それでも、現在地がわかるだけでもありがたい。タイ北部チェンマイでレンタカーを借りたときも、事前にオプションで注文した。

ところが、車内にカーナビが見当たらない。スタッフに指摘すると「契約に含まれていない」「別途つけるなら1日240バーツ必要」という。

おかしい。確かにカーナビ代も払っているはず。私の思い違いだろうか。

今回は田舎道だからいいか、とそのまま出発した。結果、どんな小さな町でも必ず道に迷い、ホテルにたどり着くまで1日平均30分は右往左往した。道行く人に聞きまくり、タイ語の練習にはなった。

改めてレンタカー会社との契約内容を見直すと、確かにカーナビ代を払っている。

最終日。車を返却し、「カーナビ代を払っているのにカーナビなしの車だった」とクレームをつけた。シラを切るつもりなら、断固戦ってやる。

若い男性スタッフは、しばらく端末をいじると「オ~オオ」とつぶやき、女性上司にタイ語で何か言った。すると上司も「オ~オオ」と言い、にっこり笑った。

タイ人と話すと必ず出くわすこの「オ~オオ」、アメリカ人の「Oh!」とは似て非なるもので、感嘆詞ではあるが、本人はあまり驚いていないことが多い。

「OK、カーナビ代は払い戻します。口座に入金されるまでひと月かかります」。

ここで怒ると、かえって事態が悪化することは経験で知っている。久しぶりに、カーナビがない時代のドライブを経験できてよかった。

次回はA社でなく、H社の車を借りよう。でもどんなに国際ブランドでも、ここがタイである限り、また同じ目に遭う気がする。


2016年2月2日

ドバイ空港ターミナル2


ミャンマーで珍しいエアラインに乗ったが、以前もっとすごい航空会社を使っている

2005年から07年にかけて、何度かアフガニスタンに出張した。中東の玄関口ドバイから首都カブールへは、アフガニスタン国営アリアナ航空、同民営カム・エア、国連機、以上3つの選択肢があった。

アリアナ航空は唯一、ネット予約ができた。でもeチケットではなく、数日後に国際宅配便で紙の航空券が届く方式なので、急な出張には使えない。まともな航空会社からは引退した、旧式のボーイング727やエアバスA300を飛ばしている。

最後にアリアナ航空に乗った時は、トルコの民間機を乗員ごとリースしていた。さすがは世俗的イスラム国家トルコで、客室乗務員は半袖とミニスカートの女性たちだった。一方でアフガニスタンは、女性を頭のてっぺんからつま先までブルカで覆う厳格な国だ。乗客のアフガン男性たちには、ちと刺激が強すぎないか。

 案の定、全員の目が通路を歩くCAの足にくぎ付け。驚愕の表情を隠さず、全身硬直していた。

カム・エアは、地元の金持ちが経営している。飛行機は最新鋭の737-800型などで、これもトルコから乗員ごとリースして使っている。HPにアクセスすると、ネット予約が「coming soon」とあり期待したが、結局は帰任するまで「coming soon」のままだった。

ドバイに着くと、市内にあるカム・エアのオフィスへチケットを買いに走った。時間がない時は、ドル札を手に直接、空港のカウンターで交渉する。満席のことも多く、毎回スリリングだった。

国連機は、United Nations Humanitarian Air Services(UNHAS)が運営する。週2便しかなく、主にカブールからの帰りに使った。UNHAS事務所の横柄な対応さえ我慢すれば、空いていて予約は取りやすい。親方国連の殿様商売で、料金はアリアナ航空やカム・エアの2倍した。

国連機だ、と期待して乗り込んでみると、やはりトルコやヨルダンの民間機をリースして使っている。何のことはない。結局、どこを選んでも借り物の飛行機だ。

カブール駐在の国連日本人職員いわく、彼らはアリアナ航空やカム・エアには乗ってはいけない規則だという。実際、カム・エアはカブール近郊の山中に墜落。アリアナ航空もドイツの空港で滑走路をオーバーランし、EU出入り禁止になった。

ドバイからのカブール便は、どれも早朝発。午前6時からの1時間に、相次いで出発していく。巨大で未来的なドバイ空港ターミナル1ではなく、タクシー運転手さえ場所を知らない、場末の雰囲気漂うターミナル2から発着した。

小さく暗いターミナル2からは、イラク便も出る。電光ボードにはカブール行、「タリバンの本拠地」カンダハル行と並んで、バグダッド行やバスラ行の文字が並ぶ。なかなかの迫力だ。

イラク便の搭乗口に行列するのは、丸太のような腕に入れ墨をした、迷彩ズボン姿の白人男。民間軍事会社に雇われた兵士や、軍需物資を運ぶトラック運転手らと思われる。

我がカブール便の乗客には、NGOや国際機関で働く女性もちらほら混じっている。バグダッドに比べれば、まだ安全な場所と言えそうだ。

少しだけ心が和んだ。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...