2016年1月31日

宝石の塊エアライン


 改革開放が進む「最後のフロンティア」ミャンマー。今回は最大都市ヤンゴンと、最後の王朝が置かれた古都マンダレーに行くことにした。

 ヤンゴン~マンダレー間は約600キロ。この区間には国営ミャンマー航空をはじめ、エア・パガン、エア・マンダレー、ヤンゴン航空、エア・カンボウザ、エイジアン・ウィングス、FMIエアチャーター、マン・ヤダナボン航空、ゴールデン・ミャンマー航空など10社あまりが飛んでいる。

 航空自由化は、日本を追い越しているかも知れない。

 ところが会社名で検索すると、いかにもウィルス感染しそうな、怪しげなサイトに行きつく。予約方法が現地への電話だけだったり、メールを送っても返事が来なかったり。あまりやる気が見られない。

いくつかのサイトは、リアルタイムで空席状況が確認できる。一見信用できそうなのだが、カード決済の途中でフリーズしてしまう。ガイドブックには「某国営航空は危険」などと書いてある。

 日本からの予約をあきらめ、現地に向かった。

 ヤンゴンではまず、滞在したホテルのツアーデスクへ。マンダレー行きは早朝と夕方の2便だけ、と不便なフライトしか紹介してくれない。市内で別の旅行会社に飛び込むと、「どの便も一律145ドル」と吹っ掛けられる。

結局、ホテルのロビーで再びネット検索する。

 比較的まとも、と口コミサイトにある「マン・ヤダナボン航空」を選び、遅いwifi にハラハラしながらネット決済。またフリーズか、と不安になるほど待って、やっと購入完了画面が現れた。

 マンダレーに発つ前日、航空会社から「定刻を80分後に変更します」とメールが入る。当日、空港ゲートでさらに30分の遅延を伝えられる。乗り込んでからは、離陸の順番待ちなどで時間を食い、結局マンダレー着は当初予定の2時間30分後になった。

 文句を言う気は起きない。無事に着けてよかった。

 乗客は、ノースフェイスのダウンジャケットにトレッキングシューズ姿の白人団体客、オレンジの法衣を身にまとい「ビルマの竪琴」を思わせるお坊さん、色鮮やかな布を頭に巻いたパオ族のおばさんたちなど、多士済々。大きな瞳の古典的美人CAが、あめ玉や軽食を配ってくれる。小さなプロペラ機で低い高度をゆっくり飛び、乾燥したミャンマー中部の大地をよく見渡すことができた。

 「ヤダナボン」というのは19世紀、時のミンドン国王が名付けたマンダレーの別名で、宝石の塊という意味だという。マンダレーを拠点に飛ぶマン・ヤダナボン航空が、10社以上の競争を今後も勝ち抜いていけるのか。かなり怪しい。

とりあえず、手元の搭乗券とバゲージタグは大事に取っておこう。


2016年1月24日

職業を気にする国②


 新聞紙上でインド連載が始まると、インド大使館に通い詰めた。①書類提出、書記官との面接 ②招聘状発給、ビザ申請と手数料の支払い ③パスポート預け ④パスポート受け取り。インド出張が決まるたび、4回ずつ大使館に足を運んだ。

渋滞したバンコクを大使館まで行き、長蛇の列に並ぶ。さすが「悠久のインド」、ビザ申請窓口にも悠久の時間が流れていて、いっこうに順番が来ない。対応ぶりは傍若無人で、書類に不備があると邪険に突き返された。

 そして面接では、書記官から詳しく取材目的を聞かれる。ある時、担当書記官のクマール氏に「今回は人気女優のマリカ・シェラワットをインタビューしますよ」と話すと、「マリカのナマ写真をくれるなら、次から特別扱いでビザを発給する」と真顔で言われた。

出張から戻り、大きく伸ばしたマリカの写真を手にインド大使館に行くと、クマール氏はすでに異動していた。

帰任直前になって、インド大使館のビザ・セクションが、古びた一軒家からモダンなビルに移転した。明るいガラス張りになった窓口では、制服姿の若い職員が打って変わってきびきびと対応し、書類の書き方も親切に教えてくれる。整理券の発行は手書きから機械式に替わり、待ち時間が激減した。

これからは外国人を受け入れよう、という意思のようなものを感じた。

インドの隣国パキスタンの取材ビザは、当初とても簡単に取れた。申請書さえ出せば、翌日には面接なしにビザが出て、しかも無料。開かれた国に思えた。

それがインドとは逆に、日を追って審査が厳しくなった。特にブット元首相の暗殺後は、訪問目的によっては発給を拒否される。ビザが出る場合でも、滞在日数と訪問都市を厳しく制限される。

もとより治安が安定しないので、ビザを申請に来る人は少なく、窓口はいつも閑散としていた。当時のパキスタンは世界との交流をなくし、孤立していくように見えた。

そしてミャンマー軍事政権も、何かを見せたい時しか取材ビザを出さなかった。バンコク特派員時代の3年間で入れたのは、独立記念日の軍事パレードと、新首都ネピドー完成時の2回だけ。飛行機で1時間の距離なのに、近くて遠い隣国だった。

今回晴れて自由の身となり、ミャンマー行きの飛行機に乗る。




2016年1月21日

職業を気にする国①


 ミャンマーへ行くことにした。

 新聞記者をしていた頃、個人でミャンマーに入るのは意外に大変だった。「ミャンマー国内で取材活動をしない旨の誓約書」に、会社の休暇証明書までつけて出さなければならない。行きたいと思いながら、何となく足が遠のいていた。今はもう何の気兼ねもいらない。

 ところが、いくら会社を辞めたと言っても、パスポートには各国のジャーナリストビザが残っている。「辞めたという証明書を出せ」などと言われたら面倒だ。

 そこで、今回は周到に準備した。パスポートを新品にして証拠を消した上で、日本より審査が緩いバンコクのミャンマー大使館に出向いた。

正門近くに駐車したワンボックス車の中では、便利屋さんが顔写真撮影やパスポートのコピー、頼めばビザ申請書の代筆までやってくれる。ここではパスポートとお金さえあれば、簡単にビザが取れるようだ。

 申請書をめくると、現在の職業と過去の職業それぞれ、仕事内容、職位、在職期間まで詳細に申告する欄がある。ずいぶん人の職業にこだわる国である。

 いままでは、正式に取材ビザを取って入国する場合は photojournalist とか staff photographer。観光ビザで仕事をしてしまう場合は office worker などと書いていた。これからは何と書こうか。

freelance では正体不明すぎる。retiree ・・・この歳で? invester も怪しまれそう。unemployed かえって面倒なことになる。NPO staff  真実だが、これにも説明が必要そうだ。

 去年の実態を正確に書けば「労働時間が長かったのは福祉関係と教育関係で、収入が多かったのは投資と失業給付」になる。そのまま申告して、果たして先方はどう思うだろうか。

 結局、elementary school english teacher ということにした。ウソではないし、まともな人に見られることがこの際、最重要。その割には英語が下手だ、と入国審査で突っ込まれそうだが。

 苦心の末に、申請書を書き上げる。妻の分も、適当に代筆する。欧米人バックパッカーたちと一緒に、1時間以上も行列に並んだ。窓口では特にお咎めなく受理され、2日後には無事、ビザが発給された。

 遊びでなく、仕事で行っていた頃のアジア諸国は、基本的にビザが必要だった。観光客を装い、ビザなしで仕事をしてしまう時もあるが、そうはいかない国もある。バンコクに駐在中は、ビザの取得でいろいろなことがあった。
 (続く)


2016年1月19日

90分間のラオス旅行



 年明けから金融市場が荒れている。今年のNISAは毎月の積み立てをするつもりだったが、安くなったのでいっぺんに投資してしまった。

 FTSE新興国指数       40%

 CRSP米国小型株指数     20%

 FTSE世界小型株指数     20%

 MSCIフロンティア指数    20%

 ちなみにフロンティア市場というのは、クウェートやナイジェリア、パキスタンなど、新興国よりさらに危険、もとい成長力を秘めた国家群だ。

 皆が売っている時に、いちばん値下がりしたアセットを買うのが投資の鉄則とはいえ、心理的に難しい。世界経済と関係なさそうなタイの田舎にいた方が、かえって自分の意志を貫ける。

 幸い、今や東北タイの中級ホテルでもwifiがつながる。夕食後ニューヨークに指値注文を入れ、日本だったら「果報は寝て待て」、そのまま寝てしまう。タイは日本よりさらに2時間時差があるので、ぼんやり端末を見ているうちにNY市場が開いた。その日も世界中のインデックスが軒並み2%を超えて下がり、あっという間に約定した。

 いっけん分散投資をしているように見えて、実は思い切りタマゴをひとつの籠に盛っている。落としたら大変だが、債券投資家は弱虫だと公言している手前、他に選択肢がない。5年か10年放っておけば、値上がりしていると思う。

※昨年のNISAも一昨年のNISAも、現時点ではボロ負けだ。価格変動を友だちにできる人以外、マネしない方がいいです

 この東北タイ旅行中、4日間で3回、ラオスに行った。

メコン川に沿って車で北上すると、いつも右手にラオスの山が見えている。昼頃にドライブを終えて次の町に着くと、ほかにやることがない。暇つぶしがてら、つい国境を越えてしまう。

世界中で人畜無害と思われている日本人観光客は、ラオス入国にもビザがいらない。パスポートに、タイ出入国のスタンプとラオス出入国のスタンプが、きれいに6つずつ12個並んだ。90分間のラオス滞在後タイに再入国すると、イミグレーションの係官がまじまじと私の顔を見つめ、

「ノーグッド、サムライ・・・」

とつぶやいていた。

タイ~ラオス国境のメコン川に近年、日本やオーストラリアなどの援助で4本の橋が架けられた。今回、そのうち3本を渡ったことになる。どの橋も交通量は少なく、税関ものんびりしている。だが、渡った先のラオスは、小さなボートで国境越えした10年前とは激変していた。

何もなかった町なかの広場には市が立ち、まるで白昼夢のようにひと気のない道が車で渋滞している。以前味わった、フランス植民地時代のノスタルジーを期待していたのでがっかりしたが、これが現実だ。

昨年12月31日にASEAN経済共同体(AEC)が発足し、東南アジアのヒト・モノ・サービスの流れは今後ますます活発になるようだ。

思い出の地はそのままでいて欲しい反面、経済成長のおこぼれにも預かりたい。サムライ煩悩だらけ。

2016年1月17日

カウヌン、テムタン!


 東北タイ(イサーン)車の旅も8日目、2000キロを走破して、無事にバンコクに戻ってきた。

 サービスアパートにチェックインした後、AVISの営業所まで車を戻しに行く。つながらないカーナビのせいで曲がるところを間違え、バイクタクシーのおじさんに道を聞く。

 まずい、日が暮れてきた。日差しが強いタイでは市販車でも、日本の暴走族並みに強いスモークガラスが使われている。フロントガラスさえ色つき。昼間はいいが、夜道は実際以上に視界が暗い。車の周囲をバイクの大群に囲まれ、その何台かは無灯火だったりするので、急ブレーキや急な車線変更は危ない。

バンコク名物の大渋滞にはまり、3キロの道のりに1時間半かかった。

 会社勤めの身だったら、「お金を払って車を取りに来てもらうんだった・・・」と後悔していたはずだ。いまは時間だけは豊富にあるので、これもひとつの経験、と余裕をかます。

 タイの道路は、全般に舗装が荒れているから、路面からの振動や騒音が大きい。郊外の空いた道を時速100キロで走る時は、まるで車の耐久テストをしているよう。それさえ目をつぶれば、道は広くまっすぐで、道路標識も過不足ない。助手席はともかく運転者にとっては、日本で2000キロ、青森から鹿児島まで走るより疲れなかった。

 ナコンラチャシマ、ウボンラチャタニー、ノンカイ、ウドンタニー、コラート・・・イサーンを1周した達成感に浸る。ただバンコクからイサーンの入り口までは景色が単調で、交通量が多い。次回はどこか地方都市まで飛行機を使い、田舎道だけを走ろう。

 車の旅では、行きたい時に行きたい場所に行ける半面、人との交流は減ってしまう。運転中に言葉を交わしたタイ人は、警察官とガソリンスタンドのお兄さんたちぐらいだ。

警官と言っても、反対車線を逆走してお世話になったのではない。

タイ・ラオス国境に沿って走った数日間、頻繁に検問があった。3回に1回の割合で、停止して運転免許証の提示を求められた。「韓国人?中国人?ああ日本人か。日本語でサワディーは何て言うの?カニチハ?コニチハ?コニチハ!」何のことはない、我々は単なる暇つぶしの相手だ。しかも日本はやっと3番手らしい。

ガソリンスタンドでは毎回、手のひらを下から首まで持ってきて「すりきり満タン」と理解してもらった。でもいつまでも、タイ人のカンの良さに甘えてはいられない。最後に給油した時、その数十秒さえ惜しんでベンチで居眠りするお兄さんを起こして、タイ語を教わった。

 「レギュラー、満タン!」は、「カウヌン、テムタン!」と言うそうだ。

 カウヌンはタイ語の91。オクタン価91のガソリンを満タン、という意味だ。

 やっと覚えたこのフレーズ、次に車を借りる時は、たぶん忘れている。


2016年1月11日

暴走する若者 逆走する私


車やバス、バイク、トゥクトゥク、リヤカーなどが入り乱れるバンコクの路上に、レンタカーで繰り出した。

いったん渦中に飛び込んでしまえば、見た目ほど怖くない。

マイカー急増中とはいえ、タクシーや配送などのプロドライバーが多い。運転がうまいので、こちらがミスしても、向こうがよけてくれる。

また、タイ人得意の「あうんの呼吸」で、無秩序の中にも秩序が保たれている。ニューデリーやマニラ、ジャカルタなど、アジアの大都会お決まりのクラクションの洪水が、ここバンコクはないのだ。

赤信号であっても、交差点を忍び足で入って左折できる。最初は面食らうこのようなローカルルールを、見よう見まねで覚える。

これまでアメリカ、カナダ、ベルギー、オランダ、ポーランド、チェコ、スロバキア、オーストリア、ハンガリー、ニュージーランドで運転した。ベルギーとニュージーランドでは、つい右側通行を忘れて反対車線を激走した。日本でもヨーロッパから帰国直後に逆走したが、今日まで生き永らえてきた。

ここは日本と同じ左側通行なので、「逆走する老人」にはならないで済む。

タイでレンタカーを借りるのは簡単だ。営業所に電話し、クレジットカード番号を口頭で伝えればいい。300バーツ(1000円強)の追加料金で、車をホテルまで届けてもらえる。

約束から30分遅れて、赤いベストを着たAVISのお兄さんが到着。書類にサインすると、彼は私のパスポートと国際運転免許証をスマホで撮影して帰って行った。ピザの宅配と変わらない手軽さだ。

車は、トヨタの現地生産車VIOS。走行13万キロで、車体が派手に凹んでいる。トランクも、思い切り叩き付けてやっと閉まる。オプションで付けた英語音声のカーナビは、すぐ電源が切れる。

それでも、まっすぐ走れなかった某国のレンタカーに比べれば、じゅうぶん許容範囲である。

バンコクを抜けて郊外に出てしまうと、片側3車線のまっすぐな道が延々と続く。鉄道網が貧弱なので交通量は多いが、ほとんどの交差点が立体交差化され、1時間走っても信号がない。制限速度は時速110キロで、一般道なのに東名より流れが速い。

ベトナム戦争中、タイに基地を作ったアメリカが道路を整備した。走ってみれば、気分はフリーウェイ。道路も路肩も広々としている。

ただし左車線を走っていると、その路肩を親子3人乗りのバイクが逆走してくる。時々、ピックアップトラックまで逆走してくる。一方で追い越し車線を走れば、Uターンする対向車が急に鼻先を突き出してくる。真ん中の車線を、なるべく露払いの車を前に立てながら慎重に走る。

昨日は270キロ、今日は380キロを走破して、タイ東部ウボンラチャタニーにやってきた。明日はラオス国境を目指す。

ハンドルを握って手にする自由は、想像以上だ。

2016年1月7日

気温33度のポジショントーク


 新年明けてタイに来た。

 料金を吹っ掛けられたり、メーターが改造されていたりスピード狂だったりと、バンコク空港から乗るタクシーには毎度ハラハラさせられる。今回は実直そうなおじさんに当たり、閑散とした高速道をゆったりとドライブ。道が空いているのは、帰省した地方出身者たちが、まだ完全には戻りきっていないから、とのこと。降りる時も、メーターの金額しか請求されなかった。

 毎度のことだが、車窓から眺めるバンコクの景色に見覚えがない。留守にしている間に、新しいオフィスビルや商業施設、高層アパートが建つからだと思う。「日本の地方から出て来ると、バンコクは未来都市みたい」と妻は言う。

 閑散期を狙って航空券を手配したが、今回は争奪戦が激しかった。ネットで調べる東京~バンコク間の空席状況は、元日過ぎても空きがあるのは東京行きばかりで、バンコク行きは軒並み満席。帰国ラッシュだったころと、まったく逆だ。

海外旅行をする日本人より、訪日外国人の方が多い。知識として頭に入ったつもりでも、インバウンド需要がこれほどすさまじいとは知らなかった。これから飛行機の手配では、日本人より外国人の動向を気にしなければ。

マイレージを使って、タダで飛行機に乗ろうとする私のような輩は、搭乗の優先順位が低いので特に気をつける必要がある。

タイ航空の機内でも、利用客の過半は日本人以外に見えた。日本滞在を楽しんで帰国するタイ人の姿が目につく。

ほんの数年前まで、タイ人の訪日ビザ取得には厳重な審査があった。経済格差もあり、日タイ間の旅客は、20対1ぐらいで日本人が多かったと思う。それが今や、タイ人が日本人を凌駕しそうな勢いだ。時代は変わった。

2006年、仕事で中国東北地方に行った。2ケタ成長が続き、中国のGDPが6年ごとに倍になっていた時期だ。遼寧省瀋陽で取材を手伝ってくれた女性は、日本留学から戻ったばかり。「たった3年いない間に、生まれ故郷の瀋陽がまったく別の街に変わっていた」と話していた。

減速したとはいえ、中国の経済成長率はいまだ7%。世界第2の経済大国・日本を抜いたと思ったら、いつの間にかGDPが日本の2倍になった。タイを含むASEANの経済成長率も6%台。ドル建ての1人当たりGDPで、シンガポール、香港、ブルネイが日本を抜いた。私たちは、この現実を理解しているだろうか。

新興国への投資は、中国株を筆頭に、株価が企業価値を適正に反映しないのが難しいところだ。それでも、自分のお金には冒険させたい。10年後の日経平均と新興国株指数、どちらが2倍になっているか。私は新興国に賭ける。たぶん、2倍ではきかないだろう。

指数を買うほかに、アリババのような、ニューヨーク上場の中国企業を買うという手もある。

ところで、やっとブログのタイトル通りの暮らしになった。

タイトルを変えたくないから、無理してアジアに来たわけではない。

日本だって、立派なアジアなのだ。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...