2015年8月27日

問答無用の大安売り


 盛夏が足早に去り、バーゲンの季節がやってきた。

 といっても、カブの話。野菜じゃない方の。

 私は株を買うのが趣味なので、近頃安くなってうれしい。だが、新聞やテレビでは完全に「悪いニュース」扱いされている。

メディアは、株が1割上がっても無視するのに、1割下がると大騒ぎ。これはいったい、どういうこと? 何気なくニュースを見ているだけで、「株は危ないもの」という印象が人の心に刷り込まれてしまう。

去年まで働いていた東京・大手町は、株価ボードだらけだった。通勤途中に、いやでも日々の値動きが目に入ってくる。

いま住んでいる街は、どこを探しても株価ボードがない。おかげで、無駄に一喜一憂させられることなく、平和な気分でいられる。

そもそも、株の日々の値動きなんて99%、何の意味もない。今回の下落について、Y新聞は「世界経済の先行きに対する不安」と書いた。これって経済担当記者が、後付けで理由を考える時の常套句。もう聞き飽きた。

株は一時的に大きく下がっても、3日後か3か月後か3年後には再び上昇に転じる。そうわかっていれば、日々の経済活動に関係のない「問答無用の下落」は、むしろ絶好のチャンス。バーゲン到来だ。

では、株はなぜ上がるのか。100年ぐらい歴史がある欧米の株式市場の値動きを見ると、毎日上下を繰り返しながらも、全体ではきれいな右肩上がりのグラフを描いている。今年に入って、アメリカやドイツが史上最高値を更新した。

誰でも、明日は今日より豊かになりたい、と思うもの。人の欲望がその源泉であることは、ほぼ間違いない。地方暮らしに満足している私も、心の底では「思い立った時に、ビジネスクラスで寝ながらパリやニューヨークやバンコクやカトマンズに飛べる」ぐらいお金持ちになりたい、と思っている。

新興国に住む人々の、より良い暮らしへの欲求は私以上に切実だ。だから、いま騒がれている中国経済も心配無用、まだまだ成長すると思う。

もうひとつ考えた屁理屈。会社は、株を発行したり、銀行からお金を借りたりして運転資金を調達している。ということは最低でも、株主に払う配当分、または借りたお金の金利分は、利益を増やさなくてはならない。現状維持さえ許されないのだ。

ピケティが書いた分厚い本も、私が思いっきり要約&意訳すると「株(資本)は給料(GDP)より上がり方が大きい」ということになる。株式投資は、資本主義社会で最強のツールだ。

「ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはむつかしい」(寺田寅彦)。ものごとに楽観的すぎると言われる私は、この言葉を肝に銘じようと思う。適度に怖がりながら、一生カブと付き合っていく。

ぼけ予防にもいい。


2015年8月23日

大日本帝国を訪ねて⑥


2005年7月、インド洋沖で沈没した日本海軍潜水艦「伊166」の海上慰霊祭に同行した。

伊166は、開戦直後にオランダの潜水艦を沈め、太平洋戦争で最初に戦果を上げた栄光の潜水艦となった。が、終戦の前年、イギリス潜水艦に攻撃されて沈没。乗組員の大半が戦死している。

式典当日、マレーシア中部クラン港から船に乗り、マラッカ海峡の沈没海域へ。到着すると、停止した船上から、遺族らが花束を海に投げる。61年ぶりに実現した現場での慰霊祭。遺族の表情は、意外にも淡々としていた。

聞くと、今では伊166、沈められたオランダ潜水艦、沈めたイギリス潜水艦、それぞれの遺族の間で交流しているという。

歳月が、憎しみの連鎖を解き放つのだろうか。奇跡のような話だと思った。

それにしても。

潜水艦は、単独で敵の海に潜り、偵察や破壊活動を行う。無線交信を最小限にして、隠密行動を取る。運悪く見つかってしまえば、回りは敵ばかり。味方に危機を知らせる間もなく攻撃、撃沈され、こつ然と「行方不明」になる。

以前「えひめ丸」事件で行ったハワイで、米原潜「コロンビア」の内部を見せてもらった。艦内は狭く、兵器と機械類でいっぱいで、乗員の居住スペースがない。なんと魚雷室の中にまでハンモックが吊ってあり、夜は魚雷を抱くようにして寝るという。

潜水艦乗りにはなりたくない、と思った。

乗り組んだ潜水艦が、魚雷や爆雷で攻撃される。不気味にきしむ艦内。ついに壁に穴が開き、海水が勢いよく吹き出す。浸水し、少しずつ海底へと沈んで行く。狭い艦内は停電で真っ暗。海水が足元から胸まで迫る。逆に酸素はどんどん減る。息苦しさが募る。もう、浮上できる見込みはない。

このまま、誰にも知られずに死んでいくのか。そう悟った時、どんな気持ちで最後のひとときを過ごしたのだろう。

潜水艦の戦いは、悲惨すぎる。


ところで近年は、潜水艦ばかりか島も沈没する。

地球温暖化で海面が上昇し、水没の危機に瀕した、中部太平洋の島国キリバス。2007年8月、環境企画の仕事で訪れる機会があった。バンコクからシドニー、フィジー経由で3日がかり。日本からも数千キロ離れている。

キリバスの中心、ベシオ島は、戦中派には「タラワ島」と言った方が通りのいい、玉砕の島だ。

戦争末期、太平洋の島々で続いた玉砕戦。タラワでも、圧倒的に優勢なアメリカ軍相手に、初めから勝ち目のない、凄惨な戦いが繰り広げられた。

上陸する米海兵隊に対して、日本軍守備隊は水際で応戦し、3日間の戦闘で全滅。砂浜には、今も米軍の戦車や上陸用舟艇の赤さびた残骸が点々と残り、当時の戦闘の激しさを伝えていた。

このベシオ島には、「ダイニッポン小学校」がある。「大日本土木」という会社が日本のODAで港湾整備を行っているのが、この校名の由来か。地元の子どもたちが通うこの学校、大日本帝国の名残ではない。

現在のベシオ島は開発が進み、スーパーを中心に市街地が広がっている。木が伐採されて木陰も少なく、ひたすら暑い島だ。戦死者の多くが餓死・栄養失調による病死だったフィリピンやニューギニアの戦跡の、むせかえるような暑さに比べ、3日で散った「玉砕の島」タラワを吹き抜ける風は、カラリと乾いていた。

2015年8月20日

大日本帝国を訪ねて⑤


「フィリピン・ミンダナオ島で元日本兵発見!」

2005年5月、とんでもない情報がバンコク支局に転がり込んできた。

世界を渡り歩いてきたベテラン、Hアジア総局長が、電話口で慌てている。これは大事件だ。

とっさに、ボロボロの軍服を着た老人が、銃を手にジャングルから出てくるシーンを思い浮かべた。その瞬間をカメラに納めれば、大スクープ間違いない。

それにしても、「小野田少尉」が同じフィリピン・ルバング島で発見されたのが30年前の話だ。終戦からちょうど60年。タイミングが良すぎはしないか。

何はともあれ、急いでマニラに飛ぶ。

夕暮れのマニラ空港は人でごった返し、アジアの混沌そのもの。大阪本社から駆けつけてきた取材班と合流し、喧噪の中、撮影機材などの大荷物を抱えて国内線ターミナルへ急ぐ。

ミンダナオ島ジェネラルサントス行きの定期便は、既に出てしまった。残された道は、怪しげな会社のプロペラ機をチャーターするのみ。提示された金額は決して安くない。足元を見られている気もするが、事態は一刻を争う。みなで有り金を持ちより、くたびれた飛行機に乗り込む。

頼むから墜ちないで、と緊張してシートベルトを締める。すると、超ミニスカートの制服を着た女性が乗り込んできた。にこやかに、近所の「フィリピンのマクドナルド」ジョリビーで買ってきたらしきハンバーガーを配り始める。一気に場が華やぐ。

これが機内食か。でも、この人と一緒なら墜ちてもいいかも。

と思っていたら、さっと非常口の開け方と救命胴衣の説明をして、離陸寸前の飛行機から降りて行ってしまった。

窓外から、笑顔で我々に手を振る彼女。

力無く手を振り返す、取材班。

なんとか無事に到着した夜のジェネラルサントス。東京からの応援組や、マニラ、シンガポール駐在特派員と合流する。翌日には我がアジア総局長も合流して、総勢8人の大取材班にふくれあがった。他の新聞社、雑誌、テレビ局も大挙して押し寄せ、ふだんは静かなフィリピン南部の田舎町は、日本のマスコミであふれ返った。

それからは連日、日本から派遣されてきた厚労省職員や、日本大使館員の動向を追う。取材する側もされる側も日本人。外国に来ている気がしない。

だが、この周辺はイスラム過激派の拠点だ。町はずれには検問所があり、自動小銃で武装した国軍兵士が警戒している。一歩市外に出れば、政府の支配が及ばない無法地帯だ。勝手にジャングルに踏み込むことはできない。

事態は一向に進展せず、関係者を張り込むばかりの日々に、次第に飽きてくる。

そして数日後、なんと「日本兵発見」情報はまるっきりウソだったことが判明した。金目当ての人物が流したガセネタを、我々マスコミが鵜呑みにしてしまったようだ。各社が枕を並べて、大誤報を打ってしまった。

戦時中、日本に占領されたここフィリピンでは、市民が日本軍の暴虐に苦しみ、米軍上陸後は、多くの人が戦闘の巻き添えになって死んだ。今回の我々の大騒ぎを、街の人たちはどんな気持ちで眺めていたことだろう。

後味の悪さばかりが残る、間抜けな出張だった。


2015年8月16日

大日本帝国を訪ねて④


ジャカルタ支局のK記者と、良からぬ事を企んだ。

ゼロ戦の撃墜王、坂井三郎のベストセラー「大空のサムライ」。この本を夕刊の文学紀行面で取り上げて、ラバウルに行こう。

調べると、バンコクからシンガポール、ブリスベーン、ポートモレスビー経由ラバウルまで、片道3日かかる。果てしなく遠い割に、それほど大きな記事にはならない。会社思いの私は、費用対効果で気がとがめた。Kさんの「行っちゃいましょう!」の一言で、決行する。いま思えば、牧歌的な時代だった。

「では一週間後にポートモレスビー集合、ということで」

2006年1月、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーに降り立つ。が、「ラスカル」という強盗団が跳梁跋扈していて、気軽に街を歩けない。高価な腕時計をして出た外国人が、蛮刀で腕ごと切り落とされたという。空港近くのエアウェイズ・ホテルに泊まり、Kさんの到着を待つ。ジャカルタに電話してみると、あんなに楽しみにしていたKさん、体調不良で行けないという。

翌日、ひとり小型機でニューギニア島を縦断し、ニューブリテン島ラバウルへ。軍歌で名高い「ラバウル航空隊」の基地はその後、背後にそびえるタブルブル山の噴火で埋まり、戦後日本の援助で作られた新空港に着陸した。

私は5年前の夏も、ラバウルに来た。その時は、商社マンとして赴任した大学の後輩を訪ねる旅。彼は学生時代、人一倍環境問題にうるさかったが、会社で材木部門に配属され、今はこの国の木を切りまくっている。人生とは因果なものだ。

この時のタブルブル山は火山活動が活発で、真っ黒い噴煙を盛んに噴き上げていた。戦時中は「花吹山」と呼ばれ、ゼロ戦が噴煙を基地の目印にしていたという。

ホテルの芝生が、ひと晩で真っ白になるほど火山灰が降る。寝ていると、不気味な地鳴りでベッドが震える。まるで、地獄の一丁目のような所だ。

もう2度と来ることはないだろう。と、その時は思った。そのパプアニューギニア、かれこれ3回目の訪問になる。

今回、火山は活動を休止し、噴煙のないラバウルには青空が広がっていた。熱帯の植物が青々と茂り、明るい印象の町に変わっていた。

翌日、坂井三郎らゼロ戦パイロットが活躍した、日本軍の飛行場跡へ。滑走路は火山灰に厚く覆われ、広大な褐色の広場になっている。地元青年の案内でジャングルに分け入ると、日本軍重爆撃機の残骸が放置されていた。胴体や主翼を触ると驚くほど薄く、60年余の歳月で、腐食してボロボロだ。

アメリカ軍に比べエンジン性能で劣った日本軍機は、その分機体を薄く、軽くして、飛行性能を維持した。その代償として、銃弾を受けるとすぐ燃料に引火して炎上、墜落してしまったという。

逆にアメリカは、機体が重くなるのを承知で、防弾鋼板を厚くした。飛行機はまた作ればいいが、パイロットの養成には時間と金がかかるからだ。

この熱帯の地で空戦を重ね、日本は優秀なパイロットを次々に失っていった。人命の重さを巡る設計思想の違いが、やがて戦争の勝敗をも左右することになる。

半ば火山灰に埋まった爆撃機の、操縦席をのぞき込む。「もしこの時代の日本に生まれていたら・・・」と、ひとりで背筋を寒くした。私は幸運だった。

日米両軍が連日、大空を血に染めて戦ったラバウル。その舞台を、火山灰が覆い隠していく。残骸は長い歳月に朽ち果て、赤いブーゲンビリアが咲く平和な島に戻りつつあった。

2015年8月15日

大日本帝国を訪ねて③


2005年6月。インドネシアの首都ジャカルタ。

人口1000万を超える混沌とした大都会の片隅に、9人の「元日本兵」が、ひっそりと暮らしていた。

彼らは、兵士として赴いたインドネシアで終戦を迎えた後も、個人的な事情で帰国しなかった。やがて始まったオランダとの独立戦争に、今度はインドネシア軍兵士として身を投じる。4年に渡る戦闘で多くの戦友を失いながらも勇敢に戦い、ついには独立を勝ち取った。

戦後、彼らは現地の女性と結婚し、子をもうけた。やがて祖国日本は復興し、高度成長期に入る。進出してきた商社などの日本企業に職を得て、いままでインドネシア人として生きてきた。

ジャカルタでは、元日本兵が集まって作った互助会「福祉友の会(ヤヤサン)」の事務所を訪ねた。世話役の女性に、1人の元日本兵の自宅に案内して頂くことになる。雨期の豪雨で冠水したジャカルタ市内は大渋滞。3時間かかって、車は長屋のような家が連なる下町の一角に止まった。

83歳になる元日本兵、藤山秀雄さん。玄関前の安楽イスに腰掛けて、道行く人を眺めていた。耳が遠く会話には難儀したが、少し覚束ない日本語で

「いまは衛星放送で大相撲中継を見るのが楽しみ」

と、穏やかに笑った。

撮影のため、インドネシア国軍時代の軍服を着て頂いた。メイドのおばさんの手を借りながら、四苦八苦の末ようやく身につける。

カメラを向けると、つと背筋を伸ばした。裸足のまま、直立不動で敬礼した。それまでとは打って変わって、眼光鋭かった。


もう1人の元日本兵、宮原永治さんは、単身取材に来た私のことを、しきりに心配してくれた。

「この前、作家の上坂冬子さんが取材に来た。彼女はタクシー乗車中に暗闇に連れて行かれそうになり、工事現場で徐行した隙に飛び降りて逃げたそうだ。ジャカルタは1人で歩かない方がいい」

宮原さんには、ジャカルタ市内のカリバタ国立英雄墓地を案内して頂いた。整然と並ぶ墓標の一角に、宮原さんの戦友だった元日本兵たちの墓が並んでいた。独立戦争には約1000人の元日本兵が参加し、半数以上が戦死したという。

毎年8月17日の独立記念日には、藤山さんや宮原さんに、インドネシア政府から式典への招待状が届く。墓標を手すり代わりに墓地を歩く宮原さんを見ながら、彼らはあと何回、参列できるだろうかと思った。


取材の2年後、藤山さんは85歳で亡くなった。2013年には宮原さんも93歳で逝去。ふたりは今、カリバタ英雄墓地に眠っている。

2015年8月9日

大日本帝国を訪ねて②


地獄の戦場、ニューギニア戦線。

上陸した15万兵士のうち、生きて日本に帰れたのは1万。亡くなった人の多くが、餓死と病死だったという。

2005年、厚労省の遺骨収集団に同行した。

オーストラリアのケアンズ経由で、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーに入国し、空路ニューギニア島北岸のウエワクへ。途中、日本軍が敗走中に多くの犠牲者を出した、オーエンスタンレー山脈の上空を飛ぶ。当時の戦場が「ココダ・トレイル」として整備され、今ではオーストラリアの若者に人気のトレッキングコースになっているという。

ウエワクの町はずれ、太平洋に面した海辺に、老朽化した木造ホテルがある。オーナーは元日本兵の川畑さん。ここで毎日、ごはんとみそ汁の日本食を食べ、四輪駆動車で密林に向かった。

メンバーは厚労省職員2人と元日本兵2人、遺族2人、そして保育士と大学生の女性2人。これに、大勢の村人がアルバイトで作業に加わる。

戦時中、野戦病院が置かれていたという場所で、ひたすらスコップで土を掘る。注意深い作業で、頭骨や大腿骨、小さな骨片が次々に掘り出された。

歳月を経た骨は土と同化し、持ち上げただけでボロボロと崩れてしまう。赤ん坊を背負った村の女性が、骨をそっと手に持ち、にぎやかに世間話をしながら、ブラシで丁寧に泥を落としていく。

遺骨と一緒に、メガネや水筒などの遺品も見つかった。衣服や靴は、すでに土に還ってしまったようだ。日本から5000キロ離れた熱帯の地で、銃弾や飢え、病に倒れた持ち主の心中を想像し、胸に迫るものがあった。

10日間の作業で47人の遺骨を収集し、ホテルの庭で荼毘に付した。

同行した元日本兵、新井敏夫さんに話を聞いた。

新井さんは 1943年の上陸以来、武器、弾薬はおろか食べ物にも事欠く負け戦の中で、終戦までの2年間、ニューギニア東部のジャングルをさまよっている。

当時、兵士たちの間では
「地獄のビルマ、極楽のジャワ。生きて帰れぬニューギニア」

という言葉が流行った。新井さんも、爆撃で多くの戦友を失い、何度も修羅場をくぐった末に生還している。

「自分は司令部付の兵隊だったので、恵まれていた。ひもじい思いはしなかった」
と言って、つらい思い出は話そうとしなかった。

参加者の最年少は、保育士の鈴木絵里さん(22)。今回が初めての海外旅行となった。

「アニメのパプアくん、のイメージで来ました」。

戦争は「プラトーン」などのハリウッド映画でしか知らない。今回の遺骨収集は、友達に誘われて来た。

「ジャングルの中で、歯がついたままの下がく骨を見つけたときは、言葉にならなかった」

村の古老、ピーター・モックさん、84歳の話。戦争中は村にも連合軍の空襲があり、日本の「ヘータイサン」と一緒になって逃げまどった。巻き添えで、村人もたくさん死んだ。自分も空襲で、右目を失った。お腹をすかせたヘータイサンに、ヤシの実やバナナ、タロイモをあげた。それでも飢えとマラリア、アメーバ赤痢で、バタバタと死んでいった。

ニューギニアを含め、今も海外に残されている日本人の遺骨は、114万人余。元兵士や遺族の高齢化、長年の風雨にさらされて土に還りつつある遺骨の状態を考えると、収集作業は限界を迎えていると感じた。

大日本帝国を訪ねて①


 戦後70年の今年、テレビや新聞では連日、戦争関連企画が報道されている。

 そこで私も、ひとり「戦後70年」ごっこ。ボランティアでお年寄りを病院に送る車中、片っ端から戦争の話を聞いている。

 オイヌマさんは海軍兵士として、本土空襲にやってくるB29をレーダーで捉える訓練をしていた。ホンダさんは終戦前日の空襲で、街が停電して玉音放送が聞けず、戦争が終わったことを知らなかったと話してくれた。

 こうして体験者から戦争の話を聞けるのも、今だからこそ。「戦後80年」ではもう難しいと思う。

 日本が太平洋戦争を戦ったのが、1945年までの3年8か月。私は「戦後60年」に当たる2005年から3年間、バンコクに駐在していた。その間、インド領アンダマン島からフィリピン・レイテ島、南太平洋のタラワ(現キリバス)、ニューブリテン島ラバウルまで、取材でかつての戦場に行く機会があった。

戦場カメラマンではなく、戦跡カメラマンだ。

戦場カメラマンとして華々しく活躍する代わりに、往時の戦場を訪ねては、しみじみと感慨に浸っていた。

ちょうど、いちばん勝っていた頃の大日本帝国の勢力圏が、特派員として当時、私が持たされた守備範囲と重なっていた。現代のジェット旅客機で移動しても、端から端まで10時間以上かかる広大さだ。

遠く離れた異国のジャングルで出会う、朽ち果てた日本製爆撃機や戦車の残骸。土を掘れば、鉄兜や飯ごうと一緒に出てくる日本軍兵士の遺骨。それらを目にして、まず私の頭に浮かんだのが「身の程知らず」という言葉だ。

米国との圧倒的な国力の差を無視して戦争に突き進み、アジアの多くの国を侵略した挙句、やがて必然的な破滅へと転がり落ちていく。

日本人とは何者か。いざという時、国家は国民を守ってくれるのか。どうしたら、戦争を防ぐことができるのか。

私たちは、犠牲になった数百万の声なき声から、できるだけ多くを学ばなくてはならない。

2015年8月2日

来世のために


 このところ毎日、アロハシャツを着て、女性とドライブを楽しんでいる。

 デートクラブの出張ホスト? そう言えなくもない。

まず、クラブの女ボスから電話で指示を受け、女性たちの自宅まで迎えに行く。それは立派な一戸建てのこともあるが、どちらかといえば「ガード下の古アパート」や「築50年の市営住宅」が多い。

 出てくるなり、いきなり腕を組んでくる人がいる。目が見えないから、という。

 歩けない、と言う人もいて、有無を言わさず車いすに乗せ、リフトやスロープ付の改造車の中に連れ込む。

 たまに「ヘルパーさん」と呼ばれる女性が一緒に乗り込んできて、両手に花となる。

 車で、彼女の希望する行き先に案内する。それがレストランやショッピングセンターであることは少ない。たいてい、白衣の天使がたくさんいる場所を指定される。そこで「リガクリョーホーシ」の若い男と遊べる、と楽しそうな人もいれば、ベッドで寝ながらテレビを見ている、という人もいる。

私は、ベッドまでは立ち入らない。近くでランチをしたり、カフェで本を読みながら、用事が終わるのを待っている。

 帰りの車中、彼女のおしゃべりを聞きながら夕暮れの街を走る。私は無神経なので、遠慮なく歳を尋ねる。先日の人は、大正生まれだった。クラブの方針なのか、顧客は熟年女性、障碍者が多い。

 この世代の日本女性は、男尊女卑の中で生きてきた。今は亡き夫が亭主関白だったりもする。だから、私の世代がごく普通に接するだけで、とても喜んでくれる。悪くない役柄だ。

 別れ際、規定の料金をもらう。これもクラブの方針で、ガソリン代程度しか受け取らないことになっている。几帳面に八つに折った千円札が入った薬局の袋を手渡される。たまに、手作りの梅ジャムやキュウリの漬物をもらうこともある。

 その千円も払えず、「次の年金支給日まで待って」と言う人は週3回、人工透析に通っている。金があろうがなかろうが、迎えに行かないと命に関わる。

 全盲の73歳が手さぐりで、白血病の81歳が杖にすがり、車いすの90歳が四つん這いで、独り暮らしのアパートに入っていく。その後ろ姿は、後光が差して見える。

たまに、女性に同居家族がいる場合、見つかってしまうことがある。逃げるように車を発進させたバックミラーに、深々と頭を下げる家族の姿が写る。

同僚ホストの話では、我々はこの仕事で、現世で徳を積んでいることになる、という。だから来世で生まれ変わる時、虫に生まれるよりは人間に生まれる確率が高まるのだそうだ。

 悪くない。

肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...