2015年4月26日

アカデミー賞受賞記者


2008年2月のパキスタン議会選取材。文字通り実弾が飛び交った選挙戦も終わり、いよいよ明日が投票という時の話。

アジア総局長以下、応援記者でにぎわうイスラマバード支局に突然、地元テレビから出演依頼が舞い込んだ。選挙特番で、各党代表や大学教授を招いて討論会をする。外国記者を代表して、意見を述べて欲しいということだった。

総局長はじめ、パキスタン通を自認するS記者まで逃げ腰となる。取材でその場にいなかったH記者に、大役が押しつけられた。

「なんでおれなんだよー」心底、困った顔をするHさん。

自称「横文字に弱い外国特派員」のHさんは元モスクワ特派員で、ロシア語には堪能だ。その他の言語は、大学時代にファッション誌モデルとして鳴らしたルックスと、演劇部で鍛えた演技力で不足をカバーする。海外でレストランに入ると、いつもウェイトレスにジョークを飛ばす気さくな人だ。

翌朝、住所を頼りに向かった「テレビ局」は、民家の屋根にパラボラアンテナが載っただけの建物だった。控室に通され、さすがに緊張の色を隠せないHさん。スタジオでは、すでに収録が始まっている。CMの間に、いよいよ討論の席に案内される。

隣には英BBCの名物記者、バーバラ女史。昨夜もゴールデンタイムのニュースで、大統領府を背景に生中継していた。

CMが終わり、番組が再開される。

司会「それではミスターH、今の教授の発言をどう捉えましたか?」

Well・・・」

出し抜けに、英語で滔々と解説を始めるHさん。聞き取りに努めたものの、私は途中で論旨を見失ってしまった。

司会の女性や大学教授に一瞬、「?」という表情がよぎったように見えたのは、単なる私の思い過ごしだろう。特に反論もなく、討論が続いた。

いつしか白熱し、参加者の言葉が交錯する。すると突然、会話が英語からパキスタンの公用語、ウルドゥ語に切り替わった。

バーバラ女史はすでに退席し、周囲はみなパキスタン人になっていた。Hさんを仲間はずれにして、延々と続くウルドゥ語での議論。

一言も理解できないはずなのに、Hさんはいちいち、深くうなずいている

スタジオの隅で、笑いをかみ殺す私。

突然、誰かの発言を受け、会場が笑い声に包まれた。

すると、コンマ5秒遅れて、Hさん負けじと大爆笑!

何もそこまでやらなくても・・・

本当にサービス精神旺盛な人なのだ。

時は流れ、私は関東平野の端で失業者となり、同期入社の彼は東北で支局長をしている。

 

2015年4月23日

報道写真のレジェンド


報道写真家ジェームズ・ナクトウェイ。

チェチェンにルワンダ、ボスニアやコソボ、アフガンそしてイラク。この数十年に世界で起こった紛争の、ほとんどの現場を踏んだ戦場カメラマンだ。

バンコクで偶然、この人に出会ったことがある。

タイ反政府デモたけなわの2007年。同僚記者から「お坊さん3万人が王宮前に集まって、混乱の平和的解決を祈念するらしいですよ」との情報を得て、現場に向かった。

見覚えのある白人カメラマンがいる。白髪交じりの引き締まった長身にストイックな雰囲気。キャノンのカメラ1台に50ミリレンズをつけ、あとはウエストバッグだけという身軽な格好。すぐにあのナクトウェイだとわかった。

僧侶の正面にしゃがみ込み、至近距離からレンズを向けている。日が暮れていく中、ストロボを使わず自然光だけでの撮影。暗闇にシャッター音が連続する。

大御所と同じ現場に立てて、私の気分はすっかり一ファン。仕事そっちのけで、背後霊のようについて歩いてしまった。

そしてその4年後。

当時働いていた福岡のオフィスに顔を出すと、ちょうどテレビに「東北で震度7」のテロップが流れた。ほどなく、真っ黒い海水が、家や車を次々に飲み込んでいく映像が目に飛び込んできた。
呆然とテレビを見ている私に、「すぐ準備をして、現場に飛んでくれ」。上司と目が合った。

 それまでに私は、スマトラ沖地震と一連の余震、パキスタン北部地震、中国・四川省大地震など、数万人が犠牲になった現場を取材していた。ブット・パキスタン元首相の暗殺や、アフガニスタンの自爆テロにも急行した。

がれき。遺体。ヘリコプターの爆音。死臭。

そんな光景が脳裏をよぎる。ましてや今度の被災者は、かつて住んでいた東北の人々だ。

とっさに「ぼくが行くより、もっと若いカメラマンを出すべきです」と答えていた。

日本で働く報道カメラマンにとって、間違いなく一生に一度の大きな現場なのに、そこから逃げた。

もうこの仕事は続けられない、と悟ったのはこの時だと思う。

ナクトウェイは67歳になる今年も、ベトナム戦争終結40年をテーマに、タイム誌に写真を発表している。そして矢尽き刀折れた私は、すでにカメラも処分してしまった。

同じ報道写真を生業にしても、レジェンドと一ファンとの差は、かくも大きい。

夜のバンコクに着陸

2015年4月19日

オダハラの賢人


 「えっ、銀行預金だけじゃインフレに勝てない? 株も持つべき? じゃあ何かいいカブの本あったら教えて」

カタギの友人に言われる。迷った挙句、

 「敗者のゲーム」チャールズ・エリス 日本経済新聞出版社

 をお勧めした。

 この本は1985年に初版が出て以来、アメリカで累計100万部が売れているカブ本の定番。私も、マルキール著「ウォール街のランダムウォーカー」、シーゲル著「株式投資」とともに愛読している。

このほど第6版が出た。人に勧めた手前、改めて読み返してみた。

 「仕事から引退した投資家が、心の平安を得るために債券を好むとすれば、彼らはその時、経済的利益よりも感情を優先させていることを自覚すべきだ」

 心中を見透かされたようで、ぎくりとした。今年78歳になるエリス先生、相変わらずアグレッシブでうれしくなる。

 「あなたと家族にとってより効率的な意思決定は、おそらく100%株式に向けることだ」

 「ポートフォリオのキャッシュ比率はミニマム、できればゼロでよい」

 「10年以上運用する資産はすべて株式に投資せよ」

 いやいや、実に威勢がいい。こういう楽観主義は大好き。悲観は気分の問題だが、楽観は意志の問題なのだ。

 私は小心者だが、なぜかマーケットの上げ下げには図太い。30代で将来に備えた株式投資を始めてから、円高不況、アジア通貨危機、ITバブル崩壊やサブプライム危機など、何度も暴落を経験したが、夜は熟睡できた。リーマンショックの時は、ポートフォリオの半分が吹き飛んだが、これも一時的と思えた。

根っからの楽天家なのか、ただ鈍感なだけなのか。たぶんシーゲルの本などで、アメリカ式投資教育を受けてしまったからだろう。いつの間にか、資本主義と市場経済の熱烈な信奉者になっていた。

新聞が「100年に一度の大不況」と騒ぎ立てていた2008年当時、哲学者の山折哲夫ひとり「これはただの景気循環」と喝破し、とても勇気づけられた。日本にも達観している人はいたのだ。

新聞記者はインサイダーの立場になりうるので、会社から株の売買を制限されている。私は、「売買」はいけないが、「買買」つまり、買ったら死ぬまで持ち続ければ問題ないだろうと解釈。投資信託のほかに、あのバフェット率いるバークシャー・ハザウェイ株を買い、永久保有銘柄にしている。

いつか「オマハの賢人」ならぬ「オダハラの賢人」と呼ばれたい。

 件の友人は、「勧められて読んではみたけど、やっぱりわからないや」と。そう言える人は、私ほど会社人生に行き詰っていないのだと思う。
バンコクの夕景

2015年4月16日

ジコー栓塞


 まだ会社にいた頃の話。

転勤先から戻ってみると、常に怒号で部下を服従させる、強面のボスが待っていた。

 部長席から睨みを効かせ、「職場で笑うな」と言って、我々から会話と笑いを奪った。社員が犯した小さなミスも見逃さない。閲覧用の新聞が足りないだけでも大声を出した。

  私には、まるでパワハラが服を着て歩いているように見えた。

社員は上司を選べないが、2~3年も我慢すれば、たいていは異動でいなくなる。その間できるだけ外の取材に出て、会社から離れてしまえば難を逃れられる。

ところが最悪なことに、戻った私に用意されていたのは中間管理職のポストだった。それは、いつもピリピリしている彼の、半径2メートル以内に座らなければならないことを意味した。

これを地獄と言わずして何と言おうか。

緊張で胸の動悸が収まらないようになり、生まれて初めて心療内科を訪ねた。

担当医は、まともに人の目を見て話せない内向的な人だった。自らの悩みが精神科医への道を歩ませたのだろうが、これではどちらが患者かわからない。おまけに診察前の問診票で「快食・快眠・快便」に全部マルをつけ、運動欄に毎朝走っていることを書いたのが裏目に出た。ろくに悩みを聞いてもらえなかった。

それでも私の望み通り、精神安定剤をたっぷり処方してくれた。会社に着くとまずヤクをやる。定量では動悸が収まらず、いつも2倍量を飲んだ。

やっと心臓は収まるのだが、今度は副作用の眠気が襲ってくる。意識もうろうとしてくる。仕事で次々とやってくる案件を、大事なものもそうでないものも、全部ひっくるめて右から左に流した。

彼の私に対する評価は、地に堕ちた。

やがて、耐性ができてしまったのか、クスリが効かなくなる。すると今度は、片耳が聞こえなくなった。満身創痍で耳鼻咽喉科の門を叩く。

ひとしきり耳の奥をいじっていた初老の医師が、おもむろに

「これはジコーセンソクです」

と宣告。いやな予感がした。

「・・・それは、どういう字を書くのでしょうか」

「耳、垢、栓、塞、ですな」

もっともらしい病名がついているのは、患者の羞恥心を和らげるためか。要するに、怒鳴り声が聞こえる方の耳が、耳垢を大量に繁殖させて私を守ってくれたのだ。人体の不思議だ。耳に溶液を投入し、翌朝には完治した。

そして数か月後、ボスが異動で去り、かろうじて窮地を脱することができた。
カンボジア・プノンペンで

2015年4月12日

Stay Hungry, Stay Foolish


 アップル創業者スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学で行ったスピーチ。これまで youtube で800万回以上、繰り返し再生されている。

 そのうちの100回ぐらいは私だ。

 当時、ジョブズは50歳。ガンで一度は余命宣告を受けながら、手術で奇跡的に回復した時期だ。クビになった会社に経営者として復帰、私生活では結婚もして、この頃が人生の絶頂だったと思われる。ガンの再発で6年後に死ぬ運命にあることは、本人を含めて会場の誰も知らない。

 私はマック党ではなく、アップル製品は旧型 ipod しか持っていない。ジョブズが人間的に相当嫌な奴だった、という評判も聞いている。それでも、この15分間のスピーチには、私にとっては宝物のような言葉がいくつもちりばめられている。会社を辞めることを迷っていた時、夜中にひとりで何度も聞いた。

それまで報道の現場で働いてきた身に、中間管理職への昇進は、同僚の言葉を借りれば「まるで別の会社で働いてるみたい」なものだった。ひたすら社内にこもっての調整業務。仕事を覚えていくうちに、権限はないのに、責任ばかり問われることがわかってくる。誰かの役に立っている実感は全く得られず、自分が給料泥棒にしか思えなくなった。

それに、自分自身も成長している気がした現場での日々と違い、このまま中間管理職を続けて行けば、どんどんこの会社でしか通用しない人間になる、という焦りが募った。


プノンペンで
何度か上司にお願いした結果、降格同然ではあるが、管理業務を外れ、現場でも働けるポジションに替えてもらえた。ところが今度は、現場にも新鮮味を感じられず、ひたすら惰性で仕事をこなしている自分がいた。予想外のことだった。

今後10年15年、高給取ってモチベーションに欠けた働き方をすれば、若い人が迷惑する。この辺で何かを変えなければ、と強く思った。

 「毎朝、鏡の自分に問いかける。もし今日が人生最後の日だったら、これからやろうとしていることは、本当に自分がやりたいことだろうか」

 こうして自己流に和訳してみると、ジョブズの言葉は青臭く、ナルシスティックだ。それでも同じ50歳に差し掛かり、人生の残り時間を数えはじめた人間にとって、一度は死を覚悟したこの人の言葉は身に染みた。背中を押された。

スピーチの合間に映し出される聴衆スタンフォード大生の、なんとも能天気な表情。本気で拍手しているようには見えない。豚に真珠・・・私こそ、最前列で聴きたかった。

彼の締めくくりのひと言、

Stay hungry, stay foolish

これからも肝に銘じたい。


2015年4月9日

迷える子羊


 同世代の友人から、資産運用の相談を受けることがある。

 彼らも人生の折り返し点をすぎ、早めの退職を選んだ私のマネープランに興味を持つようだ。

 自分のお金は自己責任で自由に動かせるが、人のお金となると何もアドバイスできないことに気付く。子供の年齢、住宅ローンの有無、何歳まで働くつもりか、などの条件でかなり変わるので、無責任なことは言えない。

 2009年、私の会社でも確定拠出型年金(DC)が導入され、年金運用の一部が会社から個人に移された。外部の講師を招いた形ばかりの投資教育が行われたが、当時の同僚の多くは、さてどうしたものかと戸惑っていた。

 私は、年金の大部分は引き続き会社が手堅く運用すること、DCの非課税メリットを生かすには最大限リスクを取るべきだと考え、全額を日本株と外国株のインデックスファンドに拠出した。疑うことを知らない純真な同僚が何人か、私の胡散臭い説に従った。

 リーマンショック後の世界的な株高と、異次元緩和による円安にタイミングが重なり、DCは5年で2倍以上に増えた。純真な同僚たちにも、喜んでもらえたはずだ。

これだけ短期間に増えたのは、単に運が良かっただけ。もしリーマンショックを挟んだ時期だったら、投資額は半減し、私は袋叩きにあっていただろう。

昨年から制度が始まったNISA。3人の子を持つ後輩が、自分で勉強してネット証券に口座を作り、国内外の株や債券に分散投資するファンドを買った。100万円をいっぺんに投資してしまったので、素人の蛮勇とばかり思っていた。ところが1年が終わってみると、ちょうどその日が株の大底。ビギナーズラック気味とはいえ、恐れ入った。

私も、分散投資と称してフロンティア株と新興国REITファンドを買った。中身はクウェートの銀行やナイジェリアのビール会社、ケニアのネット企業に南アフリカとメキシコ、マレーシアの不動産、などなど。毒を持って毒を制する戦法。

その結果、アベノミクスで湧く周囲を尻目に?なんと損を出してしまった。どうも分散する方向を間違えたようだ。

なに、持ち続ければ、10年後には3倍になるでしょう。何の根拠もない負け惜しみだけれど。

日本人は「お金の話をするのは卑しい」と考える。私も、人とお金の話をするとき、なんとなく居心地の悪さを感じる。

それでも、「お金は汚い」とまでは考えなくてもいい。誰だって、今より少し広い家に住み、もっとおいしいものを食べたり、旅行に行ったりしたいはず。

本音を隠して仏頂面をする日本人と、マネー大好き!で単純にお金持ちを尊敬するアメリカ人。どちらにお金が集まるかといえば、やはり後者なのだろう。
カンボジア・シエムレアプで

2015年4月5日

奴隷の自由


タイ人の時間に対する感覚は、日本人とは違う。よく言えばおおらか。「約束の5分前には準備万端整えて待っている」タイプの人から見れば、カルチャーショックかも知れない。

タイで発行されている日本語フリーペーパーに、こんな話が出ていた。

ある職場での会話。

日本人「タイ人って、時間にルーズなところがあるよね」

タイ人「日本人だって時間にルーズだよ」

日本人「えっ、日本人は時間に正確でしょ」

タイ人「いいや。日本人は始業時間は守るけど、終業時間はぜんぜん守らない」

日本人「・・・・」


この指摘は、まったく正しい。他のまともな会社は知らないが、私がいた職場は、その意味でとても時間にルーズだった。

新聞社は、24時間眠らないことを自慢にしている。それでも東京本社では、数十人のカメラマンがシフトを組み、早出、日勤、遅出、宿直などに分かれて働いたので、始業時間と終業時間はいちおう決まっていた。

ひとたび大事件が起こると、すぐ総動員体制となり、休みの人間も駆り出される。どの程度の事件を「大事件」というかはあいまいで、自発的に出勤することが暗黙の了解になっていた。

昔はポケットベル、今はケータイやスマホで管理されている。休みの日でも、常に会社からの呼び出しを覚悟しなければならない。

もっとすごいのは、終業時間が過ぎても、デスクの許可がないと帰れなかったことだ。存在感の薄い同僚はデスクに忘れられ、夜中になって「あれ、まだいたの?」と言われていた。タイ人もびっくりだ。

私の世代は「マスコミは忙しいのが当たり前」という洗脳が効いていたが、若い人たちはどうだろう。これでは優秀な人材を他業種に取られないだろうか。

我ながらよく奴隷扱いに耐えたと思うが、それにはワケがある。ひとたび地方や海外に出てしまえば、こんなにいい会社はないのだ。

現地の上司には「私の監督権限は東京にある」と思わせ、いっぽうで東京には「現地の指示で動きます」と言っていれば、ほぼ行動の自由が確保された。「3人の主人を持つ奴隷は自由人である」という古代ローマの格言があるが、自由人になるには主人2人で十分だった。4回の転勤で、自由を満喫した。

タイ人の名誉のために言うと、私のバンコク時代、タイ人スタッフは全員、私が出社する頃にはとっくに机に向かっていた。

2人の主人を持つ奴隷だった私が何時に出勤していたか?

それは言えない。
バンコク市内で

2015年4月1日

日本の破たんに備える


 在職中からお世話になっている、ファイナンシャルアドバイザーのMさんに会った。

 待ち合わせたのは、JR駅ナカの和風カフェ。我々以外はすべて女性、という環境の中、おっさん2人で白玉フルーツぜんざいをつついた。

 シチュエーションはともかく、話の中身は深刻だ。Mさんによると、2月の経済財政諮問会議で、日銀の黒田総裁が日本国債のリスクに触れたという。これまで安全資産とされてきた日本国債も、このまま財政赤字が膨らめば、持っていることがリスクになりうる、という趣旨の発言をし、オフレコ扱いになって議事録から削除されたという。大手メディアもちゃんと取り上げて下さい、とMさんに言われて困った。もう縁を切りました。

 また、金融業界では出所不明の「ネバダ・レポート」というのが出回っているという。日本が財政破たんしてIMFの管理下に入った場合をシミュレーションしていて、日本国債がデフォルトすれば、当然国民年金は凍結。銀行預金も差し押さえになるらしい。

GDPの3倍に膨れ上がり、今なお増え続ける国の借金。日銀総裁自ら警告しているのに、見て見ぬふりはできない。

実は、そういうこともあろうと思い、国債価格が下がるほど逆に値上がりする仕組みのファンドを買っておいた。万が一、日本がハイパーインフレに見舞われたりしたら、私は大金持ちだ。

戦後70年の記念すべき年に、我ながら「非国民」なことをしている。私にとっては、いざとなれば自分と家族の方が国より大切なのである。

 もしあの戦争の時、日米の圧倒的な国力の差をふつうの日本人が知っていたら、ひたすら破滅への道を進んでいくようなことはなかったかも知れない。情報が限られていた当時と違い、今はインターネットもある。大手メディアに頼らずいろいろな情報を集め、自分の頭で考えていきたい。


バンコクで
 Mさんは外資系金融機関を渡り歩き、今は独立してファイナンシャルプランナー(FP)として活躍している。私が通っているハローワークにも、失業者の職業訓練として無料のFP養成講座がある。私も受けてみようかな、というと、「それよりビル管理がいいですよ」とMさん。ビル管理の資格を持ち、英語ができれば、各国大使館からひっぱりだこだそうだ。

「ビル管理」と「英語」。これからのキャリア形成は、合わせ技が有効なのだろう。

 しかも、東南アジア某国の大使館でビル管理をしているMさんの友人はヒマそうだという。楽してお金がもらえるなら、私も国の税金で、ビル管理者養成講座を受けようか。

 ますます非国民だ。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...