2015年2月26日

ラオスの山奥より


 バンコク都心の高層ビル群を窓いっぱいに見渡せる30階の部屋を出発し、2日がかりでラオスの山奥にやってきた。

 まずバンコクからビエンチャンに飛ぶ。のどかなビエンチャンの街は、とても一国の首都と思えない。夜になると表通りの車の往来がぱたりと絶え、道を隔てた酒場から歌声、話し声がホテルの部屋まで聞こえてくる。

翌日は国内線で古都ルアンプラバンに向かい、さらに車で北上する。空港からいきなり砂利道になり、昼過ぎに、メコン川の支流を見下ろすコテージに着いた。

隣室から、英語交じりのにぎやかな話し声が聞こえてくる。シンガポール人とも香港人とも様子が違う。宿のマネージャーに聞くと、若いマレーシア人のグループだという。

しばらくして彼らがチェックアウトすると、とたんに静かになった。日が暮れ、聞こえてくるのはかすかな川のせせらぎと、名も知れぬ鳥や小動物、虫たちの鳴き声のみ。対岸の闇に目を凝らしてみても、人工的な明かりはどこにも見えない。車やバイクの音も届いてこない。

夜が明けると一帯は濃い霧に包まれ、何もかもが真っ白。2月も下旬になり、バンコクでは最低気温が25度を超えてきたが、ここの朝は吐く息が白くなる。バルコニーから外を眺めていると、やがて霧が晴れ、少しずつ川面が姿を現してきた。どちらが上流かもわからない、ゆったりとした流れは大陸の川ならではだ。

 出発の日にバンコクの空港で、ウォールストリートジャーナルとニューヨークタイムス、バンコクポストを仕入れてきた。移動続きで、読まずに持ってきてしまった。ここでは世界の動きなどはるか遠くの出来事に思えて、全く読む気にならない。ジェットエンジンの響きと搭乗アナウンスを効果音に、足早に行きかうビジネスパーソンを背景にして空港で読むべきだった。

 この人里離れた環境で、もし「いつまでいてもいい」ことになったら、どのくらいいられるだろうか。以前の私だったら、紛争地や被災地の取材、またはヒマラヤ登山の直後、気力と体力の限界まで使い果たした状態でこういう所に来る。そして疲れが取れ、自然に出発したい気持ちになるまで過ごす。なぜか、最初からエネルギーに満ち溢れていてはいけない気がする。

今までは短い休暇の中で数泊するのが関の山だったろう。晴れてそういう制約がなくなったが、会社を辞めてみると、今度は日本で確定申告をする必要が出てきた。3月の締め切り日が迫っている。

今回も、数泊して都会に戻ることになった。

 実際に来てみて、ここで食べられるのがラオス料理ばかりだという現実的な問題にも出会った。おいしいけれど、飽きる。

 結局、いつまでたっても腰が落ち着かないことになりそうだ。


2015年2月22日

バンコクでマネーロンダリング???


 成田空港を発って3か月め。円や米ドルなど、持参の現金がついに底をつき、先日はクレジットカードでキャッシングをした。

街角のATMを使えば簡単だが、180バーツも手数料がかかる。ところが、銀行の窓口に行けばタダなのを発見。なぜか、機械より人を使う方が安上がりなのだ。日本と逆だ。

近所の銀行2行に断られ、3行目のTMBでやっと成功する。「キャッシュ・アドバンス、2万バーツ」と言ってクレジットカードとパスポートを差し出すと、5分ほどで窓口の奥から2万バーツが手渡しで出てきた。ちょっと不思議な気分。手間はかかったが、屋台のカオパット(チャーハン)4皿分、得をした。

キャッシングをすると、為替手数料のほかに年率18%もの金利を払わなければならない。一番有利なのは、やはり現金の両替だ。銀行より「スーパーリッチ」など私設両替商の方が、断然レートがいい。

シーロム通りの「スーパーリッチ」で米ドルを替えたとき。100ドル紙幣5枚を何度も確認していた係りの男性が、いきなり顔を上げ、私の顔を無言で見つめた。偽札くさいのかもしれないが、バーツに替えてくれないと私も困る。懸命に「信頼に足る人物」らしき顔を作った。両替も真剣勝負だ。

 先日バンコクに来た友人(職業不明)が、ロシア・ルーブルとパキスタン・ルピーを持ち込んだ。国内ではどこも両替してもらえなかったという。

こちらの銀行に差し出すと、ルーブルは即答でOK。ダメもとだったパキスタン・ルピーも、店頭にない内部のレート表に基づいて両替してくれた。

銀行も慈善事業ではないので、明日暴落するかも知れない通貨は受け取らないと思う。パキスタンという国を独自に調べ、一定の信頼度と将来性を見込んでいるに違いない。邦銀にないフロンティア精神を感じる。


 以前は日本円の需要が高かったようで、バンコクの銀行や私設両替所の一番目立つところにレートが表示されていた。それが今では、人民元やインド・ルピー、ロシア・ルーブルやUAEディルハムなど成長著しい新興国通貨に押しやられ、日本円はひと目では見つけられないことがある。

 私が最後の頼みにしているのはシティバンクのキャッシュカード。外国に行くときや暮らすとき、シティバンクは本当に便利だ。世界中のATMから現地通貨を引き出せるほか、海外送金も手数料が安くて確実。残高が足りない客には毎月千円も口座維持手数料を取るえげつなさと引き換えに、国外でありがたみを発揮する銀行だった。

ところが、バンコクの街中でもよく見かけるシティバンク、日本からは年内に撤退してしまう。日本の将来を見限ったか。財布のシティバンクカードは、使えなくなるのだろうか。

タイ・バーツに対する円の下落にも、日々直面している。経済力に関する限り、日本はどんどん「並みの国」になっている。

2015年2月18日

お坊さん優先席




電車内でこのマークを見つけ、10年前のある情景を思い出した。


2005年暮れ、空路プーケットに向かった時のこと。バンコク空港の搭乗待合室には、オレンジ色の袈裟をまとった僧侶の団体さんがいた。インド洋大津波1年の追悼式典に向かうようだ。


お坊さんの集団など日本では見かけないが、僧侶人口4万人とも言われるタイでは時々目にする。1~2週間だけ僧侶になるプチ出家の制度もあり、それも含めるとタイ人男子100人に2人はお坊さんだ。キョロキョロと美人を気にする俗気丸出しの僧侶もいた。


搭乗アナウンスで機内に入ると、優先搭乗していたお坊さんたちが、きれいに縦一列になって窓側の席を占めていた。その隣に座っているのは普通の乗客だが、全員が男性。女性やカップル、家族連れは真ん中の4列シートに集められている。不思議な光景だ。


自分の席を探すと、私もお坊さんの隣の「一般人、ただしオトコ」の列だった。


離陸してほどなく機内サービスが始まった。若いキャビンアテンダントの女性が、お菓子とジュースをくれる。

サンキュー。

続けて、お菓子とジュースをもう一組くれる。

ノーサンキュー。

すると、女性が困った顔をしている。

ここで鈍い私も気がついた。タイでは、女性が僧侶に触れることは最大のタブー。わざとでなくても、さわってしまったが最後、せっかく積んできた長年の修行が一瞬でパーになってしまう。

我々「一般人ただしオトコ」組は、お坊さんとキャビンアテンダント間のバリケードにされていたわけだ。

不明を恥じながら隣席にお菓子をリレーする。昼からは食事をしてはいけない戒律もあるようだが、朝便だったのでそのお坊さんはおいしそうに食べていた。

現在バンコク市内を走る高架鉄道BTSには、いわゆるシルバーシートのほかに、お坊さん優先席がある。これも、僧侶に席を譲るとともに、女性はその隣に座らないように、という両方の意味を込めているはずだ。

昨日はその席に尼さんが座っていた。

この場合は・・・?

少し混乱した。



2015年2月15日

ピンチ脱出


 切羽詰まった事情で、入国管理局(イミグレ)に出頭した。

 タクシーでドムアン空港近くのイミグレに向かう。首都高では4回も料金を取られ、おまけに渋滞で1時間以上かかる。政府庁舎の広大な敷地内に入ってから、イミグレのある一角にたどり着くまでもひと苦労。書類に記入し、順番待ちの番号をもらって待合室に入ると、すでにたくさんの人が席を埋めている。

日本人はノービザで30日間、タイにいられる。最初の滞在がひと月になったときは隣国カンボジアに出て、また戻ってきた。2度目のタイ滞在もはや一か月。今回はイミグレで延長手続きをすることにした。万一認められないと、来週からは不法滞在者になってしまう。

 制度はひんぱんに変更され、ノービザで30日の滞在延長が認められるようになったのはつい最近だ。もしかしたらまた変わっているかも知れず、不安だ。

小部屋に通され、パスポートとコピー、顔写真を揃えて入管職員の女性に提出する。「顔写真が若すぎる、もっと最近のものを」と、正しい指摘をされて差し替える。手数料1900バーツを払うと、「名前を呼ぶまで近くで待っていて下さい」と言われる。なんとか不法滞在という最悪の事態は免れたようだ。

でもここからが長かった。申請はどんどん受理するが、パスポートの返却は遅々として進んでいない。正午になると昼食休憩に入り、すべての業務がストップする。1日仕事になるのを覚悟した。

暇つぶしがてら見ていると、イミグレで働いている職員は女性が多い。書類をめくる手は止めないが、同僚と楽しげに話しながらのゆったりした仕事ぶり。人を待たせている件については、あまり考えないようだ。少し急いで、とお願いしたくなるが仕方ない。競争原理のないお役所仕事なんて、どこの国でも似たようなものだ。職場に笑顔があるのがうらやましい。赤いベストを着た若い訓練生だけが、忙しそうに机の間を飛び回っている。

1時間以上待って、ようやく自分の名前が呼ばれる。無事にタイ出国期限が延長されたパスポートを手にすることができた。

地元紙によると去年は、タイを訪れる日本人と、日本を訪れるタイ人の数が拮抗したという。タイ航空に勤める知人の話でも、最近は日本人よりタイ人乗客が多いフライトがあるという。以前は考えられなかったことだ。日本が2年前、タイ人へのビザを観光に限って免除して以来、状況が一変した。

それまで長い間、タイ人の来日にはビザが必須で、しかも日本人の保証人まで必要だった。不法就労が問題化した時期があったとはいえ、日本もひどい差別をしていたものだ。私のタイ赴任が決まった10年前、在京タイ大使館が渡航前日までビザを発給してくれず、冷や汗をかいた。これはタイ人にビザを出さない日本への報復の意味もあったらしい。

将来、日タイの経済力が逆転し、今度は私が不法就労を疑われる日が来るかもしれない。

2015年2月11日

ブタが大好き


 タイ語学校に行き始めた。

 BTSでふた駅の通学。なにしろ1日24時間が自由時間なので、用事が出来るとなんだか真人間に戻った気になる。

 2畳ほどの個室で、清楚な女の先生に個人レッスンを受けている。タイ語は発音が難しく、先生に苦笑されながら2時間もがき苦しむ。 

以前タイ人に、「あなたはタイ語がうまい」と言われた。ところが、バンコクに住んだことがあるとわかった途端に、彼の態度が一変。3年もいてそれしか話せないのか、という憐みの視線が痛いほど突き刺さった。以来、過去は決して明かさず、一介の旅行者を装い続けている。

欧米人には、何年滞在しようが決して現地の言葉を覚えようとせず、英語一本で押し通す人も多い。それと比べれば、意欲だけでも買って欲しいと思う。

これでもバンコク駐在時代、赴任してしばらくはタイ語学校に通った。暑い日の午後、そっと会社を抜け出して、さまざまな年齢の外国人と一緒に教壇を囲んだ。

とてもユニークな授業で、先生がペアになって交わすタイ語会話を、生徒はただ聞くだけ。

「赤ん坊は、周囲の大人たちの言葉を聞いて、ある日突然話せるようになる。それが語学習得の自然な摂理」
 と入学案内にある。初めの800時間を受講するまで、生徒は決してタイ語を口にしてはいけない。毎日2時間としても3年かかる。一言もタイ語を話さないうちに、帰任の日が来てしまいそうだった。

ある日、小林克也に似た50代の先生が、「チョープ」(好き)という言葉をテーマに話をしてくれた。

彼はタイ東北地方の出身。実家近くでブタ70頭を飼っていて、生まれた時からブタ小屋のにおいの中でご飯を食べていたという。

先生が5歳の時、そのブタ小屋が撤去されてしまった。とたんに彼はご飯を受け付けなくなり、みるみるやせ細っていった。

困り果てた父親は一計を案じ、茶碗に盛ったご飯を手にした彼をバイクに乗せて、10キロ離れた別のブタ小屋に連れて行った。ブタの体臭と糞尿が混じった懐かしいにおいを嗅いだとたん、先生の食欲が復活。そばにしゃがみこんで、もりもりとご飯を食べ始めたそうな。

食事のたびに父親のバイクでブタ小屋に通う日々は、彼が10歳になるまで続いたという。

授業が終わると、教室中に大きな拍手がわき起こった。

その後、出張が続いて授業から足が遠のいた。「チョープ」以外のタイ語は何も覚えていない。その学校も、いつの間にか建物ごとなくなってしまった。
 
 
白いワンピースを着た今の先生の大好物は、「ココイチのブタしゃぶカレー」だそうだ。そんなメニュー、あったっけ。



2015年2月8日

ユートピア


 バンコク東部の新興住宅街オンヌットに引っ越してきた。専有面積200~300㎡もある豪華マンションが目立つトンロー以西のスクムビットと違って、この辺はワンルームや1LDKといった間取りの、主にタイの若夫婦向けコンドミニアムが次々に建てられている。BTS駅直結の巨大スーパーはリラックスした服装のタイ人でにぎわい、これまでより一段とローカル色が強い。

私たちが借りた7階の部屋からは、正面に高速道路が見える。夜、流れる車の赤いテールランプが美しい都会的な眺めだが、明け方、周辺で飼っているニワトリのけたたましい鳴き声で起こされた。ここは建物が何棟もある大きなコンドミニアムで、一部が日割り家賃で貸し出されている。トイレのドアが閉まらなくて修理を頼んだり、シャワーの温水が出にくかったりと、やや安普請のよう。こういった点は、実際に泊まってみないと外からではわからない。

日本を発ってからこの部屋で11か所め。バンコク市内だけでも6か所を転々としている。将来、住まいを一か所に定めて数か月単位で暮らすことを考えて、今回は候補地の住み心地を確認しながら回っている。今までのところ、バンコク中心部から少し離れた、静かな環境にあるタウンハウスが好みだが、自然豊かなチェンマイもいい。一方でこの辺も比較的家賃が安く、予算的に好ましい。どこも一長一短あり、結論が出るまでもう少しかかりそうだ。

先日、同時期に早期退職した会社の同僚が、バンコクに遊びに来てくれた。ゴーゴーバーが軒を連ねるナナに泊まっていると聞いた妻がひと言「・・・目的が明白」。でも手ごろな宿がナナにあっただけで、私と同様、彼も夜遊びには全く興味がないという。

 昨年夏、私は退職願の書き方がわからず、安直にもグーグル検索でトップに出た書式をコピペして上司に手渡した(一応、敬意を表して肉筆で)。彼もまったく同じことをしたらしく、一字一句違わない2つの退職願を見比べた上司が
「お前ら、グルだろう!」
「いえ、ググっただけです」

 それはともかく、彼は会社員時代も何回かバンコクを訪れているが、その頃は数日で飽きたという。ところが今回バンコクを訪れてみて、早くも次回、次々回のタイ訪問を、それももっと長期でと考え始めている。会社を辞めて環境を変えた彼にとって、タイの空気がこれまでと違って感じられたとしたら面白い。
 それどころか、彼はこの滞在中、毎日タイ料理のガパオ(豚ひき肉バジル炒めごはん)を食べ続け、まったく飽きることがなかったらしい。まあそのうち飽きる日がくるのは私が保証する。
 
 これからも、自由な生き方を好む友人たちと、タイでの時間を共有することができたらいいなと思う。



2015年2月4日

ターボメーター


 そのタクシーが走り始めてすぐ、異変に気がついた。

 スワンナプーム空港を出てものの数分で、早くもメーターが100バーツに届こうとしている。

 これは・・・メーターを改造した悪質タクシーか。

乗り込んだ時に車内がタバコ臭く、メーターを布で見にくくしてあるので、嫌な感じはあった。運転手の人相が悪いのは毎度のことなので、それだけで判断するのは難しい。助手席から様子を伺うが、彼は特に変わった様子もなく、平然としている。

 バンコクのタクシーとは長い付き合いになる。これまで遠回りをされたり、メーターを倒さずに走って、目的地に着いてからとんでもない料金を請求されたり、メーターを覆い隠す布をどかすと初めから回っていたり、すごいスピード狂だったり、とにかく色々あった。居眠りができる日本のタクシーとは全く別物だ。

 そもそも乗る時からして難易度が高い。手を上げて空車を止めるところまでは万国共通だが、助手席のドアを開け、行き先を告げて運転手が首を縦に振るのを待たなければいけない。私の場合、なぜか乗車拒否に会うことが日常茶飯事。近すぎるとか遠すぎるとか、メシの時間だとか子供を迎えに行くとか、運転手にもいろいろ事情があるのだとは思う。でもなぜか、妻が交渉すると一発でOKする。彼女に言わせれば私は「笑顔が足りない」のだそうだ。そんなこと言われても・・・いままでの経験で初めから警戒心があるうえに、繰り返し乗車拒否されると、暑さと焦りでどんどん表情がこわばる。

 以前ベトナムのハノイで乗ったタクシーも、走り始めた途端、メーターがものすごい勢いで回り始めた。その時は、100メートルほど走ったところで赤信号につかまったので、さっさと降りて別のタクシーを探した。だが今回は高速道路上で、しかも後部座席に女性3人を乗せている。乗車中に不正を指摘して、逆切れされたら大変だ。

 難しい局面にぶつかった時ほど、人生を楽しもう、人生を楽しもうと心がけている。この時も、そう心がけようとしたが、無理だった。

1時間後、川沿いのアパートに着いた時のメーターは550バーツ(約2000円)。

普通は200~300バーツのはずだ。大きいミニバン型タクシーだったので、割高なのかも知れないが、それでも2倍はしないだろう。

 以前はケンカしていたが、最近はつい相手の立場を考えてしまう。バンコクのタクシーは、初乗りが100円そこそこ。混沌きわまる路上を30分走っても、メーターは1000円もいかない。いくら何でも安すぎやしないか。会社に車両のレンタル料を払い、ガソリン代を払ったら、彼らの手元にはいくら残るのだろうか。

現地の物価に慣れると550バーツは大金だが、円換算してしまえば、目くじら立てるほどでもない。何も言わずに払った。

2015年2月1日

ミニスカートの美容室


 日本を出てひと月半が過ぎた。

 日に焼け、服もこちらで買ったりしているので、先日はタイ人にタイ語で道を聞かれた。ちょっと嬉しい。

 この際、髪もタイスタイルにしてみようか。

 以前、1000円カットの「QBハウス」がバンコクのBTS駅に進出しているのを見た。こちらでは100バーツ(約370円)という価格設定で、いつか試してみようと思っていたら、今回は見かけない。日本ではインパクトがあったが、こちらでは街角の床屋さんも100バーツ以下なので、競争に負けてしまったのだろうか。

 地元の床屋で万が一、変な頭にされても、もう同僚から笑いものにされたり、業務に支障を来たしたりすることはない。これからは、どんなヘアスタイルにしようが自由の身だ。

 でも結局、日本人の扱いに慣れている理容室をネットで探してしまった。

 店に入ると、スタッフのお化粧が濃いのにたじろぐ。おまけに、理容室にありえないスカートの短さだ。駐在時代に行きつけだった店は、スタッフがそこらの屋台のおばちゃん風だったのに・・・。今回、歓楽街タニヤのど真ん中にある店を選んでしまったのを後悔した。

 この上なく丁寧なシャンプーとヘアカットののち、軽く肩と背中を揉まれて・・・無事解放された。心配は杞憂に終わった。客に無用な緊張を強いるファッションはやめて頂きたい。

私は人に体を触られるのが大の苦手だ。30年来、タイマッサージの誘惑からも逃げ回っている。理容業の方々も、できれば私の首から下は触らないでほしい。

でも日本で受ける歯石除去だけは快楽だ。歯科衛生士は女性が多い。間近に迫る息遣いを通して、彼女たちの並々ならない集中力が、目を閉じていても伝わってくる。しばしば痛みを伴い、口中が血だらけになったりもするが、歯周病が防げて長生きもできる。健保も効く。

タイの理容室では、シャンプー担当の人にチップを忘れずに、とネットにある。全く気付かず、屋台のおばちゃん風スタッフには3年間あげなかった。帰りがけ、真っ赤な口紅のシャンプー担当に40バーツ渡すと、びっくりした顔をされた。ここは日本人が多いので、チップの習慣がないのだろうか。店を出てから悩む。

アパートに戻ってプールで泳ぐ。働きに出ている住人も多いので、平日は閑散としている。今日も貸し切り状態だ。

結局、肩が凝ったわりには、変わり映えのしない頭になって帰ってきた。一度はドレッドヘアにしてみたかったが、もう髪の毛が足りない。

プールに浮かんで空を見ながら考えた。自由ってなんだろう。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...