2023年2月18日

生と死が隣り合う場所

 通りがかりに機械浴室をのぞくと、女性患者に服を着せようと、ナースのNさんが格闘している。

 手伝いましょう、と浴室に入り、患者さんの体を支えた。

緩和ケア病棟は最近、重篤な患者が多い。一般病棟から移って来たばかりで、まだ名前も知らないこの人も、青白い顔で横たわり、微動だにしない。

鼻先に、そっと手を近づけてみた。

呼吸が…

止まってる?

Nさん…」

 慌てて目配せをしたら、彼女はいつも通りの静かな声で、

「エンジェルケアです」

 

亡くなった患者さんの湯灌(ゆかん)は、エンジェルケアとも呼ばれる。お風呂に入れて体を洗うまでの手順は、ふだんの入浴介助と変わらない。

途中で浴室に入ったから、まったく気づかなかった。

 

この緩和ケア病棟では毎月、何らかの行事が行われる。12月にクリスマス、1月は節分、そして2月のその日はバレンタイン。

栄養科の厨房で豪華なロールケーキを作ってもらい、各病室に配って回る。

あいにく、というか、ちょうどそのタイミングで、患者さんが2人続けて息を引き取った。

この病棟では、救命措置を行わない。医師や看護師が大慌てで走り回る姿もなければ、心電図の電子音や警報音も聞こえてこない。

誰かが亡くなったことに、廊下にいても気づかないぐらい。

静かそのもの。

まるで予定調和のようだ。

それでも、家族への連絡、死亡診断書ほか各種書類の作成、エンジェルケアなど一連の仕事に、ナースたちはかかりきりになる。

いつも行事の日は、日勤の看護師が総出で病室を練り歩き、患者さんを真ん中に集合写真を撮るのだが…

今日のナースステーションは、もぬけの殻。

若い看護師Hさんとふたりで、寂しくロールケーキを配って回った。

 

食事がとれる容体の患者さんは、口の周りに生クリームをくっつけて、一心にケーキをほおばっている。

 壁ひとつ隔てた隣室で起きたことには、誰ひとり気づかずに… 

Matsumoto city museum of art


2023年2月11日

視界良好!

 

 人体改造第2ラウンド、終了!

 手術前、眼科クリニックの女性に

「近視が3分の1になりますよ」

 と明るく言われた時は、意味がわからなかった。

手術の翌日。眼帯が取れてみたら、視界のカスミが消えただけでなく、なんと強度の近視が大幅に改善されていた。

これだったら、小学生の頃から半世紀お世話になったメガネなしで、日常生活が送れる。

隔週で受けた両目の白内障手術は、まさに「人体改造」だった。

 

白内障は、眼の老化現象。50歳で50%、80歳で100%が白内障になるという。現代ニッポンでは、白内障手術は「通過儀礼」だ。

でも、決して世界中がそうではない。医療が整わない途上国、たとえばヒマラヤの小国ネパールでは、依然として失明原因の7割が白内障だという。

日本人に生まれたことに、感謝した。

私は50代で白内障手術を受けたので、後に続く人のために経験をメモっておこう。近視が強い人にとって、早めの手術はメリットが大きい。

・主流は日帰り手術。所要時間は私の場合、右眼2時間20分、左眼1時間45分だった。手術そのものは正味30分。手術室を出るとすぐに会計となり、5分で屋外に放り出された

・手術翌日まで、片眼を眼帯で塞がれる。その間は視界が狭まり、遠近感もつかめない。ゆっくり慎重に歩くのがやっと

・眼科クリニックのスタッフに、手術に家族の付き添いがないことを心配され、その日は近くのホテルに泊まった。病院で手術を受ければ、そのまま入院できるので安心だが、地域の中核病院は「手術は10か月待ち」だった

・保険が適用される「眼内単焦点レンズ」を選び、費用は3割負担で片眼約4万円

・読書など近くを見たいか、景色など遠くが見たいか、家事などその中間かで、レンズの選択を迫られる。山友だちは景色が見える方を選んだが、私は本が読みたいので、焦点距離3050㎝のレンズにして、運転中はメガネを使用

・近くも遠くも見えるという「眼内多焦点レンズ」は保険適用外。費用は片眼につき数十万円~100万円。デメリットもあるらしく、私の主治医は「多焦点レンズを入れた人で、すごく満足という人は少ない。あまり勧めない」

・手術前後の検診では、瞳孔を開く点眼薬を使う。その日は半日、視界がまぶしく、ぼやけるので、運転はできない

・手術後は「抗菌」「抗炎症」「抗生物質配合」計3種類の目薬を、朝昼晩3回差す。数か月の辛抱だが、面倒といえば面倒

・そして手術後3日間は洗顔&洗髪禁止!真夏の手術は避けた方がいいかも

※片眼が白内障になっても、無意識に見える方の眼でカバーしてしまうので、発見が遅れがち。車のヘッドライトが妙に眩しく感じられたら、早めに眼をチェックしよう!

Matsumoto Castle, February 2023


2023年2月4日

性格の悪い人に向く職業は?

 病気で手術を受けることになったら、どんな医者に身を委ねますか?

 性格は最悪だけど、手術の腕前はピカイチと評判のA医師?

 それとも、献身的で温かい人柄だが、手術の腕前は平均的なB医師?

 う~ん、ここは敢えてA医師かなぁと、以前は思っていた。

だがありふれた白内障とはいえ、眼の手術を受けた今は、考えが変わった。

医師を人として信頼できるかどうかは、決定的に重要な要素だと思う。

手術前の丁寧な診察、患者の意思を尊重する態度。手術中、視界を奪われた患者に対する、的確で思いやりのある声掛け。

どれかひとつでも欠けていたら、手術を受ける気にはなれなかった。

 私の信頼する主治医、ハタケヤマ先生が言う。

「白内障手術を5分で終わらせます!みたいなスーパードクター、よくテレビに出てくるでしょう?ああいう医者は、患者との初対面がいきなり手術室で、術後も一切、患者に会わなくて済む人たちなんですよ」

「ぼくら町の開業医は、これからもずっと患者さんとのお付き合いが続くんです。失敗は許されないし、『あの時は痛かった』なんて言われたくないから、麻酔の効き具合ひとつにも、じっくり時間をかけます」

 一方、この世の中には、人格に問題がある方が成功しやすい職業がある。

 イノベーションの世界だ。

電気自動車の普及、再利用可能な宇宙ロケットも実現させたイーロン・マスク。MaciPhoneiPadのスティーブ・ジョブズ。ネット通販で小売りの世界を激変させたジェフ・ベゾス。

 この3人は「自分勝手で周囲のことを考えない」「強迫観念に取り憑かれた自己中心的人物の典型」だそうだ(以下、日経ビジネス電子版より)。

・ジョブズには、出会った人を必要もなく侮辱し、ナイフのように心を傷つけていたというエピソードがいくつもある。その根底には、自分は特別な存在であり、世間のルールや秩序に従う必要がないという確固たる信念があった

・ベゾスはAmazon社内では「ナッター(狂気)」と呼ばれていた。「君は無能なのか?」「そんなアイデアを出すなら首をくくらなきゃいけないな」と、激しい言葉で部下を叱責した

・マスクは、自分を批判したジャーナリストのツイッターアカウントを凍結

・このように、人格者とはほど遠い破天荒な3人。でも厳しい批判や反対を気にせず、自分が正しいと信じる道を突き進むパワーが、驚異的なイノベーションを実現する原動力になっている

・日本では空気を読めない人は排除されがち。しかし他人にどう見られるかを気にせず、好きなことに異常なまでの情熱を持って取り組む人物だからこそ、イノベーションを成功させられる確率も高まる 



2023年1月27日

白内障です。まだ若いけど

 

「ウチの眼科は、腕も性格もイマイチよ」

 少し前から右眼がかすむようになり、勤務先の病院の眼科を受診した。いきなり、まだ若いけど白内障です、と告知された。

「まだ若いけど」は余計じゃね?

緩和ケア病棟に戻り、看護師さんにその話をしたら…

 あの眼科医、やっぱりイマイチだったか!

手術は順番待ちで秋になる、と言われたのを、渡りに船。紹介状を書いてもらい、さっさと町のHクリニックに移った。

クリニックへの最初の電話で、何度も「ありがとうございます」と言われて驚く。放っておいても患者が押し寄せ、「紹介状があれば診てやる」という態度の大病院とは、えらい違いだ。

待ち時間ゼロで、各種機材を使って、3時間かけて眼の状態を調べてもらう。そして、さっそく翌々週の手術が決まった。なんてスピーディな!

手術は日帰りで、所要15分。準備と説明を合わせても、2時間ほどで帰れるらしい。勤め人にはとてもありがたい。

そして当日。手術室に案内されると、4台並んだ手術台におじいちゃんが寝ている。眼科の患者は圧倒的に高齢者が多い。看護師さんが、耳の遠い人に声を張り上げている。確かに、私だけ場違いな若造だ。

両眼を覆われた状態で待っていると、「ハイ終わりです、お疲れさまでした~」という声が聞こえた。さぁ次は自分の番だと身構えていると、今度は隣の人のオペ。まさに「俎板の鯉」で、心臓に悪い。

やがて、わが耳元にも「ハイ終わりです、お疲れさまでした~」の声を聞く。右眼に眼帯をつけて、クリニックを後にした。

外に出てみると、ゆっくり歩くのさえ怖い。今までもずっと、眼が「冬のラーメン屋に入った直後のメガネ」状態だったのに、ぼんやりとでも両眼が見えるのと、片方がまったく塞がれるのとでは、大違い。

「手術当日は、なるべく家族同伴で」と言われた意味が、よくわかった。

 翌日、晴れて眼帯が取れた。HOYAの眼内レンズが装着された右眼は、0.01のド近眼が、0.3に改善されていた。そして、視界に何の曇りもない。

「ありがとうございます!私の手術、ずいぶん時間がかかったようですね」

「いや。18分でしたよ。近眼の方は目玉が大きいので、麻酔を多めに入れて、効くまで待つんです」

私の主治医、ハタケヤマ先生は、少女漫画の主人公みたいに眼が大きい。そして、キラキラ輝いている。

「さすがに眼科の先生は眼がおきれいですね」

「そう?私はミヤサカさんよりひどい近眼なんですよ」

 なるほど、それで眼が大きいのか! 

 誠実なお人柄のハタケヤマ先生は、50がらみの男性医師である。

Karuizawa, Japan


2023年1月21日

マスオさんと波平さん

 

 ヒマラヤの高峰に挑んだ登山家が、頂上直下で悪天候に遭遇した。着の身着のまま、岩陰でビバークを強いられた。

 マイナス30度の寒さと烈風、酷薄な酸素を生き延びて、翌日なんとか仲間が待つキャンプへ。

たったひと晩で、彼の頭は白髪で真っ白になっていたという。

 

 入浴介助が一段落した日の午後、その日の明け方に亡くなったOさん(80歳)の病室を訪ねた。ずっと付き添っていた奥さんが、ベッド脇で所在なさげに座っている。

 声を掛けると、夫の横顔を見つめながら、ふとつぶやいた。

「人って…亡くなってからも歳を取るものなんですね…」

 奥さんの言うとおり、Oさんは、生前とはまるで別人。年の割に黒々としていた頭髪が、ひと晩ですっかり白くなっていた。

 

 遅めの冬休みを取った後で、一週間ぶりに出勤する。お昼になり、各病室にお茶を配って回った。

 ノックしてオサナイさんの部屋に入ると、ツルツルに禿げた、見知らぬ男性の後頭部が目の前に。

「お、お茶ここに置いときますね。まだ熱いですから気をつけて」

 緊張して言いながら、ベッド周りを見渡す。名札は、間違いなくオサナイさんだ。彼が好きなビートルズのCDも、変わらず散乱している。

 この病棟では、患者さんの病状が急変することがままある。でもたった一週間で、「サザエさん」のマスオさんが波平さんに変身!なんてことある?

同姓同名の別人?

 まさか…

 ナースステーションに戻ると、ちょうど担当看護師のフジタさんがいた。

「フジタさん、504号室のオサナイさんって、あんな人でしたっけ?」

 すると彼女、黙って、頭をカパッと外して横に置くしぐさをした。

 目がニコニコ笑っている。

「オサナイさん、最近お疲れ気味で…身なりに構ってる余裕ないんです」

 

 その数日後に、病棟恒例の正月行事。お雑煮とお汁粉をワゴンに乗せて、スタッフ全員で病室を回った。お次は、504号室。

「はいオサナイさん、みんなで写真撮るから、これかぶりましょう!」

「あれ?前後が逆だったか!」

 カメラのファインダーをのぞくと、若い看護師さんにいじられながら、まんざらでもない表情のオサナイさんがいた。

いつものマスオさんに戻って、真ん中に納まった。

※登場人物はすべて実在しますが、一部は仮名です

Funabashi Japan


2023年1月13日

分数ができない人の末路

 

今から40年前、東京の私立大学が、小論文と英語だけで生徒を募集した。

 からきし数学がダメな高校生が、これ幸いと受験し、まんまと合格。

長じてその人物が、よせばいいのに、貧困家庭の子を集めた無料塾の講師を引き受けた。

「先生、分数の割り算を教えて下さい!」「よし、どれどれ…えっ?…ん?」

 数学どころか、算数もお手上げ…

この私だ。

 人間、分数がわからなくても、半世紀は余裕で生きられる。

 人として世の中に役立っているかどうかは別として…


「算数のテストで計算機を使ってもいいのではないか?」

「漢字を鉛筆で書ける必要があるのか? キーボードで打てればいい」

「英語を全員が全員、学ばなくてもいいのではないか?」

これは東大先端研シニアリサーチフェロー、中邑賢龍氏の提言だ。算数のテストに電卓!これは朗報だ(以下、日経ビジネス電子版より)。

・急増する不登校の原因として大きいのは、学習の困難。知能が正常でも「学校の勉強」に困難がある子は散在する

・いじめも不登校の直接の原因ではない。文字が書けない、勉強ができない結果として、いじめが起きている

・鉛筆だと書けなくても、パソコンやスマホを使えば、困難を感じずに文章を書ける子はたくさんいる。鉛筆で書くことにこだわらず、とにかく自分の頭のなかにあるものを文章として外に出す習慣をつけることが大事

・英語圏では読み書き障害が10%ほどいて、日本語圏やスペイン語圏などより高い。英語の読み書きは、それだけ難しいということ。そのために、数学が抜群にできる子がいても、英語が必修だと行きたい高校に行けない

・英語を必修から外し、入試科目から外しやすくすることで、才能のある子がもっと花開いていくはず

・ギフテッド教育の弊害も、もっと知られるべき。わが子はギフテッドだと主張する親の根拠は、たいてい知能検査。でもクイズやパズルをたくさんやって、子どもの「知的反射神経」を鍛えれば、IQは高く出る。

IQ130以上もあって大変なんです」と真面目な顔で相談に来る親に、「安心してください、お母さん。小学校5年生ぐらいになったら普通の子になりますから」と言うと、ものすごく不快な顔をされる

・でも「普通になった自分」に親ががっかりすれば、子どもが傷つく

・とりあえず勉強する、とりあえず学校へ行かなきゃいけない、そういう価値観から抜け出し、好きなことを見つけて、好きなことを思いきりやる。変わった子が、変わったままで生きられるのが一番

・大人は子どもに、変わることを当たり前のように求めるが、子どもではなく制度や社会を変えたほうがいい

My house, 2022-2023 winter


2023年1月6日

心は孫悟空

 

 自分に残された時間が短いとわかった時、人はどんな本を持って緩和ケア病棟に向かうのだろう。

 妻は最初、歌人・穂村弘の軽妙なエッセイ集を持って入院した。

でも途中で、

「やっぱり人生最後の読書が穂村さんじゃねえ」

 と言って、20代の頃から愛読してきた村上春樹を手元に置いていた。

 

 504号室の主、ヤスコさん(70代・女性)の枕元には、分厚い「会社四季報」があった。

 ずっと小遣いで日本株の売買をしてきたという。

「個室代もかかることだし、入院費用ぐらい稼がなくちゃ! でも、あんまり読む気にならないのよね」

 

 元公務員のOさん(80代・男性)がアマゾンで取り寄せたのは、

「牛乳とタマゴの科学~完全栄養食品の秘密」

自身は五分がゆさえ喉を通らない病状だったが、それでも、がんばって栄養ドリンクを飲んでいた。

そのOさんは、ある日の明け方に亡くなった。

「夫は最後まで『絶対に退院するんだ』と言ってたんです」

 駆けつけた奥さんが、しんみりした口調で教えてくれた。

 

 高校の社会科教師だったIさん(90代・男性)が手にしていたのは、斎藤茂吉の「赤光」。

 私が何げなく「あ、赤光ですか」と言うと、

「あなた、赤光をシャッコウと読めるなんて大したものです!」

 思わぬ賞賛を受けた。

「五七五七七で余白が多いから、この体でも読めるかと思いましてね」

 しばらくして、奥さんに持って来させたのが

「戦艦大和~生還者たちの証言から」(岩波新書)

 でもあまり面白くなかったと見えて、

「あなたに差し上げます」

 途中でほっぽり出していた。

その代わりに、Iさんが熱心に読み始めたのが

「西遊記」 全10巻 岩波文庫

 すごい勢いで、もう4巻めに入った。


 たとえベッドで管につながれていても、毎日が孫悟空。

Iさんの心は、雄大な大陸を飛び回っている。



HIKIKOMORI

  不登校や引きこもりの子に、心理専門職としてどう関わっていくか。 増え続ける不登校と、中高年への広がりが指摘されるひきこもり。 心理系大学院入試でも 、事例問題としてよく出題される。 対応の基本は、その子単独の問題として捉えるのではなく、家族システムの中に生じている悪循...