2023年6月2日

Hさんのこと

 

私が勤務する緩和ケア病棟は、命に関わる重い病気の患者さんばかりだ。

その多くは、わが命が限りあることを、ある程度受け入れている様子。でも病状の深刻さを知らない患者さんもいて、会話には気を遣う。

その中でHさん(70代・女性)は、入院した時から覚悟が決まっていた。

とても印象に残る患者さんだったので、彼女の言葉を書き留めておきたい。

 

「夫は定年後、ずっと家に籠りきりで、どこにも行かないんです。毎日3度の食事を作り、身の回りの世話をしていたら、私がウツになっちゃった」

「だんな様を看取った友人から評判を聞いて、ずっと入院希望を出してたんですよ。窓から残雪の山並みが正面に見えて、ここに来て本当によかった」

Hさんの自宅からこの病院まで、車で2時間かかるという。

「この遠さがいいのよ。簡単には見舞いに来られないでしょ」

「人生の最後ぐらい、夫から離れて自由に過ごしたかった」

花が好きなHさんを車いすに乗せて、病院裏のハーブガーデンに案内すると、とても喜んでくれた。

「ついこの間までは、普通に歩けたのにね。手指までしびれて動かなくなってきたし、下痢も止まらない。放射線治療の後遺症かしら」

もはや彼女は、病院の食事が喉を通らない。家族の見舞いも期待できないので、スーパーでバナナを買って病室に届けた。

「ありがとうございます。毎朝バナナを1本食べたら、今日はもう何も食べなくていいや、と思うのよ」

Hさんの人生の自由時間は、長くは続かなかった。3度めのハーブガーデン散歩では、体をくの字に曲げて、とても辛そう。たった5分で病室に戻った。

ほどなく、話すことさえしんどそうに。

ある朝、夜勤明けの看護師さんに、

「今日は何日? なかなか逝けないのね」

そして、看護師長が必死になって聞き取ったHさんの言葉は、

「お世話になった病院の皆さんに、おいしいクロワッサンを差し入れたい」

ほどなく、彼女の地元の店から、クロワッサンの大箱がナース控室に届いた。

その翌日。付き添いに来たご主人に、かき氷を口に入れてもらったHさんは、彼が席を外したわずかな間に、息を引き取った。

 私の仕事は、主がいなくなった病室で、前の住人が残した痕跡を完璧に消して、ベッドメイクすること。

早ければ翌日にも、新しい入院患者を迎える。

(ずっとヒマラヤの話を書いてきましたが、4月初旬に帰国し、病院の仕事に復帰しています。大変ご心配をお掛けしました!

Rolwaling valley, Nepal 2023


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