フェイスブックにメッセージが届いた。卒業以来会っていない、高校山岳部時代の後輩だ。「顧問のI先生が退職します。久しぶりに集まりましょう」。
フェイスブックのアカウントは持っているものの、あまり発信しない。世を忍んでいるつもりが、見事に探し出された。これだから実名SNSは怖い。
高校生の頃、もの静かなI先生をリーダーに、奥秩父や八ヶ岳を歩いた。あの日から、35年がたった。
懐かしく思う半面、会うのが怖い。彼らを目の前にして、もし誰が誰だかわからなかったら・・・
押入れの段ボールから、色あせた山日記を掘り出す。東京に向かう電車の中で、必死になって予習。モノクローム写真の中に、17歳の自分がいる。
緊張して会ってみると、心配は杞憂だった。みんな、50歳になっても高校生の面影、しぐさが残っている。眠っていた記憶がよみがえった。
当時の母校は、私の入学でやっと3学年そろった新設校。生徒の3分の2が女子で、3分の2が帰国子女。先生は20代が多く、自由だが無秩序な学校だった。
部活もいい加減で、教師には生徒を引率する気がまったくない。単独行が好きなI先生、合宿の途中で「じゃあ」と言って、ひとり山奥に消えていった。
生徒も生徒だ。I先生の記憶では、彼が遅れて山小屋に着くと、いつも勝手に酒盛りが始まっていたという(私はぜんぜん覚えてない)。いまでは大学さえ飲酒に厳しいのに。
お互い、空白の30数年を埋め合う。「外資系8社を渡り歩きながら、長唄と三味線を続けている」「写真学校で学び、撮影でナミビアに通っている」「文化財の修復を生業として、仏像と向き合う毎日」「放送記者として南米に駐在」「会社員の傍らステンドグラス作家に」「大学で馬術部、いま動物病院の院長」。
私はというと、とても単純。高校では山岳部と写真部を兼部。大学では山岳部に入部。そして就職は新聞社の写真部。早期退職するまで、会社のお金で7回ヒマラヤに行く。35年間、いつもカメラ2台を首から下げていた。
幸運といえば、16歳のあの頃、マニキュアつけて山に来た後輩がいた。4年前に大病を患った彼女は、ICU(母校の名前でない方)で生死の境をさまよった。今日ここで再会できたのは、天が彼女に味方したから。
ふと手元をのぞく。相変わらず、きれいなネイルアート。
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