2016年6月8日

35年目の同窓会


フェイスブックにメッセージが届いた。卒業以来会っていない、高校山岳部時代の後輩だ。「顧問のI先生が退職します。久しぶりに集まりましょう」。

フェイスブックのアカウントは持っているものの、あまり発信しない。世を忍んでいるつもりが、見事に探し出された。これだから実名SNSは怖い。

高校生の頃、もの静かなI先生をリーダーに、奥秩父や八ヶ岳を歩いた。あの日から、35年がたった。

懐かしく思う半面、会うのが怖い。彼らを目の前にして、もし誰が誰だかわからなかったら・・・

押入れの段ボールから、色あせた山日記を掘り出す。東京に向かう電車の中で、必死になって予習。モノクローム写真の中に、17歳の自分がいる。

緊張して会ってみると、心配は杞憂だった。みんな、50歳になっても高校生の面影、しぐさが残っている。眠っていた記憶がよみがえった。

当時の母校は、私の入学でやっと3学年そろった新設校。生徒の3分の2が女子で、3分の2が帰国子女。先生は20代が多く、自由だが無秩序な学校だった。

部活もいい加減で、教師には生徒を引率する気がまったくない。単独行が好きなI先生、合宿の途中で「じゃあ」と言って、ひとり山奥に消えていった。

生徒も生徒だ。I先生の記憶では、彼が遅れて山小屋に着くと、いつも勝手に酒盛りが始まっていたという(私はぜんぜん覚えてない)。いまでは大学さえ飲酒に厳しいのに。

お互い、空白の30数年を埋め合う。「外資系8社を渡り歩きながら、長唄と三味線を続けている」「写真学校で学び、撮影でナミビアに通っている」「文化財の修復を生業として、仏像と向き合う毎日」「放送記者として南米に駐在」「会社員の傍らステンドグラス作家に」「大学で馬術部、いま動物病院の院長」。

単線的なキャリアを歩く男子より、女子の物語が起伏に富んで面白い。

私はというと、とても単純。高校では山岳部と写真部を兼部。大学では山岳部に入部。そして就職は新聞社の写真部。早期退職するまで、会社のお金で7回ヒマラヤに行く。35年間、いつもカメラ2台を首から下げていた。

この歳まで山登りをしているのも、自分だけみたい。口々に「ミヤサカさんがいちばん、高校時代と変わってない」と言われる。指摘されて初めて、好きなことを続けられた我が身の幸運を知る。

幸運といえば、16歳のあの頃、マニキュアつけて山に来た後輩がいた。4年前に大病を患った彼女は、ICU(母校の名前でない方)で生死の境をさまよった。今日ここで再会できたのは、天が彼女に味方したから。

健康であることが当たり前だった日々は、皆すでに過去のことだ。「体を大切にして下さい」。彼女のことばに、全員がうなずいた。

ふと手元をのぞく。相変わらず、きれいなネイルアート。

幸運に感謝した。


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