2016年3月31日

聖なるヒマラヤホテルの朝


「聖なるヒマラヤホテル」での、今日が13日め。いくつか泊まり歩いた末にたどり着いた、中庸だがバランスのいい宿だ。

 喧騒のカトマンズ・タメル地区にありながら、裏通りに面していて静か。ロビーにエスプレッソマシンがあり、いつでも挽きたてのコーヒーが飲める。部屋は清潔で、スタッフが廊下を毎日雑巾がけする。夕方から朝にかけて自家発電機が回り、停電時も熱いシャワーにありつける。

さらに建物は、日本の専門家による耐震証明付き。ここは隠れた実力者だ。

ここ数日、宿泊客が増えてきた。今朝、8時すぎに下りていくと、朝食のテーブルはすでにいっぱい。白髪の白人男性と相席になる。

南アフリカ人の大工さんで、最近リタイアしたばかり。空路、ドバイ経由12時間でネパールに来て、明日からエベレスト街道に向け出発する。

「いままで50軒以上、家を建てた。もう疲れたよ。自営業で年金がないから、手持ちの5軒を人に貸して、老後は賃料収入で暮らすんだ」

「19歳の時、イギリスからインドまでヒッチハイクで旅した。あの頃は若かった。今回カミさんを誘ったけど、大変そうだから私は行かないって」

「君は日本人か。ケープタウンには日本人観光客がたくさん来るよ。え?それは中国人だろうって? そうかもな、ハハハ」

 窓から彼の後ろ姿を見送る。穴ぼこだらけの道に、大型バイクが停まっている。ナンバープレートは、オーストラリア・ビクトリア州のもの。傍らで、50代ぐらいのカップルが出発準備に余念がない。

2人とも険しい表情だ。手伝おうとしたホテルの守衛から、寝袋を奪い取っている。これまでの道中が、楽しいことばかりではなかったのだろう。

やがて、それぞれヘッドセット付ヘルメットを装着し、仲良く2人乗りで出発していった。武運長久ヲ祈ル。

空席が目立ち始めたダイニングに、今度は日本の大学生グループが入ってきた。昨夜は、日本人女子学生がサリー、ネパール人が浴衣を着てパーティーをし、遅くまで盛り上がっていた。地元大学との交流ツアーだろうか。

彼&彼女たち、今日も盛大にビールやワインを並べ、「日ネ友好・一気飲み大会」を始めた。指導教員も一緒になって騒いでいる。まさか朝のカトマンズで、学生街の飲み屋みたいな光景に出会うとは思わなかった。

別のテーブルには、フランス人の団体旅行客が陣取っている。ネパール人ガイドの仏語での説明を、おとなしく聞いている。

以前、フランス人ばかりのツアーに紛れ込んでしまった私の経験では、彼らほど集団行動に適さない国民はいない。まず人の話など聞かないし、集合時間も守らない。小柄なガイド氏の、今後の苦労が偲ばれる。

いつの間にか、朝食に2時間かかった。フランス人より長い。旅人たちがせわしなく交錯する間、一人ぼんやり時を過ごせる贅沢。


2016年3月27日

竹の学校 ~ネパール大地震1年~


 昨年4月にネパールを襲った大地震から、もうすぐ1年。平穏さを取り戻したカトマンズを離れ、タクシーで震源地へ向かう。

 もう新聞記者でもないのに、いったい何やってんだか。今後どのような支援ができるか探りに行く、という気持ちもあるが、大半は好奇心、野次馬根性だ。

 もはや締め切り時間を気にせずに済み、「ネタを持って帰らなければ」という重圧もない。いまの心境で何が見えるか、自分に興味がある。

 当てにしていた旅行会社の車は、ガソリンが手に入らず動かない。国全体がエネルギー不足の時節に、遠足まがいのことをするのは気が引ける。代わりにつかまえたタクシーに、行きは帰省する被災女性を村まで同乗させ、帰りも病気の女性をカトマンズの病院まで送った。貴重なガソリンの有効活用ができた。

 渋滞するカトマンズから1時間30分、最後は未舗装の山道を登って、目指すナングルバザールに着いた。谷を隔てた先に、震源地のシンドパルチョークを望む。空気が澄んだ時期には、遠くエベレストが見える尾根上の村だ。


 車を捨て、村を歩く。家々の屋根を真新しいトタン屋根が覆い、太陽に照らされて光っ

 
ている。地震では家屋の土壁が崩れ、多くの2階建が平屋になってしまった。建てなおす金もなく、トタンを被せて借り住まいにしているのだ。


 村の小学校を訪ねた。校舎の壁には大きな亀裂が入っている。子どもたちは代わりに、竹の掘っ立て小屋に机を並べて勉強していた。

 校庭にはレンガが積まれ、新校舎の建設が始まっている。ノルウェーが資金援助し、今年中には完成する。ただ、被災した周辺住民が、住まいと仕事を求めて村を出ていった。地震前に200人いた児童が、いまは半分しか残っていない。

 カトマンズで旅行会社を経営する日本人社長は地震直後、テントと毛布をこの村に送った。最近は、村から市内に転校してきた子たちの学費を援助しているそうだ。

 社長の話では、世界各国からの義援金は、機能不全かつ腐敗したネパール政府の元で滞り、いまだ現地に届かない。国際NGOも、ネパール側スタッフに信頼できる人材が少ない。唯一確実な支援方法は、日本から現金を持ち込み、被災地に行って直接自分の手で配ることだという。登山家ら数人が、日本で集めた義援金をこの方法で配ったそうだ。

 帰り道、サクーに寄る。カトマンズから17キロのこの町の被害は壊滅的で、全家屋の9割以上にあたる1300棟が倒壊、163人が亡くなった。密集していた5~6階建の建物が軒並み崩れ、がれきの山と化している。

年老いた女性がひとり、自宅を再建するため、崩れたレンガをひとつひとつ素手で積み上げていた。

2016年3月23日

英国式自己流トレッキング


 ヒマラヤを巡る山旅の途中で、イギリス人ロバートと出会った。

 母国で配管工をしている彼は、ロンドンを出発して5か月目。ひとり、標高4100メートルのアンナプルナ峰ベースキャンプを目指す。

「山歩きなんてしたことないから、最初は毎日何時間も歩き続けるなんて無理だ、と思った。でも、ヘッドホンで音楽聞きながら歩くと、何とかなるもんだね」

 ここまで来たのなら、ヒマラヤを吹き渡る風の音や、遠くから聞こえるカウベル、見知らぬ鳥の声も聞いてほしいが、人それぞれだ。

 日が暮れると、彼はロッジの裸電球の下、カトマンズの古本屋で手に入れたモーリス・エルゾーグ「処女峰アンナプルナ」とジョン・クラカワー「空へ」を読んでいる。

「処女峰アンナプルナ」は、人類初の8000メートル峰登頂に成功したフランス隊の記録。帰路、快挙の代償として凍傷を負った隊員が、壊死した手足の指を1本ずつ切り落としながら生還する、壮絶な話だ。

「空へ」も、1996年のエベレストで起きた大量遭難を題材にしている。

「またすごい悲劇を選んだね」

「えっそうなの?まだそこまで読んでないよ」

 2冊とも世界的に有名な山岳ノンフィクションだが、彼は知らずに買ったらしい。

 夕食後、ロバート、韓国人女性トレッカーらで薪ストーブを囲んでいると、ネパール人ガイドが地酒ロキシー片手にやってきた。酩酊しながら「稜線の雪が少ない。この時期にラリグラス(シャクナゲ)が咲き始めた。地球温暖化のせいに違いない」と、崩れた英語で自説を吹聴する。

 酔っぱらいはかなわないな、と思っていると、話の途中でロバートがいきなりガタン、と立ち上がった。目の前でがさがさっとダウンジャケットを着こむと、「ぼくは寝る」と、出て行ってしまった。

 取り残された私と韓国女性。どちらが先に逃げるか、神経戦が始まる。徹底して場の空気を読まない、彼の行動がうらやましい。

 翌朝ダイニングに行くと、ロバートが白いドロドロした謎の液体をすすっている。

「これオートミール。ちょっと試してみる?」

「うん。おいしいね」(ウソ。まずい。イギリス人にはこれがおいしいのか?)

「だろ。これを食べてエネルギーを蓄えなきゃいけないんだ」

 地元産のポテト料理やリンゴ、チヤパティなど、他においしいものがあるのに、わざわざ高い輸入シリアルを食べている。

 やがてジーンズに運動靴、頭にヘッドホンといった格好のロバートが、「会えてよかったよ!」と手を振りながら旅立っていった。クロックスで富士山に登ってしまう外国人同様、たぶん彼もそのいで立ちで、飄々とアンナプルナBCを極めるのだろう。




2016年3月19日

末路は転落か感電か


 カトマンズで知人と夕食を共にし、夜道をホテルに戻る。

 停電中は街灯も消えてしまうので、外は本当に真っ暗。車のヘッドライトだけが頼りになる。車通りがある時間帯に帰るのが、この街の鉄則だろう。煌々と周囲を照らす日本のコンビニが懐かしい。

 こちらの道は、障害物に満ちている。

昼間、歩道に横たわっていた犬や牛や人は、不思議と暗くなるころには消えている。その代わり、工事でもないのに、いきなり深さ1メートルの段差があったりする。

 先ほど別れた知人は「マンホールに気をつけて。昼間閉じていても、夜開いていたことがある」という。開いたままのマンホール・・・いったいなぜ、開けておくのだろう。ここでは、日本の常識が通じない。

 足元に細心の注意を払って歩く。ふと、人影が等間隔で立っているのに気付いた。みな、車のほうに顔を向けている。うわさに聞く街娼たちだ。みな背が高い。

 対向車のヘッドライトが、ひとりの横顔を照らした。

 !!!!!

 思わず悲鳴を上げそうになる。

 ひげ面にかつら、つけまつげ。突き出た頬骨。唇から大きくはみ出した赤いルージュ。明らかに男だ。

 タイのおかまは時に女性よりきれいだが、こちらのは・・・はっきり言ってお〇ましい。

 ショックを受けつつ、よろよろ歩く。

不意に、何かがベロリと顔をなでた。

 !!!!!

 今度は・・・なに?

 電信柱に、無数の電線が束になって掛かっている。東電ならぬ盗電で、許可なく自分の家に引き込むためらしい。その一部が切れて、歩道に垂れ下がっていたのだ。足元ばかり見ていて、危うく感電するところだった。

 この数週間、カトマンズで暮らしてみた。以前の訪問で、物価が安く、人が親切なのはわかっている。ラストリゾートを、この地に期待した。

 在住数年~数十年の日本人を訪ね、いろいろ話も聞いた。みなさん、地震や国境封鎖によるエネルギー不足も克服して、生き生きと暮らしている。ある人は「仕事がらみで裏切られたりもしたけれど、ネパール人は温かい。死ぬときはネパールで」とさえ言う。停電したら?早寝すればいいと言う。

 それにしても、この脆弱なインフラ。本当に慣れるものだろうか。

 予期せぬ怪人との出会いもあり、かなり弱気な自分がいる。


2016年3月14日

ネパールでパンツを洗濯する時は


 ネパール・ヒマラヤで1週間、山歩きをした後、湖畔の町に下山した。

 ホテルの正面に洗濯屋があり、「1キロ100ルピー(約100円)」「特急仕上げ3時間コースあり」と書いてある。タイやラオス、カンボジアでも、街の洗濯屋はアイテム毎でなく、キロ当たりの料金だった。

さっそく汚れた登山ウェアを持ち込むと、出てきたおばちゃんがひと言、「Load shedding(停電)」。天気が良くて明日夜、雨が降れば明後日の仕上がりになるという。

 この国では、「停電」がすべての免罪符だ。しばらく山に入っていて、すっかり忘れていた。

 前日まで山村を転々としたが、各村で自前の水力発電(つまり水車)を持っていたりする。車も通らないのに、1日24時間電気が使える、夢のような集落もあった。首都カトマンズより、田舎の方が電力事情はいい。

 明朝にはここを発つので、時間がない。ホテルの洗面台で、洗剤の代わりに備え付けのシャンプーで手洗いする。

 空気がとても乾燥していて、室内干しでもひと晩で乾いた。少々の手間で、300円節約できた。

 首都カトマンズでは、ゲストハウスや商店が副業でランドリーサービスを手掛けている。「アメリカ製電気洗濯機を使用」「特急サービスあり」とうたう。洗濯物を持ち込むと、スマホから目を離そうとしない、やる気ゼロの店員に「Load shedding」「仕上がりは明後日」などと言われる。

 1日13時間停電するこの街で、洗濯乾燥機が使えるタイミングは多くない。「3時間でできる」は、とんだ誇大広告だ。

 数年前、停電のカトマンズから小型機を乗り継いで、ダウラギリ峰山麓の村に着いた。ゲストハウスの中庭で、電気洗濯機が勢いよく回っている。宿の主人に洗濯物を出したいと言うと、快く引き受けてくれた。一切合財を差し出した。

 快調に回る洗濯機。突然、キュン、といって止まってしまった。

 ああ停電か。

 すると、中学生ぐらいに見える主人の娘さんが、私の服を洗濯機から取り出し、桶で手洗いし始めた。

 待てよ。

 今、彼女が洗っているTシャツの下に見えるのは、私のパンツではないか。かといって、今さら取り返しに行くのも恥ずかしい。

我がパンツを年頃の娘さんに、目の前で手洗いされる心境たるや・・・初めて味わったが拷問だった。

 あの時以来、どんな長旅だろうが、たとえ1キロ100円だろうが、下着だけは自分で洗う。

2016年3月3日

神々の山 その麓で


カトマンズを歩いていて、車とバイクの長い行列に出くわした。渋滞と違い、まったく進む気配がない。先頭をのぞくと、はるか向こうにガソリンスタンドが見えた。

これは、過去にも震災直後の街を取材して見かけた風景だ。でも、ネパールを襲った地震から、もう1年近くがたつ。このガソリン不足は、国境封鎖の影響だ。タクシー運転手の苦労が偲ばれ、値切るのもほどほどにしなければと思う。

カトマンズに着いてから、電気とお湯を求めてホテルを転々とした。どのホテルも、一部で営業を再開しつつ、地震後の修復工事を続けている。玄関前に、がれきの山が残っていたりする。

そのひとつに、7部屋ほどの小さなゲストハウスがあった。ネワール様式の趣ある建物、中庭には花が咲き乱れ、砂ぼこりが舞う表通りとは別天地だ。まだ休業中だったが、マネージャーに頼み込んで、ひと部屋貸してもらった。

毎日、階下のカフェで朝食を取る。たったひとりの客のために、コックとウェイターが専属で食事を用意してくれる。

マネージャー氏によると、地震でキッチンが壊れたほか、大きな被害はなかった。従業員が被災し、出勤できないために休業を決めた。建物の修復が終わったいま、再びスタッフを集めるのに苦労しているという。

陰でウェイターに聞くと、「地震前から働いてるけど、ここは給料安すぎ。村には妻と3歳の息子がいるし、どこか外国で働きたい」という。

このゲストハウスは、前途多難だ。

ネパールは、IMFによれば「アジア最貧国」。最近の失業率は不明だが、10年前は40%あったという。ヒマラヤや仏教遺跡を擁する観光立国なのに、地震で観光客が激減。外国に職を求める動きが加速し、今日もパスポート発給に長蛇の列ができていた。

彼らの渡航先は、カタール、UAEなどの中東諸国やマレーシア。異国で孤独にさらされての自殺、建設現場など過酷な現場での労災死が後を絶たず、社会問題化している。

カトマンズ在住の友人は、人を迎えに行った空港で、1時間半に5体の棺が到着したのを見た。乗客のスーツケースと一緒に、棺がターンテーブルで回っているのを目撃した知人もいる。

この国では、人口3000万の7割が、1日2ドル以下で暮らす。登山やトレッキングで山村を訪れると、現金収入に頼らず、土地に根差して力強く生きる人に会うことができる。

いっぽう、首都カトマンズで道を歩けば、赤ん坊を抱いた母親に金を無心される。食堂で窓側に座ると、皿を覗きこむ浮浪者の、強い視線にさらされる。

8000メートルを超える、ヒマラヤの巨峰が連なるネパール。山好きには夢のような場所だ。だがその懐に飛び込む前に、この国が抱える現実が、いやでも目に飛び込んでくる。



肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...