最近、新聞社内で経費節減が加速している。
少し前までカメラマンの足は、社旗をなびかせた黒塗りのハイヤーだった。それがタクシーになり、最近は電車利用を求められるようになった。市民感覚では当たり前の話だが、重い撮影機材を背負い、三脚や脚立まで持った身に、混んだ電車は相当きつい。
海外出張も減り、たとえ行けても地球の裏側まで格安エコノミー。取材日数はぎりぎりまで切り詰められ、宿泊ホテルの料金も、厳しくチェックされるという。
記者の友人たちは、いささかやる気を削がれている様子。会社が変わったのか、社会全体が変わったのか、時代そのものが変わったのか。
私は学生時代、本多勝一が書いた「カナダ・エスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」等の辺境ルポに熱狂した。新聞記者は、自由に世界を旅してルポルタージュが作れる、と信じて疑わなかった。実際、当時記者だった大学山岳部の先輩は、去年はヒマラヤ高地、今年はモンゴルの大草原、と飛び回っていた。それがとてもうらやましく、就職先は新聞社しか考えなかった。
若気の至り?で当時の第一志望は、本多がいたA新聞。あえなく不採用になり、翌年B新聞に潜り込むことができた。その後の状況を考えると、A社に落ちたのは本当に幸運なことであった。
私が入社した時すでに、地球上から秘境や辺境と言われる場所は姿を消しつつあった。それでも登山隊に同行する形で、憧れだったヒマラヤに5回も行くことができた。チベット高原を徒歩で横断し、数か月間、雪の上にテントを張って暮らした。
遺骨収集に同行してパプアニューギニアの密林に分け入ったり、タリバンが破壊したアフガニスタン・バーミヤン渓谷をルポすることもできた。地球環境の連載ではボルネオ島のオランウータンを訪ね、南太平洋キリバスに飛んで海面上昇の現場を確かめた。日曜版取材では、「神の木」バオバブが生えるアフリカの大地を踏み、喜望峰の荒波をこの目で見ることもできた。
最後の長期出張は2012年。山好きな運動部記者と共謀し、日本人初の8000メートル峰全山登頂に挑む登山家の同行取材を企画した。70日間に及ぶ出張が認められたのは、「必要な経費は惜しまない」古き良き新聞社の伝統が、かろうじて残っていたからだと思う。
この時寄り道して、ネパール北部「禁断のムスタン王国」をルポした。中国国境に近く、毛派ゲリラの影響もあり長年、鎖国状態だった地域だ。今でも外国人の入域が制限され、秘境と言っていい。馬の背に揺られ、往復2週間かけてたどり着いた王都ローマンタンは、標高4000メートル。城壁に囲まれ、馬車の蹄が石畳を叩く音で目覚める、幻の中世都市だった。
会社の看板を借りて、個人ではとても出来ないような経験をし、数百万読者に伝える。この仕事の醍醐味だ。記者の士気に関わるような経費節減は、記事から生気を奪い、新聞の未来を危うくする。
ラオスにて |
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