9年前の今頃、インドネシア・ジャワ島のがれきの中にいた。
死者5千人を数えた2006年5月のインドネシア・ジャワ島中部地震。アンと出会ったのは地震発生翌日、たどり着いた被災地のホテル前だった。
「英語が話せるタクシーを探して!片言でもいいから・・・」
懇願する私と、困り果てた表情のホテルマン。そこに現れた空車のタクシーから、若くてひょろりと背の高い、優しそうな目のドライバーが降りてきた。それがアンだった。
彼の愛車に撮影機材を積み込んで、毎日、被災地を駆け回った。
震源に近いバントゥル県への道は、救急車や救援物資を積んだトラック、一般車両が入り交じり、大渋滞している。動かない車の中で、私と彼との、訥々とした会話が始まった。
歴史書を読むのが好き、というアン。彼の口から「アドミラル・ヤマモト」「ジェネラル・ナグモ」「ジェネラル・ウガキ」という名が出てきた時、わが耳を疑った。
彼が好きなのは、太平洋戦争における日本海軍の歴史だったのだ。
そうと分かれば話は早い。何を隠そうこの私も、戦記を読むのは小学生以来の趣味だ。お互い下手な英語で、「レイテ沖海戦における栗田艦隊、謎の反転」をテーマに論争を繰り広げた。
戦後70年。今の日本でこんな話をしようものなら、オタク呼ばわりか変人扱いだ。ましてインドネシア人の彼は、私より話相手に困っていたのだろう。話題は尽きず、彼の口からは「大西中将がもう少し早く特攻を思いついていたら、日本は戦争に勝っていた」などと、きわどい発言も飛び出した。
私にとっての幸運は、それだけではなかった。アンの元彼女は国営アンタラ通信の記者で、妹も被災地を回ってボランティア活動をしているというのだ。
「今日の地元紙に出ていた、地震で両親を亡くした子に会えないかな・・・」
「明日の金曜礼拝で、倒壊したモスクでお祈りする人を撮れたら・・・」
どんな無理難題を持ちかけても、ひとしきり携帯電話で彼女らと話すと、どこにでも行き、誰にでも会わせてくれた。まるでドラえもんのどこでもドアだ。
慣れない土地で、何とか紙面を作ることができた。本当に彼のおかげだ。なぜあの日、アンに巡り会えたのか。偶然にしては話ができすぎている。
(続く)
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