地震4日目、アンと私のチームに加わったのが、通訳のティティだ。イスラム教徒の女性が被るスカーフからのぞく、クリクリとよく動く瞳。国立ガジャマダ大学日本語科を出て、横浜のフェリス女学院に留学。吉本のお笑い芸人が大好きで、関西弁も流暢に操る。今は大学院生というが、小柄で丸顔、見た目は高校生だ。
被災者との会話で、彼女がよく
「んげ」「んげ~」
と言う。
意味を聞くと、ジャワ中部の言葉でイエス、とのこと。首都ジャカルタで話される標準インドネシア語と、ずいぶん違う。「んげ」と書くと違和感があるが、ティティが話すと、とても優雅な、たおやかな響きになる。
歴史と伝統を誇るこの地域は、日本の京都に当たる。さしずめ京ことばか。
アンとティティ。この2人、いつもニコニコしていた。
アンは地震後すぐ、おばあちゃんを亡くした。ティティの自宅は地震で半壊し、家族でテント生活を強いられている。それなのに、朝から晩まで私の仕事に付き合い、いやな顔ひとつしない。
取材で訪ねた病院は、中庭まで負傷者であふれていた。ヤシ林の中に点在する村々は、跡形もなくがれきの山になっていた。そして私は、衛星電話がつながらなかったり、締め切りが迫ったりで、しょっちゅう落ち込んだり、あわてたり、イライラしている。
そんな中でも、常にニコニコ。穏やかな笑みを絶やさない。
2人とも、私より一回り以上も若いはず。インドネシア人には優しい人が多いが、それは信教の力か。死生観が違うのだろうか。おびただしい破壊と悲嘆を目の当たりにして、年甲斐もなくひるんでしまう時、2人の笑顔には何度も助けられ、励まされた。
「地震発生から1週間」の取材を終え、次の仕事のために2人と別れ、バンコクの自宅に戻った。数日後、ティティのケータイを鳴らしてみた。
「自宅を修理して住めるようになり、テント生活から解放されました。ゆうべは電気も復旧して、久しぶりにテレビを見ました」
今にも笑い出しそうな、明るい声が聞こえてきた。