2015年5月31日

アンとティティ②


地震4日目、アンと私のチームに加わったのが、通訳のティティだ。イスラム教徒の女性が被るスカーフからのぞく、クリクリとよく動く瞳。国立ガジャマダ大学日本語科を出て、横浜のフェリス女学院に留学。吉本のお笑い芸人が大好きで、関西弁も流暢に操る。今は大学院生というが、小柄で丸顔、見た目は高校生だ。

被災者との会話で、彼女がよく

「んげ」「んげ~」

と言う。

意味を聞くと、ジャワ中部の言葉でイエス、とのこと。首都ジャカルタで話される標準インドネシア語と、ずいぶん違う。「んげ」と書くと違和感があるが、ティティが話すと、とても優雅な、たおやかな響きになる。

歴史と伝統を誇るこの地域は、日本の京都に当たる。さしずめ京ことばか。

アンとティティ。この2人、いつもニコニコしていた。

アンは地震後すぐ、おばあちゃんを亡くした。ティティの自宅は地震で半壊し、家族でテント生活を強いられている。それなのに、朝から晩まで私の仕事に付き合い、いやな顔ひとつしない。

取材で訪ねた病院は、中庭まで負傷者であふれていた。ヤシ林の中に点在する村々は、跡形もなくがれきの山になっていた。そして私は、衛星電話がつながらなかったり、締め切りが迫ったりで、しょっちゅう落ち込んだり、あわてたり、イライラしている。

そんな中でも、常にニコニコ。穏やかな笑みを絶やさない。

2人とも、私より一回り以上も若いはず。インドネシア人には優しい人が多いが、それは信教の力か。死生観が違うのだろうか。おびただしい破壊と悲嘆を目の当たりにして、年甲斐もなくひるんでしまう時、2人の笑顔には何度も助けられ、励まされた。

「地震発生から1週間」の取材を終え、次の仕事のために2人と別れ、バンコクの自宅に戻った。数日後、ティティのケータイを鳴らしてみた。

「自宅を修理して住めるようになり、テント生活から解放されました。ゆうべは電気も復旧して、久しぶりにテレビを見ました」

今にも笑い出しそうな、明るい声が聞こえてきた。

2015年5月27日

アンとティティ①


9年前の今頃、インドネシア・ジャワ島のがれきの中にいた。

死者5千人を数えた2006年5月のインドネシア・ジャワ島中部地震。アンと出会ったのは地震発生翌日、たどり着いた被災地のホテル前だった。

「英語が話せるタクシーを探して!片言でもいいから・・・」

懇願する私と、困り果てた表情のホテルマン。そこに現れた空車のタクシーから、若くてひょろりと背の高い、優しそうな目のドライバーが降りてきた。それがアンだった。

彼の愛車に撮影機材を積み込んで、毎日、被災地を駆け回った。

震源に近いバントゥル県への道は、救急車や救援物資を積んだトラック、一般車両が入り交じり、大渋滞している。動かない車の中で、私と彼との、訥々とした会話が始まった。

歴史書を読むのが好き、というアン。彼の口から「アドミラル・ヤマモト」「ジェネラル・ナグモ」「ジェネラル・ウガキ」という名が出てきた時、わが耳を疑った。

彼が好きなのは、太平洋戦争における日本海軍の歴史だったのだ。

そうと分かれば話は早い。何を隠そうこの私も、戦記を読むのは小学生以来の趣味だ。お互い下手な英語で、「レイテ沖海戦における栗田艦隊、謎の反転」をテーマに論争を繰り広げた。

戦後70年。今の日本でこんな話をしようものなら、オタク呼ばわりか変人扱いだ。ましてインドネシア人の彼は、私より話相手に困っていたのだろう。話題は尽きず、彼の口からは「大西中将がもう少し早く特攻を思いついていたら、日本は戦争に勝っていた」などと、きわどい発言も飛び出した。

私にとっての幸運は、それだけではなかった。アンの元彼女は国営アンタラ通信の記者で、妹も被災地を回ってボランティア活動をしているというのだ。

「今日の地元紙に出ていた、地震で両親を亡くした子に会えないかな・・・」

「明日の金曜礼拝で、倒壊したモスクでお祈りする人を撮れたら・・・」

どんな無理難題を持ちかけても、ひとしきり携帯電話で彼女らと話すと、どこにでも行き、誰にでも会わせてくれた。まるでドラえもんのどこでもドアだ。

慣れない土地で、何とか紙面を作ることができた。本当に彼のおかげだ。なぜあの日、アンに巡り会えたのか。偶然にしては話ができすぎている。
(続く)

2015年5月24日

50年働く時代に


 「1年に360日、夜は外で食べる部長」

 数年前の社員手帳に、こんな書き込みを見つけた。

 毎晩深夜に帰宅する生活を、さも自慢そうに話す上司がいて、びっくりしたのを思い出した。

 遅くまで会社で働き、取材相手と飲むか、同僚と飲むか。私生活が欠落したそんな暮らしの、どこが自慢になるのか、いまだにわからない。たしか、妻も子もある人だったと記憶している。

 日本以外の国で「仕事はすべてに優先する」「仕事より家族や友人を優先するのは社会人失格」「まじめに働き、会社に貢献するのが当たり前」などと人に言おうものなら、「あなたは頭がおかしいのではないか?」と言われるそうだ。国連機関で働き、米英伊で暮らした谷本真由美が「日本が世界一貧しい国である件について」という本で書いている。生活が第一で、労働は生活の手段にすぎない、と考える人が海外の圧倒的多数なのだ。

 以前、出張で行ったベトナムのような途上国でも、午後5時にはバイクが路上を埋め、猛烈な帰宅ラッシュとなる。やがて、明るいうちから川べりで夕涼みをし、家族や友人と屋台で夕食を楽しむ光景がそこかしこに見られた。

 独身時代や、仕事が面白くて仕方がない、と(幸運にも)思えるような一時期、会社中心の生活になるのはわかる。実は私も、バンコク時代は年間200日も出張し、妻に大変な負担をかけてしまった。が、20年、30年、同じ働き方を続けられるものだろうか。

ドラッカーによると、年金の支給繰り下げと圧縮で、先進国では70、80歳まで働くのが当たり前になるという。20代で就職した後、半世紀も働く時代を想像すると、人より会社の寿命の方が、先に尽きてしまうように思う。新聞に限らず、商品の陳腐化、社員が持っている技能が陳腐化する速度は、どんどん早まっている。

運よく自分の会社が存続しても、全体のパイが縮小していく日本で、昇進のポストは減っていく。やりがいのある仕事が与えられるとは限らない。部下をマネジメントする能力より、自分の第2の人生をマネジメントする力を身につけた方が、だんぜん得する時代が来ている。

新聞社ではいまだに、会社での滞在時間が長いだけの人に高評価をつけ、暗に残業や休日出勤を肯定する雰囲気がある。成果を上げたらさっさと帰って、自分のキャリアを見つめる時間を作りたい。

長い職業人生の間には、家庭を優先すべき時、心身を休めて充電したい時、介護に時間をかける時、もあるだろう。友人や地域の人と交わる時間も大事だ。

いつまでも会社に入り浸っているヒマはないはずだ。

早期退職優遇制度やセカンドキャリア研修、それに退職時の人事部の対応から、会社側も「3年で辞めるのはけしからんが、20年以上しがみつかれるのも迷惑だ」と考えているのを感じた。それなのに、前の上司や同僚はいまだに「おまえの決断は自分勝手だ」と言う。

私はむしろ、会社に多大な貢献をしてしまった、と思っているのだが。

タイ・チェンマイの日曜マーケット

2015年5月20日

セカンドライフの職探し


 アメリカは早期退職の先進国だ。アマゾンの米国サイトで検索すると、関連本が山ほど出てくる。ジャンルは2つあり、「どうすれば若くしてセミリタイアできるか」と「リタイアしたら、何をするか」。リタイア後はボランティアをするとよい、と多くの本に書いてある。

 日本で「善人による善意の行為」なイメージのボランティア。アメリカ人は、少し打算的に考えるようだ。ボランティアで様々な仕事を経験し、新たな自分の適性を探す。ボランティア経験を立派な要素として履歴書に書き、次の仕事につなげる。ボランティアで求められるような仕事には必ず社会のニーズがあるので、突き詰めればマネタイズ、つまり職業にすることができる、等々。

 そんなもんか~、と思いつつ、とりあえずやってみることにする。有償の仕事はハローワーク。無償の仕事は社会福祉協議会で探す。

 最近では、認知症グループホームと、在住外国人向け日本語教室に通っている。今回新たに、外出が不自由な人を車で送迎するNPOにも加入した。

 入会に当たって「国交省認定の講習を受けてきて」と言われた。週末、「福祉有償輸送運転者講習会」に通った。

 実習では、初めて車いすに乗せられ、リフトが付いた福祉車に体験乗車。その乗り心地の悪さに絶句する。時速30キロで道路上のマンホールを通過しただけで、衝撃とともに尻が車いすから宙に浮く。これはゆっくり走らなければ、と肝に銘じる。

次にハンドルを握る。助手席には自動車教習所の教官。つい一時停止の交差点で白線を越えてしまい、「普通なら検定中止ですよ」と脅される。

 介助研修では、半身まひ役の男性を、車いすから助手席に移す訓練。中年のおじさん同士がひしと抱き合う。想像以上に重いうえに、かなり微妙な気分。

 2日間の講習を終え、普通運転免許でも福祉目的で人を乗せられる資格を得た。

 座学での大学講師の話。国内では人口の5%が移送サービスを必要とする障碍者・高齢者であること。これに対し、介護タクシーや移送NPOは圧倒的に不足していて、1人当たり40日に1回しか利用機会がないこと。それも通院目的の利用に限られてしまうこと。バス会社が法令でリフト付バスや低床バスを用意しても、そもそもバス停まで行けない障碍者・高齢者が多いこと。

 それでも車いすの人が意を決してバスで外出すると、運転手の介助が必要になる。どうしても乗降に時間を食う。苛立った乗客の視線が背中に突き刺さる。こういう体験をすれば、2度と外出しなくなってしまう。

移動の自由は、大切な基本的人権のひとつだ。誰もが、人に会いに行ったり、買い物を楽しんだりできなければ、生きている甲斐がない。これまで目一杯、移動の自由を享受してきた。少しでもお返しができればと思う。

一抹の不安は、この手のNPOが「有償ボランティア」といって、実費程度の金を利用者から取ることだ。タクシーに比べれば格安とはいえ、金銭の授受が絡む。サービス提供者と利用者の間に、善意のやりとり以外の何かが混じることにならないだろうか。

限りある自分の時間。稼ぎを気にせず働けることに感謝しながら、できるだけ楽しみたい。

2015年5月14日

1000キロ西へ


 初夏の福岡を散歩してきた。

 エアは倒産して再建中のスカイマークで、宿はニューオータニ博多。この組み合わせで2泊3日、2人で5万円。連休明けの平日に旅行ができるのは、自由業の特権だ。

 福岡には5年前まで1年半暮らし、その後も毎年、出張で訪れている。今回は、住んでいた頃とも、東京から仕事で行くのとも違う新鮮さがあった。

 街が明るく、活気がある。若い人が多い。おしゃれをした女性がいる。デパートが何軒もある。画廊がある。個人経営の、ちょっと入りたくなるようなカフェや飲食店がたくさんある。美術館、博物館がある。

 まる1日歩き回っても、全く飽きない。

いま暮らしている町と比べると、人口規模で7倍。その上、中高年が目立つ我が町に比べ、九州各県から若年層が働きにくる福岡は、活気が違う。それでいて東京のように、仕事に疲れてゾンビになっている人、働きすぎて殺気立っている人は見かけない。「ワークライフバランス」が取れている。

福岡城の石垣に、ブルーシートを張って暮らすホームレスの男性を見かけた。ほぼ5年ぶりの再会。元気にしているようだ。明日は我が身かと思うと、サラリーマン時代より親近感を覚える。このホームレスという生き方、ある程度大きな街でないと成り立たない。やはり、都会には自由がある。

転勤で福岡に移り住んだ友人と会うこともできた。それまで10数年間、東京で満員電車と長時間労働の日々だった。こちらでは爽快な早朝ジョギングのち、自転車で公園を横切り、10分で会社へ。夕食も家で食べられるようになったという。ゆとりある生活を楽しんでいる。

退職してよかったことのひとつは、前の会社の人とも本音で話ができることだ。上司と部下の間柄はもちろん、仲のいい同僚でも利害関係はあり、在職中は表面的な話しか交わせないことも多かった。いまは、まったく何も気にする必要がない。

友人の話では最近、転勤を拒否する人がいるという。自分の経験では、転勤は生き方、働き方を見直す絶好の機会だ。持ち家をどうするか、奥さんの仕事のこと、子供の学校などで腰が重くなるのもわかるが、断るなんてもったいない。

私自身も転勤で福岡に来て、まともな生活を取り戻すことができた。と同時に「これで仕事さえなければ・・・」と、妄想がエスカレート。東京に戻ってそれを実行に移してしまった。

自前の国際空港を持つ地方の中核都市。改めて福岡の良さを実感し、次の引っ越し先はこのキーワードで探そうかと思う。いろいろな人が住んでいて、適度にコンパクトで、文化施設が多く、自然に近く、外国にも開かれている街。

福岡以外では、札幌、仙台、静岡、広島あたり。どの街にも住んでみたい。

2015年5月6日

Good Old Days


最近、新聞社内で経費節減が加速している。

少し前までカメラマンの足は、社旗をなびかせた黒塗りのハイヤーだった。それがタクシーになり、最近は電車利用を求められるようになった。市民感覚では当たり前の話だが、重い撮影機材を背負い、三脚や脚立まで持った身に、混んだ電車は相当きつい。

海外出張も減り、たとえ行けても地球の裏側まで格安エコノミー。取材日数はぎりぎりまで切り詰められ、宿泊ホテルの料金も、厳しくチェックされるという。

記者の友人たちは、いささかやる気を削がれている様子。会社が変わったのか、社会全体が変わったのか、時代そのものが変わったのか。

 私は学生時代、本多勝一が書いた「カナダ・エスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」等の辺境ルポに熱狂した。新聞記者は、自由に世界を旅してルポルタージュが作れる、と信じて疑わなかった。実際、当時記者だった大学山岳部の先輩は、去年はヒマラヤ高地、今年はモンゴルの大草原、と飛び回っていた。それがとてもうらやましく、就職先は新聞社しか考えなかった。

 若気の至り?で当時の第一志望は、本多がいたA新聞。あえなく不採用になり、翌年B新聞に潜り込むことができた。その後の状況を考えると、A社に落ちたのは本当に幸運なことであった。

 私が入社した時すでに、地球上から秘境や辺境と言われる場所は姿を消しつつあった。それでも登山隊に同行する形で、憧れだったヒマラヤに5回も行くことができた。チベット高原を徒歩で横断し、数か月間、雪の上にテントを張って暮らした。

遺骨収集に同行してパプアニューギニアの密林に分け入ったり、タリバンが破壊したアフガニスタン・バーミヤン渓谷をルポすることもできた。地球環境の連載ではボルネオ島のオランウータンを訪ね、南太平洋キリバスに飛んで海面上昇の現場を確かめた。日曜版取材では、「神の木」バオバブが生えるアフリカの大地を踏み、喜望峰の荒波をこの目で見ることもできた。

最後の長期出張は2012年。山好きな運動部記者と共謀し、日本人初の8000メートル峰全山登頂に挑む登山家の同行取材を企画した。70日間に及ぶ出張が認められたのは、「必要な経費は惜しまない」古き良き新聞社の伝統が、かろうじて残っていたからだと思う。

この時寄り道して、ネパール北部「禁断のムスタン王国」をルポした。中国国境に近く、毛派ゲリラの影響もあり長年、鎖国状態だった地域だ。今でも外国人の入域が制限され、秘境と言っていい。馬の背に揺られ、往復2週間かけてたどり着いた王都ローマンタンは、標高4000メートル。城壁に囲まれ、馬車の蹄が石畳を叩く音で目覚める、幻の中世都市だった。

会社の看板を借りて、個人ではとても出来ないような経験をし、数百万読者に伝える。この仕事の醍醐味だ。記者の士気に関わるような経費節減は、記事から生気を奪い、新聞の未来を危うくする。

ラオスにて

2015年5月2日

明日の記憶


 週1~2回、認知症グループホームに通っている。

 今のところ、お世話になる側ではない。かろうじてお世話する側だ。

 行くとまず、食料の買い出しに同行し、運転手兼荷物運びをする。賄いのおばさんは、たいていの入所者より自分の方が年上、が自慢の元気な人だ。20人分の食材は半端な量ではなく、いい運動になる。そしてホームに戻れば、食事の配膳をしたり、病院通いに付き添ったり、掃除や草むしり、おしゃべりや散歩のお相手などなど。

 介護スタッフは女性が多いので、男の私は、認知症のおばあちゃんたちのアイドルだ。

 この状況、果たして喜んでいいものだろうか・・・素直に喜ぼう。

 病気に関する知識はまったくなかったが、別に怖がることはなかった。人によって症状に濃淡があり、自分の世界に入っている人もいるが、たいてい話しかければ応えてくれる。毎度毎度、初対面のあいさつから始まる人もいれば、そのうち顔を覚えてくれる人もいる。

 「お兄ちゃんはどこに住んでるの?」「はい、ハマチョウというところです」といった会話の数分後、「お兄ちゃんはどこに住んでるの?」と真顔で聞かれることがある。何度でも、まるで初めて聞かれたかのように答えている。

ある女性は、施設周りをぐるりと散歩する間、問わず語りに東北の寒村で生まれたこと、父が米軍の機銃掃射で亡くなったこと、缶詰工場で懸命に働いたこと、娘3人に恵まれたことなどを話してくれた。亡夫が工場の責任者にまで出世した、とうれしそうだった。昭和の貴重な個人史だが、10分ほどで突然、テープが巻き戻されたかのように、まったく同じ話が再生された。

 会うたび「私は若いころ卓球選手だったのよ」といい、庭でつんだ野花や、たまにはトイレットペーパーを笑顔でプレゼントしてくれる女性がいる。ありがたく受け取っていると、背後で「あの人、またあんなでたらめ言って・・・」と嘲笑するおばあちゃんたちの声が聞こえた。それぞれが個室を持ち、中央のリビングで入居者同士が顔を合わせる暮らし。いろいろあるらしい。

 午後になると決まって

 「家に帰ることにしました。タクシーを呼んで頂けますか?」

 と、支度を整えてくる人もいる。その場は「はい、それでは電話して参りますので、少々お待ちください」と受け、しばらくしてから「明日の午後、娘さんが迎えに来るそうですので、もう一泊なさって下さい。夕食をご用意します」と答える。

 「ああそうですか、〇子が明日、迎えに来ますか」

 と、男性は満足げに戻っていく。

経験豊富な介護スタッフの手で、毎日が淡々と過ぎていく。

肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...