2016年9月25日

バラマキ、海を渡る


 市街地が晴れていても、我が家は雲の中。

雲の中にも、手紙は届く。

 夏を信州ですごす前に、転送手続きをしておいた。律儀な日本の郵便制度はありがたいが、残念ながら、届くのは請求書ばかりだ。

 電気、ガス、水道代の請求が、毎月それぞれ2軒分。税金と社会保険料。賃貸マンションの更新料。火災保険の請求書。

 そして海の向こうから、ヨコ文字の請求書まで舞い込んだ。

差出人は、泣く子も黙る「タイ王国警察」。

20の春、チェンライでマリ○ァナ吸ったのがばれたか? 違った。スピード違反の反則切符だ。時速90キロ制限の道を112キロで走ったのだと。

まったく身に覚えがないが、オービスで撮られた証拠写真がついている。今年、タイに滞在したときの日付だ。

 そして、レンタカーを借りる時に使ったクレジットカードから、有無を言わさず1000バーツ(約3000円)がチャージされた。

 タイの幹線国道は6車線あり、流れは日本の高速道並み。時速90キロで走ったなら、路線バスにも抜かれてしまう。

これは、警察とレンタカー会社がグルになった、外国人狙いの税金稼ぎに違いない。



そして今日、住民票を置く自治体から封書が届いた。

健康保険の納付書か、それとも年金? この前振り込んだばかりなのに。時がたつのは早い。

ところが、中身は書類だけで、お約束の振込用紙が見当たらない。書類は独善的なお役所ことばで、とてもわかりにくい。タイ警察の英語より難解だ。

わが読解力を駆使すると、お金を払うのではなく、お金がもらえる、と読める。

目を疑う。どうやら、低所得者への給付金らしい。

私が、低所得者。

初めて知った。

2年前まで、けっこうな額の税金を、給料天引きされた。会社を辞め、昨年は収入が激減。今年になって、所得税はもとより、住民税も免除された。

行政のくくりでは、住民税が非課税になった人は、低所得者なのだ。

新聞で毎日見かける単語が、まさに自分だったとは。目からウロコ。図らずも、バラマキ政策の受益者となってしまった。

いくらもらえるかが、とても小さく書いてある。

ひとり3000円。何度ゼロを数えても、3万円ではない。

もし本当に支給されたら、そのままタイ王国の国庫に納めさせて頂こう。

2016年9月19日

頭上の魔術師たち


近くに別荘を持つ友人が、来客用の寝具を譲ってくれた。

彼女の義弟は、サッカー界のレジェンド。純白に輝くこの布団を、彼が使ったことがあるかも知れない。

うわさが口伝てにリレーされ、夏の終わりに「かも知れない」が抜け落ちた。

我が山荘を訪れる女性たち、泊まり客はもちろん、お茶を飲みにきた人まで「カズが寝た布団、見せて!」と、押入れをのぞいていく。

「カズが寝た布団に泊まる信州1泊2日の旅・シカとの遭遇体験つき」

 旅行商品として売り出せそうな勢い。



元ジャンボ機パイロットの山荘を訪ねた時のこと。

バサッ。玄関に立っていると、いきなり大きな枝が降ってきた。

見上げれば、はるか頭上に人影。誰かが木に登っている。ハシゴも命綱も使わず、とんでもない高さで枝払いをしている。

おそろしく身軽な彼は、実はネパールから来たシェルパだった。これまで何度も一緒に、ヒマラヤ登山をした仲だという。

その手があったか。今までじゃまな枝があると、木ごと切り倒していた。持つべきは山岳民族の友だ。

そして我が喫緊の課題は、キツツキが家に開けた、げんこつが入る大穴6つ。

落ちぶれたとはいえ、私も元山岳部員だ。ヘルメットとハーネス姿も勇ましく?バルコニーの手すりによじ登って、軒先の穴3つまで塞いだ。でも、地上から10メートルほどにある残り3つは、とても手が届かない。

業者に頼むと、鉄骨の足場で家を取り囲むといい、数10万円の見積書をよこすらしい。たかがキツツキの穴に、だ。東南アジアの業者だったら、たとえ20階建てでも、竹とひもで足場を組んで、スルスル登っていくのだが。

先日、救世主が現れた。

ロープを肩に海外の大岩壁を渡り歩く、現役アルパイン・クライマー夫妻。山好きが高じて、信州に移住してきた。教職やアルバイトで稼ぎながら、クライミング最優先の暮らしをしている。

1歳のかわいい娘を車に乗せ、我が家に来てくれた。

ギアをジャラジャラいわせて、いざ出陣。ロープを柱に固定し、アッセンダーをかませて登っていく。宙吊りになりながら手を伸ばし、岩に支点を打つための電動ドリルで、穴に板を固定する。

軽やかな身のこなしで、魔法のように、すべての穴を塞いでくれた。

さて、一件落着とくつろいでいた、その夜。

ガサッ ゴソッ 屋根裏から、不気味な物音がする。

そこにいるのは、誰だ。私には小鳥の羽音に聞こえるが、妻は「爪の生えた小動物に違いない」という。

いずれにしても、屋根のどこか、7つめの穴から侵入したようだ。

やれやれ・・・

森の暮らしは、キツツキとのイタチごっこ。

2016年9月12日

ケータイ圏外生活の終わり


 バルコニーに出ると、外は闇。

 森の中で7つ、窓の明かりが漏れていたのがお盆の頃。1軒、また1軒と雨戸を閉ざしていき、9月に入って最後の明かりが消えた。

 最寄りのコンビニは、家から10キロ離れていて、近所には街路灯さえない。夜の戸外は、「鼻をつままれてもわからない」暗さになる。

 そんな夜が明け、誰もいない森で木を切る。刃渡り20センチのノコギリでも、けっこう大きな木が切れる。

 運動がてら、バッサバッサと調子に乗って切りすぎる。前の住人が丹精したシャクナゲを、単なる枯れ木、と丸坊主にした。失業男がエネルギーを持て余すと、ろくなことをしない。

もし今20歳だったら、ノコギリを奮う相手が、木では物足りなくなるのかも。失業率の高い国で犯罪が多いわけを実感できた。

生ゴミを捨てに出る。徒歩10分、国道わきのゴミ置き場に、「文芸春秋」を発見。今年の芥川賞「コンビニ人間」の掲載号だ。すかさず持ち帰る。

高原の別荘地でゴミを漁る中年男。

雨の日の読書では、低酸素に頭が慣れたのか、古典や哲学書、何巻もある歴史小説に手が伸びる。テレビやネットに気を取られ、都会のマンション暮らしで放置していた本を、一気に片づけた。

「物を考える人にとって、あらゆるニュースはゴシップである」「けっして古くさくならない物事を知る方が、どんなに大事なことか」(H・D・ソロー)

今日は携帯電話会社の人が来て、電波の増幅器を置いていく。

これまで、ケータイ圏外生活を謳歌していた。着信音が鳴らない、静かな暮らし。緊急地震警報も鳴らない、自己責任の暮らし。

この20年余、日曜日のトイレの中にまで、業務連絡が追いかけてきた。ケータイが手のひらサイズになり、インターネットが普及し、会社が社員にスマホを配るようになって、自分の時間が消滅した。

昭和の頃までは、ひとたび会社を出てしまえば、時間は家族のものだった。ICTの発達も善し悪しだ。

やっと、ケータイの圏外に住む自由、メールチェックの頻度を自分で決める自由を手にした。

ささやかな勝利。

夏の終わり、水道の水が出なくなり、業者を呼んだ。ケータイが通じないのに驚かれた。通信会社が無料で機器を貸してくれることを、彼に教わった。

窓辺に増幅器を設置。ついに、和室の畳一畳分に限って、アンテナが立つようになった。

タダに目がくらんで、山上暮らしの自由を、ひとつ失った。


2016年9月5日

木はどっちに倒れる


せっかくの田舎暮らし。晴耕雨読といきたいところなのだが、標高が高すぎて野菜が育たない。代わりに、晴れた日は木を切っている。

最初は、木に囲まれた暮らしは天国に思えた。そのうち、「昼なお暗い」「洗濯ものも乾かない」・・・どうも木が多すぎる、と結論した。

ひょろ長い夫が、細い木1本倒すのに悪戦苦闘。それを見た妻がひと言、「木が木を切ってる」。



新聞社にいた頃、インドネシアの森林違法伐採をルポした。

首都ジャカルタで、科学部のサトウ記者と待ち合わせる。彼とは新潟県中越地震で、自衛隊ヘリで一緒に震源の村に向かったことがあった。

プロペラ機を乗り継いで、ボルネオ島へ。マレーシア国境で四輪駆動車を借り、暗くなるまで山道を進む。集落に着いても宿はなく、民家の軒先で野宿する。

翌日から、道はさらに悪くなった。車を捨てて、村の青年のオートバイで奥地へ。路面の凹凸で体が宙に浮き、兄ちゃんの腰に抱きつく。

ほこりまみれで未舗装路を進み、ハエがたかる屋台で干からびた揚げ物とごはんを食べ、民家の軒先を借りて寝る毎日。

5日目、川にぶち当たる。救命胴衣をつけてモーターボートに乗り、急流をさかのぼる。水しぶきで、全身ずぶぬれになる。

ここでよくない知らせが届いた。「違法伐採の男たちは武装している」。我々も、自動小銃を担いだ国立公園レンジャーに護衛を頼んだ。

源流から、木材運搬用トロッコに乗って森に入る。最後は炎天下、トロッコの軌道上を延々と歩いた。

ジャカルタを出て7日目の午後。熱帯雨林の彼方から、チェーンソーの音が聞こえてきた。さらに進むと、木々が無残に横たわっている。

違法伐採の現場だ。

カメラを構える私を追い越して、サトウ記者が突進する。科学部は秀才タイプばかりで、彼ほど最前線で体を張る記者は珍しい。

半裸の男たちが、手に手にチェーンソーや斧を持っている。が、それを人に向ける気はないようだ。銃も見当たらない。

「もうすぐ木が倒れるよ。危ないからこっちに来なよ」

人相は悪いのに、以外に親切だ。

場所を移って安心していると・・・

 バキバキバキッ

20メートルはある大木が、我々めがけて降ってきた。


2016年8月31日

天皇の家庭教師


 森を散歩していたら、向こうからおじいさんが歩いてきた。

麦わら帽子をかぶって、ゆらりゆらりと。

あいさつすると、帽子の下で優しげな青い瞳が光っている。

 その日は朝から晴れて、この夏初めて、北アルプスがはっきり見えた。重厚な岩山の連なりを、しばらく2人で眺めていた。

 その1週間後。こちらで知り合った元国際線パイロット氏に、「明日、うちにイギリス人が来るんだけど興味ある?」と誘われた。なんでも、「中世日本(鎌倉・室町時代)で寺が社会に与えた影響」を研究する元教授だという。

 たまにはアカデミックな話もいい。でも日本史は苦手だ。難しい話を英語でやられるのも苦手。

 翌日、森の中を30分歩いてパイロット氏宅に着くと、見覚えのある人が立っている。

あの時のおじいさん。

奥さんは日本人で、本人も訥々とした日本語を話した。

名前をマーティンさんという。経歴を聞くと、ただのじいさんではなかった。英ケンブリッジを卒業後に来日し、請われて東大へ。その後アメリカに渡り、ハーバードとプリンストンで教えていたという。

絵に描いたようなインテリというか、インテリが服着て歩いているというか。

さらに驚いたことに、東大時代、彼は皇太子(現天皇)の英語教師をしていた。皇居の中までタクシーで通ったので、運転手が何度も行き先を聞き返した。

英語の勉強中、背後の水槽で魚が泳いでいた。「最近、彼が生前退位に言及したのは、公務から離れて魚の研究がしたいのでは?」とはマーティンさんの見解。

プリンストン時代は、作家の村上春樹も大学にいた。ある日ランチに招待すると、ハルキは15キロの道のりをジョギングできて、シャワーと食事の後、また走って帰っていった。「彼はとても真面目でシャイな人でした」。

マーティンさんは最近、学部長職を最後にプリンストンを定年退職。妻の母国で老後を送るために、47年ぶりに日本の土を踏んだところだという。

思いがけない出会いがある。朝の散歩は三文の徳。

毎日森を歩いていると、苔むした古い山荘が点在しているのを見る。廃屋とばかり思っていると、夏の夜、突然窓に明かりが灯る。ひっそり暮らす彼らは、マーティンさんのみならず、多彩な経歴の持ち主だ。

大学教授。外交官。指揮者。画家。パイロット。山岳ガイド。環境コンサルタント。援助団体主催者。山野草愛好家。

人生の先輩に話を聞くのが、こちらでの楽しみになった。

そんな散歩の途中、路傍にサンダルや運動靴が置いてある。気味悪いほど、あちこちで見かける。

キツネの仕業だそうだ。玄関先やバルコニーから片方だけくわえて、自分の縄張りに持っていく。

夏が終わり、山荘から人影が消えると、森はいよいよ彼らのものだ。


2016年8月26日

残暑の丸の内


 信州の森を出て、東京・丸の内へ。小学校の同窓会に出た。

42年ぶり、劇的な再会なのである。

「32年ぶりの劇的な再会」だった高校の同窓会では、私だけ当時のことをろくに思い出せず、話に加われなかった。それがトラウマになって、今回は出席にかなり勇気が要った。42年ぶり・・・懐かしさより、怖れが先に立つ

 生唾を飲んで、会場のレストランへ。すでに、当時の恩師ほか6人が集まっていた。

いきなり、目の前に座った先生を思い出せない。

 冷や汗を流していると、先生の方から「あなた誰だっけ?」。今まで数えきれないほどの子を教えてきたのだろう。そして、先生と私は半年しか重なっていないことも判明。お互い覚えていないわけだ、ということにしておく。

 クラスメートのうち2人の顔は、すぐわかった。変わってないな~、と思ったら当たり前で、この2人とはその後同じ高校に入り、卒業まで一緒だった。

 残りの4人とは正真正銘、42年ぶりの再会になる。お互い、ウッと息をのむ。当時の白黒写真を見せあい、「これがボク、こっちがキミ」と確認するうち、徐々に記憶が蘇ってきた。

今日ここに集まったのは、母校・パリ日本人小学校の当時3年生たち。クラスが10数人だったので、その半分が揃ったことになる。

親の転勤で友だちがひんぱんに入れ替わり、日本全国、世界に散らばった。長らく音信不通だった時期を経て、今回7人もが集まれたのは奇跡に近い。

日本人学校ができる前は現地校に通い、フランス人から「シノワ(中国人)!」といじめられた。帰国後、今度は日本の学校で「フランス帰り!」と仲間はずれに。思い出話をするうち、みな似たような体験をしていたことを知る。

その後親として、我が子を学校に通わせたTさん、「少しでも皆と違う子を排除する日本の子どもたちの気質は、今もまったく変わらない」と言っていた。

「学校の廊下にシャンデリアが並んでて、赤いじゅうたんが敷き詰められてたよね」「毎月のように友だちのお別れ会があって、出し物を考えるのが大変だったよね」「そうそう!」みんなの会話が弾む。ところが・・・例によって、ことごとく覚えてない。

相当ぼんやり生きていたようだ。もったいないことをした。

M君の帽子お洒落だなあ、と眺めていたら、彼はデザイナーだという。ほかにもグラフィックデザイナー、ミュージシャンなどクリエイティブな職業が多い。いちどパリの空気を吸うと、やっぱりその後の生き方に影響する。

感慨にふける私の傍でグラフィックデザイナーのE君、「あの頃、Sちゃんから日本の少女マンガを借りて読んだおかげで、絵心に目覚めた」。

・・・別にパリでなくても、目覚める場所はどこでもよかったみたい。




2016年8月17日

上司はバルチック艦隊司令官


 久しぶりの雨。車のフロントガラスに、濡れ落ち葉が張り付いている。お盆休みも終わり、季節は秋。

 いつもはシカとキツネが隣人だが、お盆の時期は、歩いていてヒトと出会う。森の中で、こんにちはと会釈を交わす。誰もが、自然な笑顔を見せてくれる。

 マダガスカルで刺繍を収集し、自宅で展示会を開いた元外交官夫人。ネパールの子どもたちの学費を集め、毎年現地に届けている女性。言葉を交わした人たちは、みな楽しげだ。リタイア世代が多く、時間にもお金にもゆとりがある様子。

 不機嫌顔が交錯する東京の月曜朝とは、まるで別世界だ。

 ちなみに外国に行くと、さらにハッピーな人が多い。タイ人やアメリカ人には、根拠のない明るさを感じる。根拠がなくても上機嫌でいること、これは大切だ。

 世界の幸福度を調べた調査によると、最貧国で治安も最悪のアフガニスタン人さえ、日本より幸福度が高い。ヒトはどんな環境にも慣れる、たくましい生きものだ。そして日本人は、平和でモノが豊富な時代に慣れすぎて、幸せ不感症。

「この国には何でもあるが、希望だけがない」 村上龍

晴耕雨読。町の図書館から借りた「坂の上の雲」全8巻を読み進め、佳境に入った。次のページは、いよいよ日露戦争の奉天大会戦と日本海海戦。

まだ日本に勢いがあった時代を描いたノスタルジー、と思っていたら、かなり違った。司馬遼太郎はなぜこの本を書いたのか、今これを読む意味はどこにあるのかに気をつけながら読むと、ゴツゴツした手ごたえを感じる。

小さな新興国家の日本が、巨人のような中国、ロシアと戦って勝った。それは相手国の退廃と自滅に助けられた、まさに薄氷を踏む勝利だった。

「この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した」(単行本第2巻あとがきより)

 そしてこの物語の40年後、日本は無謀にもアメリカと戦い、負けた。

「240万人の戦死者の7割が、餓死か栄養失調か、それに伴う病死でした。そんな無残な死に方をする戦争なんてありえません」(同じ戦中派作家の半藤一利)

「勝利が国民を狂気にし、敗戦が国民に理性を与える」(第2巻あとがきより)。遺骨収集団の取材でニューギニアに行き、密林の土から下顎骨を見つけたときの、何とも言えないやるせなさを思い出した。

 ところで、登場する将軍たちの人物描写が、とてもリアル。元サラリーマンはつい、「こんな上司、いるいる!」思わず感情移入してしまった。

支局長室のソファーでごろ寝しながら、私をインドでもニューギニアでも、二つ返事で行かせてくれたバンコク時代のボスは、陸軍大将の大山巌タイプ。

部下の出張旅費を熱心に見ては、「もっと安いホテルがあるだろ」「レンタカーはいちばん小さな車で」と言った某部長は・・・

全滅したバルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令官・・・





HIKIKOMORI

  不登校や引きこもりの子に、心理専門職としてどう関わっていくか。 増え続ける不登校と、中高年への広がりが指摘されるひきこもり。 心理系大学院入試でも 、事例問題としてよく出題される。 対応の基本は、その子単独の問題として捉えるのではなく、家族システムの中に生じている悪循...