7年前にヒマラヤを旅した時、山岳ガイドのライさんと一緒だった。
馬の背に9日間揺られ続けて尻が擦り切れ、5000メートルの峠越えでは猛吹雪に遭い、氷河の上にテントを張ってひと月を過ごし・・・2か月ずっと、ライさんと寝食を共にした。
その彼が今、日本の山小屋で働いているという。
押し入れから登山靴を引っ張り出して、久々に山を目指した。
「ミヤサカさ~ん!」登山道でさっそく、荷揚げ中のライさんと出くわす。人懐こい笑顔が変わらない。彼の休憩時間を待って、小屋で一緒にランチした。
会った当時まだ20代だったライさんは、体力抜群だがガイドとしては少々頼りなかった。33歳になった今、すっかり落ち着いた表情。あの旅の翌年、山岳ガイドとしてマナスル峰(8163m)に登頂したという。
その後のエベレスト遠征では、8848mの頂上直下まで迫ったが、体調不良の顧客に付き添って下山した。着々とガイドの経験を積んでいた。
だが、日本語が話せる山岳ガイドとして順調だったライさんの生活は、ネパールを訪れる邦人登山者の減少で一変する。
向こうで会った頃のライさんは、1年の半分はガイド稼業でヒマラヤ山中にいた。それが最近は年に1~2度、1週間ほどのトレッキングの仕事があるだけ。仕事がなくてももらえていた月給も、支払われなくなった。
彼の会社にいた80人以上のガイドは、いまや10人以下だという。
そしてライさんは、妻と9歳の娘を残して、出稼ぎにやって来た。
山小屋では早朝、まず登山客のために朝食の準備。次に食料の荷揚げ(ボッカ)で山麓へ下りる。30~40キロの荷を背負って、日に1~2往復。しばし休憩して、今度は夕食の調理と配膳。週末は260人分を用意する。
夜は従業員6人がひと部屋に雑魚寝。夏の3か月間、休日はほぼない。
ライさん曰く、辛いのはボッカと、ケータイがつながらないことだと言う。
彼がボッカを苦にするとは意外だが、ネパールではガイドとポーターが分業制で、ガイドの彼は重荷には慣れていないらしい。
そしてケータイ。辛うじてドコモの電波が拾える場所が近くにあり、週1回、スタッフのケータイを借りて家族の声を聞いている。
山岳ガイドという彼の仕事は、つくづく因果な商売だと思う。何か月も自宅を離れて、豊かな国からヒマラヤに山登りに来た人に付き添う。時には顧客のために、命をも危険にさらす。
そして豊かな国が不景気になったり、登山ブームが去ったりすれば、急に仕事がなくなる。すると今度は自分が外国へ、出稼ぎに行かなければならない。
もし彼が日本人で、自分はネパールに生まれていたら・・・?
ライさんの屈託のない笑顔に見送られて、初秋の山を後にした。ラッキーにも日本に生まれた以上、ぜいたく言うのはよそうと誓いながら・・・
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