2019年9月7日

ヒマラヤの山岳ガイド


 7年前にヒマラヤを旅した時、山岳ガイドのライさんと一緒だった。

 馬の背に9日間揺られ続けて尻が擦り切れ、5000メートルの峠越えでは猛吹雪に遭い、氷河の上にテントを張ってひと月を過ごし・・・2か月ずっと、ライさんと寝食を共にした。

 その彼が今、日本の山小屋で働いているという。

押し入れから登山靴を引っ張り出して、久々に山を目指した。

「ミヤサカさ~ん!」登山道でさっそく、荷揚げ中のライさんと出くわす。人懐こい笑顔が変わらない。彼の休憩時間を待って、小屋で一緒にランチした。

会った当時まだ20代だったライさんは、体力抜群だがガイドとしては少々頼りなかった。33歳になった今、すっかり落ち着いた表情。あの旅の翌年、山岳ガイドとしてマナスル峰(8163m)に登頂したという。

その後のエベレスト遠征では、8848mの頂上直下まで迫ったが、体調不良の顧客に付き添って下山した。着々とガイドの経験を積んでいた。

だが、日本語が話せる山岳ガイドとして順調だったライさんの生活は、ネパールを訪れる邦人登山者の減少で一変する。

向こうで会った頃のライさんは、1年の半分はガイド稼業でヒマラヤ山中にいた。それが最近は年に1~2度、1週間ほどのトレッキングの仕事があるだけ。仕事がなくてももらえていた月給も、支払われなくなった。

彼の会社にいた80人以上のガイドは、いまや10人以下だという。

そしてライさんは、妻と9歳の娘を残して、出稼ぎにやって来た。

山小屋では早朝、まず登山客のために朝食の準備。次に食料の荷揚げ(ボッカ)で山麓へ下りる。3040キロの荷を背負って、日に1~2往復。しばし休憩して、今度は夕食の調理と配膳。週末は260人分を用意する。

夜は従業員6人がひと部屋に雑魚寝。夏の3か月間、休日はほぼない。

ライさん曰く、辛いのはボッカと、ケータイがつながらないことだと言う。

彼がボッカを苦にするとは意外だが、ネパールではガイドとポーターが分業制で、ガイドの彼は重荷には慣れていないらしい。

そしてケータイ。辛うじてドコモの電波が拾える場所が近くにあり、週1回、スタッフのケータイを借りて家族の声を聞いている。

山岳ガイドという彼の仕事は、つくづく因果な商売だと思う。何か月も自宅を離れて、豊かな国からヒマラヤに山登りに来た人に付き添う。時には顧客のために、命をも危険にさらす。

そして豊かな国が不景気になったり、登山ブームが去ったりすれば、急に仕事がなくなる。すると今度は自分が外国へ、出稼ぎに行かなければならない。

もし彼が日本人で、自分はネパールに生まれていたら・・・?

ライさんの屈託のない笑顔に見送られて、初秋の山を後にした。ラッキーにも日本に生まれた以上、ぜいたく言うのはよそうと誓いながら・・・


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「好き」を仕事にしたら、そこにキョジンがいた

  小さい頃から、趣味は写真。 高校では写真部に入り、撮影旅行と暗室作業に明け暮れた。 大学では主に山岳写真を撮り、卒業して報道カメラマンになった。 「好きなことを仕事にできてよかったね」 傍から見れば、そういうことになる。 でも現実は、そう簡単ではなかった。 ...