2年ほど前、鎌倉の寺で「マインドフルネス」の手ほどきを受けた。
参加者は20人ほど。一緒にパーリ語の礼拝文を唱え、法話を聞く。
そしていよいよ、座禅を組んで瞑想だ。
その時になるまで、あぐらをかけないことを忘れていた。恐ろしく体が硬くて、地べたに座って開脚しても45度も開かない。足を組むと、後ろにひっくり返る。
それでも必死に、あぐららしき姿勢を作った。座禅が始まって10分、早くも股関節が痛い。狭い空間に人がひしめいていて、足を崩せない。腹筋に力を入れて必死に堪える。
脂汗にまみれた90分間が、永遠にも感じられた。
痛みのあまり、まったく雑念が入らなかったから、瞑想は半分成功だったのかも知れない。
いや違うか。
このマインドフルネス、世界の企業で盛んに取り入れられている。グーグルやフェイスブックで座禅を指導した曹洞宗僧侶・藤田一照のインタビューが、ハーバード・ビジネス・レビューに載っている。
マインドフルネスとは、禅やチベット仏教、南方仏教などを学んだ人たちが、それをアメリカ流に仕立て直したものだという。
だが「米国ではそもそも、無心という発想が受け入れられません」「我を強くすることに皆、熱心で、そこに疑いを持っていませんから」「それは仏教の方向とはまったく異なるものであるということです」
それでは、仏教的なマインドフルネスとは?
本来の座禅は「エゴからの出力をやめて、純粋に受信する姿」だという。「思考も、自分にとって都合のよいアイデアをひねり出そうとするのではなく、その時の条件で雲のように浮かんでくるまま、消えるままにしておく」
だから「仏教的なマインドフルネスは、生かされているという事実を細やかに知るための観測装置です」「すると、自分でコントロールできないことを、無理やりコントロールしようとしていることに気づきます」
孤独感と向き合う際にも、「余計な意気込みはいりません。淡々と、”What’t going on?” と問いかければいい」「落ち着いて孤独という病をきちんと経過させる。そうすれば前よりも成長できる」
「人は生かされていることをすぐ忘れてしまう。私が生きているというところだけを見て、もっとよい人生にしたいと思う」「この自己中心性が孤独感の源です」
そして、「究極の幸せとは、理由なく幸せということです。条件があって幸せだと、その条件を取り払われたら不幸せになる」「存在していること自体が幸せでありがたいこと」「生きているだけで儲けもの」
生きているだけで、儲けもの。
願わくは、座禅を組まずにこの境地に至りたい。
Izu Japan, spring 2019 |
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