2016年10月31日

ラットレースの行く末は


 バンコクから2時間強のフライトでシンガポールに着くと、混沌から整然へ、雰囲気ががらりと変わる。何度か、このカルチャーショックを楽しんだ。

 シンガポールの一人当たりGDPは5万2千ドルを超え、いまや日本(3万2千ドル)を大きく上回る。道行く人は忙しそうで、歩いていると次々に追い越される。同じ南国でも、のんびりしたタイとはずいぶん違う。

バンコク駐在時代、シンガポール支局にタン君という助手がいた。腰が軽い上に腰の低い好青年で、いつも進んで雑用を引き受けてくれた。

英教育専門誌が最近発表した大学ランキングでは、アジアのトップがシンガポール国立大。タン君の母校だ。能ある鷹は爪を隠す。

ちなみに、東京大はアジアの4位。北京大、精華大にも抜かれ、世界では39位だった。


 大手広告代理店で、その東大卒の新人社員が自殺し、過労死認定された。彼女は亡くなる前、「1週間に10時間しか寝ていない」とツイートした。

 私が入社したころの東大卒には、「おれはこんな所にいるような器じゃない」という気概があった。新聞社も、理不尽と長時間労働がまかり通る世界。早々に見切りをつけて、去っていく人がいた。

1週間に10時間しか寝なければ、もはや思考力は残っていない。彼女はそうなる前に、プライドを賭けて「ちゃぶ台返し」をするべきだった。

労働はしょせん、生活の手段にすぎない。24時間365日、猛烈に働くのは経営陣だけでいい。


日が暮れて、隣町の市民会館へ。ボランティアで、生活保護の子たちの宿題を見る。
 そのほとんどが母子家庭で、学校の授業についていけない子、不登校の子が多い。小学校の算数に四苦八苦する子が、実は中学生だったりする。

親が貧しいという理由で、子がハンディを負うことは許されない。でも、塾に行けない彼らの受験勉強を手助けすることには、違和感を覚える。

日本の教育は、「ブラック企業の長時間労働に黙って耐える人間」を量産している。雇われやすい人間になるのと、雇われにくい人間になるのと、果たしてどちらが幸せだろうか。安易に前者を選べば、命が危ない。

先日、一緒に英語を勉強した中学生の女子が、リストカットした。「生きていても仕方がない」と母親に訴えたという。
 14歳に生きる希望をなくさせるのは、われわれ大人の生き方がおかしいからだ。


閑散として高齢者ばかりが目立つ城下町に住んでいると、たまには人混みが恋しくなる。そういう時は、ジョギングで駅を目指す。JRと私鉄の改札口に、朝だけ出現する「都会の雑踏」に会いに行く。

職場や学校に急ぐ人の群れを、ひとりTシャツと短パン、ジョギングシューズ姿で突っ切る。そして、「もう2度とラットレースには加わらない」という思いを新たにする。

人それぞれが、自分らしく生きられる世になりますように。


2016年10月23日

国王に会いに行く


タイのプミポン国王が亡くなった。10年前、即位60年を迎えた国王をバンコクで取材した。

チャクリ王朝創立記念日の朝、ラマ一世広場に着くと、すかさず関係者が行く手を遮った。我が国の宮内庁職員に、気味悪いほど物腰が似ている。「あなたの服装では、ここから先に入れられない」という。

私は、前月のASEAN首脳会議取材で着たスーツとネクタイ姿。政治家と王様では格が違う、と言いたいのだろうか。

ロイター通信バンコク支局のカメラマン、ラティフが高みの見物をしている。「この格好のどこが悪いんだろう」と尋ねると、「もっと色の濃いズボンじゃないとダメなのさ。決まってるだろ」勝ち誇ったような口ぶりで言う。

一瞬、何もかも投げ出して家に帰ろうと思ったが、辛うじて思いとどまる。別のスーツを取りに、支局付運転手を自宅に向かわせた。

彼は途中で渋滞にはまり、式典20分前にバイクタクシーで戻ってきた。会場裏の暗がりでパンツ一丁になって着替え、警官に笑われた。

汗だくで撮影位置に着くと、すぐ黒塗りの王室専用車が目の前に横付けされ、プミポン国王が皇太子を従えて降り立った。

ファインダー越しに見る国王は当時78歳。表情に生気がない。祝賀ムードにふさわしい笑顔を狙ったが、いい写真は撮れなかった。

同じ年の6月、今度は在位60年記念式典の本番が行われた。天皇皇后両陛下をはじめ世界中から王室・皇室が集い、盛大なイベントとなった。

混雑を見越して3時間前に赴いた宮殿前は、すでに人、人、人の海。その数、30万人。

一年中暑いバンコクでも、6月はことさら暑い。雲ひとつない炎天下、さすがのタイ市民も日射病で倒れ、担架で運び出されていく。

予定時刻を大幅にすぎて、プミポン国王が宮殿バルコニーに姿を現した。大きな望遠レンズでのぞいても、豆粒にしか見えないほど遠い。

式次第がわからないまま、成り行きを見守った。国王は玉座に腰かけ、微動だにしない。そのまま1時間が経過した。

「おい帰るぞ。もう飽きた」

やじ馬気分でついてきた支局長が、うんざり顔で言う。もとより異論はない。人込みかき分けながら大通りに出て、タクシーで会社に戻った。

パソコンを開いて、つまらない写真を東京に送る。ついでに、外国通信社のサイトをのぞく。バンコク発の写真を見た瞬間、目が点になった。

プミポン国王が王妃とともに、にこやかに手を振っているではないか。まさか我々が帰った後、このような展開が待っていたとは・・・

翌日、私の写真の代わりに、ラティフが撮ったロイター電がわが社の朝刊を飾った。涙。

(ラティフはその翌年、流血のミャンマー民主化デモ取材でピュリッツァー賞を受賞した。パキスタン系米国人の彼は、とにかく粘り強かった)


2016年10月15日

人生を変える南の島 ②


・・・飛び立つ気配がない。ニアス空港が、救援機で満杯だという。

インドネシア空軍の輸送機が着陸してきた。担架に乗せられたけが人が、次々に運び出される。頭に巻かれた包帯から、血が滲んでいる。

ニアス島に向け折り返す空軍パイロットと交渉し、乗せてもらうことに成功。しっかり金を取られたが、これぞアジアの寛容だ。

離陸後1時間のフライトで、あっけなくニアス島上空へ。見下ろすと多くの建物が全半壊し、黒煙を上げている。バンコクを出て30時間、ついに現場に到着した。

空港から街までの道は、寸断されている。若者のバイクの後ろに、腹と背に大荷物をくくりつけてまたがった。亀裂を避けながら街に入ると、異様な光景が目に飛び込んできた。

建物が倒壊し、廃虚と化した街並み。死んだ女性の首が、がれきから出ている。抱き合って泣き叫ぶ親子。重機の轟音の中で続く、生き埋めになった人の救出活動。

死臭と砂ぼこりにまみれながら、機械的に写真を撮った。

すぐに夕闇が迫る。宿も全滅、今夜は被災者と公園で野宿だ。

 辛うじてつながった携帯電話で、東京に状況を伝える。カメラの画像をパソコンに取り込み、キャプションをつけて電送。だが電波が不安定で、何度も途中で切れてしまう。もう締め切り時間だ。

切り札として背負ってきた重い衛星電話機を出し、宇宙経由で写真を送った。

ふと我に帰ると、すっかり暗くなっている。自宅をなくした人が家族ごとに固まり、黙って地べたに座っている。

言葉が通じないので笑顔を向けると、すぐに人懐こい笑顔が返ってきた。そして男たちが、手早く廃材で、即席の机とイスを作ってくれた。おばちゃんが隣に座り、蚊をうちわで追い払ってくれた。

送信も終わって一息つくと、どこからともなく、カップラーメンと白いご飯が運ばれてきた。急に空腹を感じて、無心で食べた。

みんな笑顔で見ている。食事をする気配がない。

まさか・・・彼らのなけなしの食料を食べてしまったようだ。

やがてすっかり日が暮れた。島中が停電し、何も見えない。赤道直下なのに、夜風の冷たさが身に染みる。

暗闇から手が伸びて、今度は毛布が差し出された。

温もりを感じながら、地べたに寝ころぶ。惨禍を闇が覆い隠して、空には満天の星が輝いていた。


2016年10月9日

人生を変える南の島 ①


「人生を変える南の島々。」という本がある。

この冬はどこに行こうか。パラパラめくっていたら、バリ島やプーケットと並んで、ニアス島が載っている。

手が止まった。

ニアス島。インドネシアのスマトラ島から、さらに海を渡った小さな島。インド洋の大波が打ち寄せ、サーファーの人生を変える島。

10年ほど前、サーフィンもしないのにこの島に行き、忘れられない経験をした。



バンコク着任6日目。その日も外務省や大使館で、タイで働くための手続きに追われた。並行して新居と車探し。夜は仮住まいのサービスアパートで、荷物の山に埋もれていた。

出し抜けにケータイが鳴る。東京本社デスクからだ。

「インドネシアでマグニチュード8.2の大地震発生、すぐ出動準備を」

まだ引っ越しも済んでないのに。正直、ため息が出た。CNN臨時ニュースを見ながら、外が明るくなるのを待つ。

震源地のニアス島は、空港があるメダンから車で10時間、さらに船で10時間の彼方だ。かなり被害があるようだが、情報は錯綜している。

一夜明け、ジャカルタ経由で空路メダンへ。到着ロビーには、CNNテレビの大取材班が陣取っている。

同僚のシンガポール特派員は、すでにニアス行きの船に乗った。マニラ特派員も、隣のシムルエ島に向かっている。気ばかり焦るが、夜を徹して動くより明朝、一気に飛行機で海を越えることにした。

市内のホテルはどこも満室。怪しげな男に連れられて、窓のない連れ込み宿で、見知らぬ街の夜を過ごす。

翌未明、外は土砂降りの雨。バイクに座席をくくりつけた3輪タクシー「ベチャ」をつかまえ、ずぶ濡れになって空港に向かう。途中、検問所で「ベチャは空港乗り入れ禁止」と言われ、50キロの撮影機材を抱えて立ち往生。通りがかった車を強引にヒッチハイクして、なんとか空港ターミナルにたどり着いた。

ところがニアス行き定期便は、救助隊員らですでに満席。東京から来た、NテレビとS新聞の取材班も足止めを食っている。3社で有り金をはたいて、古ぼけたプロペラ機をチャーター。呉越同舟で乗り込んだ。


2016年10月2日

ランプの青白い点滅


 ナナカマドが真っ赤に色づく森から、祭り囃子が聞こえる町に下りてきた。

海を見下ろしながら、毎日のジョギング。送迎ボランティアも再開した。



「今日は注射を10本、打つんですよ。おでこに打つのが太くて痛い。もう慣れましたけど・・・」

マンションに夫と暮らすおばあちゃんは、脳梗塞と白内障。朝は歩けたのに、3時間後に病院に迎えに行くと、目がうつろ。車いすに乗せられて出てきた。

 白内障の手術後、ますます目が見えなくなった。病院では訴えを信じてもらえず、「ウソ発見器のような装置にかけられた」と怒っている。

 田んぼの中に暮らす別のおばあちゃん。1年前のひざの手術後、かえって痛みが増した。病院はいつも3時間待ちのうえ、医師が横柄で、話を聞いてくれない。別の病院にかかると言うので、高速道路に乗って大学病院に連れて行った。

 丘の上にそびえ立つ、巨大構造物。ひと目で病院とわかる、陰気で無機質な造りは、近づくだけで気が滅入る。不安げな後ろ姿を見送り、向かいのスターバックスで、ソイラテを飲んで待つ。

病院内は、いつも患者でごった返している。診察に2~3時間待ちは当たり前だ。会計にも時間がかかり、健康な人間でもしんどい。

診察と会計の後、薬の処方に2時間待ったという話さえ聞いた。

3人め、川沿いのアパートから人工透析に通うおじいちゃん。週3回、朝9時から午後まで、病院のベッドで管につながれる。

夕方、透析室まで迎えに行くと、ウナギの寝床のように並んだベッドに、びっしりと人が横たわっている。点滴がぶら下がった棒が林立し、沈黙が支配する病室のあちこちで、ランプが青白く点滅する。

おじいちゃんは淡々とした人だが、1年前と比べて、足元が危うくなってきた。歩行器にすがってゆっくり歩き、車に乗るのも大儀そう。ボランティアの会合で相談すると、「転んだら大変だし、車いすに乗せて運んだら?」と言われた。

確かに、その方が時間短縮にもなる。でも、こちらの都合で車いすを使ったら、彼はすぐ自力で歩けなくなりそうだ。そして、一度寝たきりになったら・・・あとは、坂道を転がり落ちるようなものだろう。

彼らを見ていて、西洋医学はしょせん、対症療法にすぎないと思うことがある。根治を期待して病院に群がり、医者にすがるのは、時間の無駄でしかないのかも。病気の多くが細胞の老化だとすれば、老化は医者には止められない。

老いや病を受け入れながら、自分らしい生き方をして、最後は平然と死ぬ。これからの時間で、心の準備をしておこうと思った。

会社に行かない、雇われない暮らしを始めて、2年経過。2年前は「ボーイズ・ビー・アンビシャス」だったが、最近は「置かれた場所で咲きましょう」な気分。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...