2016年6月26日

独立の闘士、自転車盗と間違われる


 イギリスが国民投票でEUからの離脱を決めた日、そのイギリス出身の友人デービッドに会った。

 昨年まで英会話学校教師、いまプータロー。独学でひらがな、カタカナを覚えたのに、日本語会話は相変わらずひどく、カタコト以前。

先週、彼は自転車で隣町を走っていて、警官に止められた。自転車が友人からもらったものと証明できずに、3時間も警察署に留め置かれた挙句、没収されてしまったという。

「日本の警察もヒマだよね」と慰めると、「彼らの英語とぼくの日本語に問題があった。時間がかかったけど、ぼくもヒマなので。それに彼らは礼儀正しかった」と、私に配慮した発言。

以前、自分の部屋でインターネットができない、とこぼしていたので、代理店巡りにつき合った。クレジットカードがないと契約できないと断られ、むくれていた。

改めてその件を聞くと、「彼女のカードで契約したからダイジョーブ」。どうやら日本人の彼女ができた様子。昨夜は彼女とその母親、妹の4人でしゃぶしゃぶパーティーだったという。

恋愛は、異国の言葉を覚える必勝法だが、それにしては成果が感じられない。相当、英語が達者な女性と思われる。

言葉を覚えなくても英会話教師の仕事はあるし、彼女もすぐできる。英語圏出身の白人はトクだ。

 ちなみに、彼はスコットランドの大学都市ダンディー出身で、決して自分のことをイギリス人とは言わない。2年前の住民投票では、スコットランド独立に一票を投じた。

 今回、スコットランド市民の6割以上がEU残留を支持した。実家の両親、兄妹も残留に投票したそうだ。彼自身、「離脱派は人種差別主義者」と決めつける。

 その離脱派が勝っちゃった、大丈夫?と聞くと、「スコットランドは再び住民投票をやる。さっさとイギリスから独立し、EUに戻るから問題ない」さらりと言う。

 彼の言う通りになれば、イギリスはイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドに分かれるのだろうか。ラグビーW杯みたいだ。

もしイギリス縦断ドライブをしたら、入国スタンプをたくさんもらえそう。

メディアは「離脱派勝利は由々しき事態」と言うが、移民や難民をほとんど受け入れない排他的な国の市民として、私にとやかく言う資格はない。

 いつの間にか、ヨーロッパは28か国もが統合され、どこまで行っても国境がなくなった。知らないうちに隣国に入ってしまうのでは、旅をしていてもドラマがない。

この際EUはやめて、徹底的に細かく分かれたらどうだろう。フラマン国とワロン国、バスク国、カタルーニャ国、コルシカ国、バイエルン国、ザクセン国・・・それぞれ、経済的に緩くつながりながら、独自の文化を洗練させる。


一個人旅行者としては、想像しただけでも楽しいのだが・・・

2016年6月19日

東京は遠きにありて想うもの


西日を浴びて居眠りしていたら、急ブレーキ。電車が駅と駅の間で止まった。

「○○駅で人身事故が発生。この電車は、区間運転に切り替えます」

関東平野の端に越して以来、めっきり東京に出なくなった。久しぶりに会社の同期と会う約束をして、都心行きの私鉄に乗ったとたんに、これだ。

この路線での人身事故は、10中8、9が飛び降り自殺。私のような中年男が多い。よく晴れた午後、ホームから身を投げる刹那に思いをはせる。

すぐに思考は現実に戻る。いったい、いつになったら運転再開するのか?隣の大学生女子2人組、スマホをいじりながら「この前は20分で事故処理終わったよね~」。人命がかくも軽い、この東京砂漠。

電車はのろのろと次の駅まで動き、再び止まった。「振り替え輸送の準備中」「運転再開は○時○分ごろの見込み」。この駅からはう回もできず、手の打ちようがない。乗り込んでくる人たちで、車内が混みあう。動く気配はない。

突然、ドーンと大音響。苛立ったおじさんが、思い切りげんこつでドアを叩き始めた。誰もが無関心を装う。

この時ちょうど、「まだ東京で消耗してるの?」というタイトルの本を読んでいた。著者は満員電車に嫌気がさし、妻と幼い娘の3人で高知の限界集落に移住した。東京では「あなたがどうなろうと、私には関係ない」という排他性が共有されているが、それは同時に「自分がどうしようもなくなったときは、自分の責任だ」という刃を内包している、と書いている。

目の前の様子を見る限り、その通りだなと思う。

1時間待ち、ようやく運転再開。その後も徐行運転を繰り返す。東京までふだんの倍、3時間以上かかった。

最近まで、本社を都心に置く会社で25年働いた。転勤で何度か、地方や海外に出たので、本社に通ったのは16年。シフト制職場で、昼頃や夕方に出勤することも多かったうえ、自由裁量で働けた時はかってに時差通勤した。

それでも実質10年以上、満員電車に耐えた。ゆとりのある地方で暮らしながら、東京の給料がもらえた転勤生活は、いま思えば天国だった。

退職後、地域で3つの組織に属している。NPOだったり任意団体だったりで、通うべきオフィスがない。毎日、人けのない道を徒歩や自転車、車で直接、現場に向かう。たまに電車に乗っても、いつもガラガラ。

この人の少なさが、快感。地方暮らしは、人間らしさを蘇らせてくれる。

東京での飲み会に出た帰り。電車の中でつい、大きな声で友人に「たまに乗ると、満員電車も新鮮だね~」と言ってしまった。

 朝晩、満員電車にもまれる彼は、笑っていた。

 心の広い友だ。

2016年6月13日

ドライブの同乗者


 朝食前に市内をドライブ。初夏の風が、頬に心地よい。

途中で車いすのおじいちゃんを乗せ、急坂にかかる。愛車は、電動リフトがついた福祉車両。軽自動車でも、重さ1トン。ろくに進まず、足で漕ぎたくなる。

今日の行き先は、山麓の病院。戦時中、負傷兵の療養所だった古い建物。

 退職、引っ越ししてすぐ、この仕事を始めた。バンコクや信州にいるとき以外、週3~4日ハンドルを握る。基本的にボランティアだが、NPOの規則で「迎車料金」「介助料金」として、片道数百円を受け取る。

運転免許の有効活用。技量の維持。町の地理を覚えられる。地元のお年寄りと顔見知りになる。小遣い稼ぎ。そして、たいてい喜ばれる。一石六鳥。

今朝のおじいちゃんは、乗ったときからしゃべりっぱなし。彼は昨年、新しく2世帯住宅を建て、娘一家と暮らしている。新生活を始めたものの、娘とはなにかと衝突し、中高生の孫2人ともすれ違う。耳が遠くなり、よけい会話がかみ合わないようだ。

はあ。ほう。ふ~ん。

年を取っても、それなりに悩みはあるもんだ。

料金所を過ぎてバイパスに乗れば、左手には青い海。漁船が白波を立てている。正面には、深緑の山並み。

おじいちゃんの声が止む。バックミラーを覗くと、窓から外を見ている。故郷の風景が、いっとき全てを忘れさせてくれる。

ある日、小柄なおばあちゃんを乗せた。町はずれの市営アパートにひとり暮らす彼女も、病院までの20分間をしゃべり倒す。

「きれいに咲かせた庭の花、夜中に除草剤まかれて、全部枯れちゃった。犯人は絶対、○号室の人。出歩けなくなってから、花だけが生きがいなのに」

 病院で診察を終えた帰り、唐突に「ホームセンターに寄って!」

慌てて左折。車を店の駐車場に置き、カートを押してお供する。30分かけて、鉢植え5個、腐葉土10キロ、肥料5キロをお買い上げ。アパートまで運ぶのが大変だったが、その頃には機嫌が直っていた。

今日2人めも、そのおばあちゃん。病院ではなく、銀行に行きたいという。

一昨日、通帳とカードをなくし、家じゅう探した。心配で食事がのどを通らず、2日間ジュースだけ。けさ、たんすの引き出しから発見。紛失を知らせた銀行に再び連絡すると、「電話でなく窓口に来て下さい」と言われた。

銀行からの帰り道。腰が曲がったおばあちゃん、助手席でさらにうなだれている。違う印鑑を持ってきてしまい、お金を下ろせなかったらしい。

しばらく黙っていたと思ったら、やおら「吉野家に寄って! 牛丼食べたい!」

足の不自由なおばあちゃんに代わって、駅前の吉野家に使い走り。牛丼並盛を持ち帰る。車内がつゆの臭いで充満する。アパートの玄関先で牛丼を手渡すと、

「吉野家の牛丼、何年ぶりかな・・・少し気が晴れた」

焦って怒ってしょんぼりして、最後に笑顔が戻った。


この1年で、車に乗せた2人が亡くなった。他愛ない会話を大切にしたい。



 

2016年6月8日

35年目の同窓会


フェイスブックにメッセージが届いた。卒業以来会っていない、高校山岳部時代の後輩だ。「顧問のI先生が退職します。久しぶりに集まりましょう」。

フェイスブックのアカウントは持っているものの、あまり発信しない。世を忍んでいるつもりが、見事に探し出された。これだから実名SNSは怖い。

高校生の頃、もの静かなI先生をリーダーに、奥秩父や八ヶ岳を歩いた。あの日から、35年がたった。

懐かしく思う半面、会うのが怖い。彼らを目の前にして、もし誰が誰だかわからなかったら・・・

押入れの段ボールから、色あせた山日記を掘り出す。東京に向かう電車の中で、必死になって予習。モノクローム写真の中に、17歳の自分がいる。

緊張して会ってみると、心配は杞憂だった。みんな、50歳になっても高校生の面影、しぐさが残っている。眠っていた記憶がよみがえった。

当時の母校は、私の入学でやっと3学年そろった新設校。生徒の3分の2が女子で、3分の2が帰国子女。先生は20代が多く、自由だが無秩序な学校だった。

部活もいい加減で、教師には生徒を引率する気がまったくない。単独行が好きなI先生、合宿の途中で「じゃあ」と言って、ひとり山奥に消えていった。

生徒も生徒だ。I先生の記憶では、彼が遅れて山小屋に着くと、いつも勝手に酒盛りが始まっていたという(私はぜんぜん覚えてない)。いまでは大学さえ飲酒に厳しいのに。

お互い、空白の30数年を埋め合う。「外資系8社を渡り歩きながら、長唄と三味線を続けている」「写真学校で学び、撮影でナミビアに通っている」「文化財の修復を生業として、仏像と向き合う毎日」「放送記者として南米に駐在」「会社員の傍らステンドグラス作家に」「大学で馬術部、いま動物病院の院長」。

単線的なキャリアを歩く男子より、女子の物語が起伏に富んで面白い。

私はというと、とても単純。高校では山岳部と写真部を兼部。大学では山岳部に入部。そして就職は新聞社の写真部。早期退職するまで、会社のお金で7回ヒマラヤに行く。35年間、いつもカメラ2台を首から下げていた。

この歳まで山登りをしているのも、自分だけみたい。口々に「ミヤサカさんがいちばん、高校時代と変わってない」と言われる。指摘されて初めて、好きなことを続けられた我が身の幸運を知る。

幸運といえば、16歳のあの頃、マニキュアつけて山に来た後輩がいた。4年前に大病を患った彼女は、ICU(母校の名前でない方)で生死の境をさまよった。今日ここで再会できたのは、天が彼女に味方したから。

健康であることが当たり前だった日々は、皆すでに過去のことだ。「体を大切にして下さい」。彼女のことばに、全員がうなずいた。

ふと手元をのぞく。相変わらず、きれいなネイルアート。

幸運に感謝した。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...