2015年12月31日

プロであり続けることの難しさ


 新聞社のカメラマンというのは、本当に大変な職業だ。他人事となって1年たった今、つくづくそう思う。

 1日5~6回ある締め切りに追われるように働き、休日も電話1本で呼び出される。ひとたび現場に出れば、頼れるのは自分だけ。決定的瞬間を撮りっぱぐれたり、ピンボケ写真でも撮ろうものなら、翌日の新聞に隠しようのない事実としてさらされる。

 他人事になって、本当によかった。今だに夢でうなされる。

 報道カメラマンは、ニュースの第一線に立ち会える。今をときめく旬な人にも会える。人生の一時期を彩るには、実に面白い仕事である。でも一生続けるのは無理、というのが個人的な感想。

 たとえば、事件取材やスポーツ取材には、瞬間を捉える反射神経が必要だ。50歳すぎて、20~30代と対等に渡り合うのは難しい。

よい撮影位置を確保するために、脚立や重い撮影機材を抱え、ヨーイドンでライバルと競争する必要もでてくる。

逆に、いつ訪れるともわからない「その瞬間」のために、極寒のなか、あるいは酷暑のなか、立ったまま何時間も待つこともある。

そして、報道カメラマン最大の敵は「慣れ」ではないかと思う。

ひとつとして同じ現場はないのだが、経験を積んでくると、「この状況なら、次はこうなる」と読めるようになってくる。

すると、いい写真のために敢えてリスクを冒すより、見飽きたアングルではあるが、より確実に撮れる方に流れる。いつしか仕事が、ルーティンワークになる。

このようにして、腐敗臭が漂う「ベテラン報道カメラマン」ができ上がる。

ひと頃、国内外の地震や津波の現場をはしごするようなことがあった。悲惨な光景を目の当たりにしながら、「前の現場に比べれば、大したことはない」と思う自分がいた。事実を余すことなく読者に伝えよう、という気力が湧かなかった。

その頃から、私には腐敗臭が漂い始めていたと思う。

ところが同僚の中には、いるのである。何年たっても初心を忘れず、より斬新なアングルを求めて考えを巡らし、労をいとわずに走りまわる人が。

ある時、たまたま同じ現場で働いて、彼我の間に横たわるあまりの差に愕然とした。

この恐るべき体力と精神力のスタミナは、どこから来るのか。いくら考えてもわからなかった。

情熱を失わなければ、努力できる。飽きないというのも、ひとつの才能だろうか。私にはとても真似できない。

できればもう一度、寝るのも忘れ、食べるのも忘れるほど熱中する「何か」がしたい。

50歳すぎて、またイチから自分探しである。


2015年12月26日

今年出会ったことば


 会社を辞めてはや1年。新しく出会った人たちから聞いた、印象に残るひと言。



「自由100%、寂しさも100%」

 3年のリハビリで、車いすを捨てて再び歩きだしたユリコさん。医者の診察後、街で食事や買い物を楽しんでいるという。「自由を取り戻しましたね」と水を向けて、返ってきたのがこのことば。「息子は嫁に取られ」、箱根おろしが吹く山間の市営住宅にひとり暮らす。



「ミヤサカ君、歳取って最後にものをいうのは金だよ」

 老人ホームに入った奥さんの元に、週3回通うMさん。以前は2人でそれぞれ個室に入居し、月50万円かかっていた。自らは何とか自宅に戻ったものの、なりわいの不動産屋は開店休業状態で「もう破産しそう」。



「あたしゃツライよ」

 台湾から来た4歳のアミちゃん。幼稚園が終わった後も、英語や水泳、バレエなど、習い事がてんこ盛り。午後8時すぎの日本語教室で、切り絵で遊びながらポツリと漏らしたひと言がこれ。教育熱心なお母さんは、私大医学部の授業料がいくらかかるか、周囲の日本人に聞いて回っている。



「男の人から花を頂いたの、生まれて初めて」

 ユキエさんを医院に送った待ち時間、スーパーをのぞくと花束が売られていた。明日で90歳になる、と聞いたのを思い出し、買って別れ際に手渡した。ユキエさんはずっと独身で、幼稚園の先生を40年務めた。



「お母さんのカーシャが食べたい」

 カーシャはロシアの伝統的な朝食で、そば粉や麦、牛乳で作ったお粥。カーシャが食べたいソフィアも金髪に碧眼、八頭身のロシア美人だ。日本人男性に嫁ぎ、義父母と4人で丹沢山ろくに暮らすが、最近はいささかホームシック気味。日本語学習の一環とはいえ、「好きな食べ物は何ですか?」と聞いてしまったのを後悔した。



「長生きなんてするもんじゃない」

 ユキコさんは昭和7年、浅草生まれ。腰痛に加え、腎臓にも持病がある。6人きょうだいの長女で、戦争中は空襲警報のたび、妹を背負って防空壕に避難した。「痛みを我慢しながら生きても仕方ない」と言われ、うまく返せなかった。次に送迎する機会があったら、なんとか楽しい話題に持っていきたい。

※「Vulnerable な人びと」のシゲコさんは先週、入院先で亡くなった。ただ1度病院に送っただけだが、印象深い人だった。一期一会。謹んでご冥福をお祈りします。


2015年12月19日

新幹線で30分のユートピア


 東京から80キロ離れて1年。

 海と山に囲まれて暮らし、土地の恵みを享受している。

 先日、マイカー代わりに使っているレンタカー屋のお姉さんから、泥だらけの大根をもらった。おいしかった。

 東京でも、マイカー代わりにレンタカーを使っていた。東京では、ちゃんとガソリン満タンで返却したか、疑わしげに給油口を開けられたりした。泥付き大根なんてくれなかった。

 台湾から来たアミちゃん(4歳)のお母さんは、大根の葉をくれた。ボランティア仲間のタカノさんからはシイタケ。時々、通院に付き添うカヤモトさんからは生姜と里芋。自家製梅のジャムをくれたおばあちゃんもいた。

 オカダさん宅で「ミカンいるだけ持ってけ」と言われた時は、「昨日もらったばかりなので・・・」と、断らざるをえなかった。

 ジョギングで街はずれを走っていると、あちこちにミカン畑がある。熟れたミカンがたわわに実って、地面にボトボト落ちている。頭上では、カラスや小鳥たちが飽食してゲップをしている。

 知り合いのおじいちゃんは、「うちにもミカン畑があるけどよう、足が悪くなってからは行けないんだわ」と言っていた。たとえ収穫しても、1キロ2~3円にしかならない。草刈りだけは、シルバー人材センターに頼んでやってもらうという。

 農家の軒先にはミカンが山積みになっていて、「ひと山100円」と書かれた集金箱が置いてある。なぜか街中のヒライ書店でも、ミカンひと山100円で売っていた。

実情を知ってしまうと、100円でも高いと思う。この辺でミカンは、買うものでなく拾ってくるものだ。

もちろん、もらいものだけでは生きられない。でも東京のように金がすべてで、金がないと飢え死にする雰囲気はない。気持ち穏やかに暮らせる。

さて、今年も忘年会シーズン。師走を日本で迎えていることもあり、個人的に史上最多、8回の忘年会をこなしている。今、半分終わったところ。

会費がタダだったり、1000円、2000円だったりするのは、安い店が多い上に、所属する組織から補助があるからだ。東京・大手町界隈のオフィシャルな忘年会では、店がまずくて高い上に、会社の補助などないので、8000円取られていた。今年は1万円と聞く。

いまや一部大企業より、NPOやボランティア団体の方が潤っているかも知れない。

地元の忘年会が終わった後、自転車で5分走れば帰宅できてしまうのも、とても気に入っている。


2015年12月12日

Vulnerable な人びと


 5階建て市営団地の最上階に、足と心臓の悪いシゲコさんは暮らしている。

 月1回の通院日に、車いす仕様の介護車両で迎えに行く。団地の入り口で待つが、シゲコさんは現れない。

エレベーターのない団地の階段を、5階まで上がる。呼び鈴を押そうとすると、マジックで「ドアをノックして下さい」とある。数回ノックしたが、応答がない。自宅の電話に掛けてみると、留守電になっている。

 団地の周りをウロウロしていると、自治会長のおばちゃんが出てきた。事情を話すと「シゲコさんはね、前も薬を飲みすぎちゃって、救急車で運ばれる騒ぎがあったのよ」と、少し迷惑そうに言う。そのまま、どこかへ行ってしまった。

 我がNPOのボスが、ヘルパーに連絡してくれたが、どうにもならないという。一緒に飲んだばかりの、社会福祉協議会のHさんに助けを乞う。合鍵を持っている民生委員に当たってくれたが、電話がつながらない。

 なおもウロウロしていると、1階のおばあちゃんが買い物かごを下げて出てきた。シゲコさんが下りて来ない、と話すと顔色を変え、「あの人は一人で出歩けるような人じゃない。部屋で倒れてるかも知れない」と言う。

 以前、シゲコさんを病院に送ったことが1回だけある。会うなり「これ持って!」と手提げを突き出し、やおら四つん這いになって、団地と車道との段差を降り始めた。ぶっきらぼうな口調で、北海道の寒村で生まれたこと、16歳で出会った夫と最近死別し、息子とも離れて独り暮らししていること、子どもの頃「明日おじさんが死ぬ」と予言したほど霊感が強いこと、など話してくれた。

 再度、一緒に5階に上がる。「そんな叩き方じゃ聞こえないよ」と、おばあちゃんはドアをガンガン叩き、「シゲコさ~ん」と叫ぶ。応答なし。

反対側から非常階段を上り、柵を乗り越えバルコニーに不法侵入を試みる。窓にはカギがかかっており、中の様子はカーテンで見えない。前回、救急隊員は風呂場の窓から室内に入ったそうだが、その方法も使えない。

 1時間以上が経ち、次の予定があってその場を離れた。後で聞くと、シゲコさんは部屋で動けなくなっていて、救急搬送されたという。間一髪だった。

 人工透析と腰痛のため週3回、病院通いしていたシズエさん。車に乗っている間じゅう、「痛い、痛い」とうめき声を上げる。本人はもとより、乗せる私も地獄だった。シズエさんは先月入院したまま、いまだ連絡がない。

白血病で毎週の輸血が必要だったカズコさんも、ある日病院に送っていくと、そのまま緊急入院してしまった。残された夫も足が悪く、一人ではどこにも行けないはずだ。その後、送迎の予約が入らないので、チャリンコで様子を見に行く。自宅はすべての雨戸が閉められ、ひっそりと人けがなかった。

腎臓病で週3回、透析に通うサトルさん。いつもは15分前に、歩行器にすがってアパート前で立っているのに、今日は姿が見えない。そういえば最近、透析中に血圧が下がってしまい、処置に時間がかかることが多い。

ドアを叩き、名前を呼ぶ。緊張が走る。

何度目かで、「鍵開いてるよ~」と眠そうな声で返事があった。「どうしたの~?」「もう8時半です」「え、そんな時間?寝坊しちゃったな~。まだ朝ご飯食べてないし、どうしようかな~」「でも病院の予約があるんですよね」「そう、そうだよね~。じゃあ行きますか~」「・・・・・」

この人は・・・大丈夫だ。



2015年12月6日

パスポート・パワー


 南の国へと、旅立つ季節がやってきた。

 パスポートを出してみると、ページに余白がない。

 増補分を含めた90ページが、最後の1ページを残して出入国スタンプで埋まっている。有効期限は残っているが、更新が必要だ。

 一時期、2週に1回ペースで海外出張をしていた。

 そういう世界に憧れて新聞社に入ったとはいえ、過ぎたるは猶及ばざるが如し。もう一度、似たような暮らしをしたいとは思わない。

 いまは、いろいろ調整しながら、生活のペースを自分で決められる。これぞ人生。このまま、雇われない生き方を続けたい。

 よくぞ日本人に生まれけり。心からそう思うのは、外国に着いたときだ。

見知らぬ国の空港に降り立ち、イミグレに並ぶ。入国審査は厳重を極め、行列が遅々として進まない。いよいよ自分の番になり、緊張して菊の御紋入り赤パスポートを差し出す。

 何も聞かれずポン、とスタンプが押され、ひとりだけ90秒で終了。

 そういう経験が、1度や2度ではなかった。

 タイに住んでいた時、何度かアフガニスタンに出張した。バンコクにはアフガン大使館がなかったため、その都度マレーシアのクアラルンプールまで「ビザ取り出張」に出ていた。即日発給されないので、毎回2泊3日。今こんなことをしたら、会社の経理に何を言われるかわからない。

 在マレーシア・アフガン大使は大の親日家。面接では「何か困ったことがあったら連絡しなさい」と、カブールの自宅電話番号まで教えてくれた。ビザ更新で一緒になったアフガン人は、国外に出るのがどんなに大変だったかを切々と訴え、どこでも行ける私のパスポートをとても羨ましがった。

 仕事で南太平洋の島に行った時、オーストラリアの空港を経由した。私のパスポートには、アフガニスタンやパキスタン、イランなどの入国スタンプがベタベタ押されている。それを見たイミグレの係官は、即座に私を行列から引き離した。

いつもと全く逆のことが起きた。公衆の面前で、スーツケースの中身を全部ひっくり返され、洗濯前のパンツ含め、所持品を詳細に調べられた。オーストラリアに対する私の心証は急降下した。

「ならず者国家」などと勝手にレッテルを張られた国の人たちは、この種の屈辱を日常的に味わっているわけだ。本当に理不尽だと思う。

カナダの金融機関が発表した「パスポートパワー・ランキング」では、ビザなしで渡航できる国の数を調べている。首位は米国と英国の147か国。アジアのトップは意外にも?韓国で、145か国。日本は143か国で8位だった。韓国とは、アフリカや中南米諸国への外交力で差をつけられたか。

次にパスポートを更新する頃、60歳になる。不慮の事故さえなければ、まだまだ外国に行けるぞ。

夢見る男の横から、妻のひと声

「不慮の金欠で、どこにも行けなくなったりして」



肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...