2015年11月29日

アジアで走れば③


中国・浙江省杭州は、街の真ん中に西湖という大きな湖がある。

湖畔には、共産政権前からの老舗ホテルやレストランなど、古い建物が並ぶ。柳の枝が風になびき、小雨が沛然と降るさまは、水墨画の世界を彷彿とさせる。

アンケートでは、市民の生活満足度が中国一高いそうだ。

2008年、北京五輪の聖火リレーがパリで妨害された。フランス資本のスーパー「カルフール」が、中国各地で報復の焼き討ちにあった。杭州市民だけは穏健で、当地の「カルフール」は変わらぬにぎわいを見せたという。

その年の5月、五輪関連の出張で杭州に行き、窓から湖が見渡せるホテルに泊まった。数日滞在し、次の目的地・雲南省昆明に空路向かう朝。ついに欲望に負けて、西湖一周ジョギングを敢行した。

湖は大きい。多少は理性が働いて、橋と中州を通る短いコースにしておいた。

それでも15キロある。

中国有数の観光地だけあり、週末の湖畔は人出が多い。幸い、平日の今日は快適に走れる。周回道路に面した広場のあちこちで、おばさんたちが太極拳や社交ダンスの練習をしている。

1時間半ほどで走破。シャワーを浴び、フライトまでの時間をホテルでくつろいでいた。

部屋に、不吉なケータイの着信音が響く。東京本社のデスクからだ。

 「四川省で大きな地震が・・・北京や、遠くバンコクでも揺れたらしいよ。気がつかなかったの?」

「ちょうど走っていたもので・・・」

とは言わなかった。マグニチュードM8の巨大地震だ。

テレビのチャンネルを回す。BBCでもCNNでも、番組を中断して臨時ニュースを流している。ただ事ではない。

案の定、次の電話で

「とにかく現場に向かってくれ」
と、出動命令が出た。

被災地に近い成都空港は閉鎖されている。まず重慶に飛び、タクシーをつかまえて現場を目指す。

英語が全くわからない地元の運転手と、中国語が全くわからない私。真夜中の山道は、漆黒の闇。行けども行けども、何も見えない。朝刊の締め切り時間が、無情にも過ぎていく。

「今朝走るんじゃなかった・・・体力を温存しとけばよかった・・・こんな時に大地震? よりにもよって・・・」

ひとりつぶやく午前3時、異国の後部座席。

(出張先で新潟県中部地震に出くわして以降、なぜか私の行く先々で地震が起きた。同僚記者からは「地震男」「頼むからこっちに来ないでくれ」と疎んぜられた。四川大地震に遭遇したこの時、ふつう企画出張では使わない衛星電話を持参していて、2週間に及んだ被災地取材で命綱になった。虫が知らせたのかも知れない)





2015年11月25日

管理職からの逃亡と、無理やりダイバーシティ


 日本や外国を旅して、写真と文でルポルタージュを作る。時には、会社の金でヒマラヤ登山もしたい。

 新聞社に就職した当初の入社動機は、断続的に20年余り、かなえられてきた。

 いずれ自分も現場を離れ、管理職になる。その日が来ることはわかっていたが、見て見ぬふり。報道カメラマンを志す者にとって、朝から晩まで社内にこもって管理業務をすることは、キャリア上の〝死″を意味した。

 40代になり、いよいよその時が近づく。先輩たちを見て、自分も本心を偽りながら管理職を務めることができるのではないか、と都合よく考え始めた。

甘かった。

 朝夕刊を作るための編集会議。社内では「立ち合い」とか「土俵入り」と呼ばれている。初めて出た時の絶望的な気分は、今だに覚えている。

 会議スペースを埋める、見渡す限り灰色一色の群れ。政治部、経済部、社会部、国際部、地方部などなど、取材部デスクたちのくたびれたスーツ姿が並ぶ。LGBTもクソくらえとばかり、揃いも揃って「日本人・中高年・男」たちだ。みな、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。澱んだ空気に、窒息しそうになった。

 私自身、立派な「日本人・中年・男」である。自分の属性だけは変えられない。見かけだけでも個を貫こうと、スーツやネクタイを着けず、柄シャツを着用。勇気ある行為、と自画自賛したが、最後まで無視された。

 (他本社には、短パンとサンダルで編集会議に出席し、局長に「ここはビーチか」と言わしめた豪快な先輩がいる)

 弱小部署の中間管理職は、権限がないに等しい。新聞製作の中枢に飛び込んでみて、写真はしょせん、記事の添え物としか扱われないことを思い知らされた。そのくせ、自分や部下が失敗した時だけは責任を取らされる。割に合わない。

 恵まれていた現役時代との、あまりのギャップに夜、眠れなくなった。心療内科の門を叩く。毎日ジョギングしていると言ったら、門前払いを食いそうになる。なんとか大量の抗不安剤を処方してもらい、規定の2倍ずつ飲んで、苦難の日々を乗り越えた。

やがて無能ぶりが認められ、配置転換してもらうことができた。

 中高年の日本人(男)が作る、中高年の日本人(男)のための新聞。そんな新聞に未来はあるのか。

 携帯電話で世界を席巻したノキアが、あっという間に没落した一因は、経営陣が「フィンランド人・中高年・男」という画一的な集団で、変化に対応できなかったためと言われている。

 政府が管理職の女性比率を引き上げる数値目標を課すせいか、最近会社が急に女性管理職を増やし始めた。「立ち合い」にも、女性の姿が目立つようになったという。その陰で、ろくな準備期間もなしに登用された一人が、心を病んで休職したと聞き、私は言葉が出なかった。その人には在職中、とても世話になっている。 

 女性はもちろん、レズやゲイやバイやトランス、オカマちゃん、外国人などなど、が参加すれば、会議はがぜん楽しくなる。議論百出、面白い新聞ができそうだ。でも会社側が、体面だけで多様性を追求すれば、ただ犠牲者を生むだけ。組織はむごいことをする。

 与えられた仕事が辛くて、心身にまで影響が及びそうになったら、とにかくその場を逃げてほしい。仮病でも降格願いでも脅しでも、どんな手を使ってもいい。世の中、病気になってまでやらなければならない仕事など、ない。

 逃げてもいい。逃げるが勝ち。逃げた方が楽しい。会社を辞めても大丈夫。

 私が証明する。



2015年11月20日

アジアで走れば②

2002年に独立した新しい国、東ティモール。

独立前後の激しい内戦から脱し、初の国政選挙が実施された2007年7月の首都ディリは、落ち着きを取り戻しているように見えた。

だが経済は破綻状態で、失業率は高い。目つきの悪い若者たちが、街角にたむろしている。唯一まともに泊まれるホテルの窓ガラスは、銃弾が貫通した穴が開いていた。

国連平和維持部隊のオーストラリア兵が、自動小銃の引き金に指をかけて市内を巡回している。

街外れの丘の上に、両手を広げたイエス・キリスト像がある。ホテルから、片道7~8キロほどか。街を流しているボロボロのタクシーを捕まえて丘まで行き、よく海沿いをホテルまで走った。

日中はとてつもなく暑いので、ちょうど途中で日が暮れるぐらいの時間を見計らってスタートする。すると、「真っ赤な夕陽に向かって走る」ヒーロー気分が味わえる。

こんなことばかりしているので、報道カメラマンとしては、なかなかヒーローになれなかった。

それはさておき。

走りながら見下ろす南太平洋の海は、底が見えるほど透き通っている。いつの日か治安が安定し、海岸が観光客でにぎわう日が来るだろうか。いまは非番のオーストラリア兵たちが、マッチョな上半身むき出しに、砂浜を走ったり泳いだりしている。

その日もひとっ走りしてホテルに戻ると、顔なじみになったフロントの女性に

「どこに行ってたの?」

と聞かれた。

「ちょっとキリスト像までジョギングに・・・」
と答えると、

「Oh、デンジャラス! あの辺は治安が悪いですよ。明日からは私の息子と一緒に行きなさい」

と、親切に言ってくれた。

だが、その脇で無邪気にジュースをすすっている彼女の息子は、どう見てもまだ小学生。小学生に護衛される私は、いったい何なんだ。

彼女の言う「デンジャラス」がどの程度のものなのか、にわかには計りかねた。

その答えは、私がバンコクに戻った7か月後に出た。ジョギングコースにほど近い大統領と首相の私邸が、失業した元兵士たちに襲撃された。銃弾を浴びたホルタ首相(当時)は空路、オーストラリアの病院に緊急搬送され、危うく一命を取り留めた。

そんな事件があってもなお、あの時は危なかったという気はしない。

会社を辞めたいま、東ティモールは遥かな国。いつかひとりの観光客として訪れ、成長した彼と一緒に、またあの静かな海沿いを走りたい。




2015年11月15日

アジアで走れば①


早朝ジョギングで派手に転んだ。

場所は駅前。すぐ起き上がり、何事もなかったような顔をして走り続けたが、恥ずかしかった。

家に帰って調べてみると、手のひら、肘、膝から出血している。

今までだったら、路面に凹凸があっても、とっさに体勢を立て直せたはず。バランスや筋力が衰えてきたとしか思えない。また鍛えなおさないと、この冬にバンコクの悪路で走ったら骨折ものだ。



話は飛んでパキスタン。バンコク駐在時代に、イスラマバード・マリオット・ホテルを出張でよく利用した。

ライティングデスクの引き出しに、ジョギングマップが入っている。タフでなければエリートにあらず、旅先でも運動を欠かさないアメリカ人ビジネスマンを顧客に持つ、米系ホテルらしい気配りだ。

単純なアメリカ人たちと一緒にはされたくないが、私も相当なジョギング中毒。学生時代から30年来の習慣で、

「走らないと病気で死ぬ」

と本気で思っている。

出張にもシューズ持参で、隙あらば走っていた。



ここイスラマバードでも、さっそく地図片手にホテルを飛び出す。

混沌のパキスタン。路上はホームレスや聖職者、馬やロバからテロリストなどで埋め尽くされ、普通はとても走る気になれない。だが、首都イスラマバードだけは例外。整然とした計画都市で、弁護士などのホワイトカラーや富裕層が多く住む。歩道も整備されていて、外国人が走っていても違和感なさそう。

空気が乾いて、気候も程よい。

気持ちよく走り出す。バンコクからの長いフライトの疲れが、汗とともに流れていく。

地図に従って角を曲がる。

と、道の真ん中が鉄条網で塞がれている。張り詰めた空気。

土のうの奥で人影が動く。自動小銃の銃口が、いきなり私のこめかみに向けられた。

訳もわからずバンザイしながら必死で笑顔を作り、あわててUターン。

ホテルが見える場所まで戻ったところで、どっと冷や汗が流れた。

いつの間にか、泣く子も黙る諜報機関、ISIの敷地に紛れ込んでしまったようだ。

いい加減な地図のおかげで、大変な目に遭った。



※イスラマバード・マリオット・ホテルは、私が泊まった半年後の2008年9月、爆薬を満載したトラックが突っ込んで炎上し、死傷者300人余を出した。現在は営業を再開している。


2015年11月8日

マラリア発 破傷風行 ②


 さっそく飛行機を押さえなければ。パプアニューギニアからパキスタン、気が遠くなるほどの距離だ。いったい、どうやって行けばいいんだ。

インターネットさえ通じれば、すぐに最短経路や空席状況を検索できる。だがここニューギニアのジャングルにネット環境はなく、宿のフロントに怪しげな固定電話があるだけ。とりあえず、バンコクのタイ人助手を電話でたたき起こそうか。

ふと思いついて、クレジットカード会社が会員向けに提供している24時間アシストサービスに電話してみる。ニューヨークのコールセンターにつながり、女性スタッフは私の窮状を聞くと、さっそく調べてくれた。

パキスタンのイスラマバードまでは、ポートモレスビー、ケアンズ、シンガポール、ドバイ、カラチ経由が最も早いとのこと。ケアンズ~シンガポール間は席も押さえてくれる。他のフライトは、空港で直接空席を当たるしかないというが、親身な対応に感激する。

翌未明、宿の車でウエワク空港まで送ってもらう。チェックイン後、手荷物検査もなしで飛行機に乗り込むことができた。この辺の空港は、乗客をテロ犯と疑ってかかる習慣はないようだ。

途中マダンを経由して、まずポートモレスビー着。治安が悪いことで有名な空港だ。国内線ターミナルから国際線ターミナルへ、強盗に用心しながら駆け足で移動する。

ポートモレスビーから、同じくエア・ニューギニーでオーストラリアのケアンズへ。次にエア・オーストラリアでシンガポール。シンガポールから、エミレーツ航空の夜行便で砂漠の街、UAEのドバイ。ドバイから同じくエミレーツで、アラビア海を越えてパキスタンのカラチ。カラチからパキスタン航空国内線で、被災地にほど近い首都イスラマバードへ。

飛行機を5回乗り継いで、30時間。ウエワクを出た翌日の夕暮れに、イスラマバードにたどり着いた。すぐに車で、日本の緊急援助隊を追って夜の山岳地帯に分けいる。

その晩は、車中で夜を明かした。被災地の夜は、氷点下近くまで冷え込んだ。

やがて夜が明けると、石積みの民家が軒並み倒壊し、あたり一帯ががれきの山と化した光景が目に飛び込んできた。死者9万人、負傷者10万人余に及んだパキスタン北部地震。この日からカメラを担いで、震源地を駆けずり回った。

病院は倒壊し、仮設テントの救護所には負傷者があふれている。手に入る食料は、ビスケットと水ぐらい。電気や上下水道などのインフラが破壊され、衛生環境は日に日に悪化していく。

バンコク赴任時、破傷風と狂犬病の予防接種を受けてきた。学生時代のアジア放浪で、A型肝炎と赤痢に罹ったので、その免疫も残っている気がする。

でも数日前まで、マラリア汚染地域であるニューギニアの密林で、毎日蚊に刺されまくった。

この状況でマラリアを発症したら、生きて帰れないかも知れない。

ふと我が身を省みて、背筋に悪寒が走った。




 

マラリア発 破傷風行 ①


私が新聞社のバンコク駐在カメラマンだった2005年当時、海外駐在カメラマンは3人。それぞれニューヨーク、ロンドン、バンコクをベースに、世界を3分の1ずつカバーしていた。

 地球儀で見るの守備範囲は、西はアフガニスタン、東はニュージーランドや南太平洋の島々、北はモンゴル、南は・・・南極までのようだ。

 この範囲、厳密に決められている訳ではない。バンコク赴任前に上司に確認すると、
「どこ行ってもいいよ」
と言われた。

赴任した年の7月、ロンドンで同時爆破テロが起きた。出張先のシンガポールでBBCを見ながら「ロンドンは大変だなあ」と思っていたら、東京から電話でロンドン行きの指示が出た(結局は行かずに済んだ)。その後も東京の要請で、ロンドン管轄のはずのイランやヨルダンまで出張した。

「どこ行ってもいい」はつまり、「どこまでも行け」という意味だった。

戦後60年にあたる2005年10月、厚労省の遺骨収集団に同行して パプアニューギニアに渡った。バンコクからシンガポール、ブリスベーン、ポートモレスビーを経由して、ようやく3日目にかつての激戦地、ニューギニア島北岸ウエワクにたどり着いた。

 昼なお暗い熱帯雨林での遺骨収集も10日目、明日は遺骨を胸に帰国の途へという夜、携帯電話が鳴った。赤道直下のジャングルにいても、デスクの魔手からは逃れられない。
「今どこにいる? パキスタン北部の山岳地帯でM7.6の地震。相当の被害が出てるみたいだよ」
「なに? パプアニューギニアにいるの? じゃあちょっと無理かな」

「え、パキスタンのビザ持ってる? それを早く言えよ。取材が済んでるなら、すぐに向かってくれる?」
 余計なことを言ってしまった。先月、パキスタンからアフガニスタンに向かった日本人教師が行方不明になった。事態が動いた時のために、バンコクでパキスタンの取材ビザを取っておいたのが仇になった。

 さっそく飛行機を押さえなければ。パプアニューギニアからパキスタン、気が遠くなるほどの距離だ。いったい、どうやって行けばいいんだ。




肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...