2015年9月26日

真っ赤なオープンカー


 毎朝会社に通うことを止めて、そろそろ1年。

 もうすぐ51歳になる。

 今のところ、会社を辞めたことへの後悔は微塵もない。通勤していた頃の自分さえ、まったく思い出せない。

 先日、飲み会で久しぶりに東京に出た。大学時代の先輩に開口一番、「よく思い切って決断できたなあ」と言われた。

そういうカッコいい話ではない。現場の仕事に飽き、中間管理職の重圧にも勝てず、限界だった。そこに絶妙のタイミングで、割増退職金というニンジンをぶら下げられ、パクリと食いついただけだ。

サラリーマンは誰でも、遅かれ早かれ退職する。その時を自分で決めるか、会社や国が決めるかの違いだけなのだと思う。

ちなみに雇用の流動性が高いアメリカでは、退職のタイミングを間違えた時「これは私が決めたことではない、倒産・レイオフ・解雇だったんだ、不可抗力だ」と自分をだまして、先に進むのだそうだ。なかなか便利な考え方だ。

私が入社した四半世紀前、会社の定年は55歳。それがいつの間にか60歳になり、国が年金受給年齢を延ばした結果、最近は65歳まで会社に残れるようになった。

20歳そこそこで新卒採用され、40年以上もひとつの会社で働く。想像しただけで気が遠くなる。社員より、会社の寿命の方が先に尽きそうだ。

そもそも、戦後の1947年、日本人(男)の平均寿命は50歳だった。もし2~3世代前に生まれていたら、私はそろそろ死んでいるのだ。

死を身近に感じ始める50代に入り、生き方をリセットして第2の人生設計をしている。いま困っているのは、自分がいつ死ぬかわからないことだ。

長生きするのは小太りの人らしい。痩せすぎの私は、持ってあと30年か。

でも皮膚感覚では、当分死にそうもない。100歳まで生きるかも知れない。

特にお金の問題は、自分の寿命がわかれば計算しやすいのに、とつくづく思う。

私の人生の終盤は、身寄りのない独り暮らし。ある日ガンと診断され、余命3か月と宣告される。その足で外国車ディーラーに駆け込み、赤いオープンカーを現金で買う。

これは「百万回生きたねこ」を描いた佐野洋子のマネだ。

そして、「もうお金を気にしなくていい」と心から笑いたい。

怖いのは診断が間違っていて、ヘソクリを使い切った後も生き延びてしまうこと。

念には念を入れて、セカンドオピニオン、サードオピニオンも聞かなければ。


2015年9月21日

有償ボランティアという矛盾㊦


 障がい者や高齢者を車で送迎するボランティア活動も有償だ。入会して半年になる。ここはNPO法人化されていて、ガソリン代や維持費などのほか、介助料として1回500~1000円がスタッフの懐に入る。

8月の猛暑日に、3人を病院に送り迎えしたら熱射病になった。朝から晩まで車いすを押し、文字通り汗水たらして働いて、3000円。

 こうして少額でもお金をもらうことで、利用者の心理的な負担が軽くなる面があるらしい。一方、金銭のやりとりをする結果、我々を「安いタクシー」と誤解する利用者も出てくる。いくら一生懸命やっても文句を言われ、やるせない思いをすることがある。これも貴重な人間観察の機会、と割り切るしかない。

営利目的か、無私の行為か。有償ボランティアは、言葉の矛盾だ。

 この仕事をしてみて、タクシードライバーはつくづく偉いと思った。彼らは街を流して客を拾い、行き先への最短距離を瞬時に計算する。少しでも遠回りしようものなら、後部座席から罵詈雑言が飛んでくる。

 NPOでは幸い定額制で、最短距離を走らなくても料金が決まっている。本当に助かる。方向音痴かつ道を知らない私は、曲がるべき角を直進したり、目的地の病院を通りすぎてしまうことも再三。先日は老婦人に「どこに連れて行かれるのかと思った・・・」と言われてしまった。

このNPOの1年先輩に、元タクシードライバーがいる。「ここは思ったより実入りが少ないから、いい加減辞めようかな」と、ブツブツつぶやいている。もしお金が必要なら、私だったらセブン・イレブンやマクドナルドで「いらっしゃいませ~」とやる。有償ボランティアを曲解しているように思えるが、それでも利用者にとって、彼は私よりずっと頼りになる存在に違いない。

会社員時代、付加価値の創造=利益の追求、という共通の目的の下で、まがりなりにも社員がまとまっていた。一方、ボランティアには本当にさまざまな目的の人が集まる。それが有償ボランティアとなると、さらに話がややこしくなる。

収入を第一の目的にする人もいるが、それでは続かないはずだ。たとえ金銭的報酬がなくても(少なくても)、心の報酬が得られるとか、本当に自分がやりたいことを見つけるいい機会、ととらえた方がいい気がする。

 私の会社にはなかったが、一部の企業では「ボランティア休暇」制度が導入されている。社員は職を失わずにボランティア経験ができ、社員に社会貢献させることで、会社もブランド価値を上げる。一石二鳥ということか。

休職してボランティアを経験したのち、ますます社業に勤しむ気になるか。それとも、会社の外に自分の居場所を見つけてしまうか。企業側にとっては諸刃の刃のようにも思える。

給料がなくなり、頼みの失業給付も今月で打ち止め。いよいよ、正真正銘の収入ゼロ生活に突入する。こんなに呑気でいいのだろうか、という気もするが、今後もボランティアは続けていきたい。

そこから何かが生まれる予感・・・は、今のところ全くないのだが。
もう少し、モラトリアム。



有償ボランティアという矛盾㊤


 ボランティアという言葉に、人はどういう印象を持つだろう。

 私が真っ先に思い浮かべるのは、アメリカの空港やイベント会場の案内所で出会った、首からIDをぶら下げて道案内を買って出るお年寄りたち。人の役に立ちたい、という思いに溢れ、心からおせっかいを楽しんでいる様子だった。

 ボランティアを継続するには、ヒマと、自分の生活に困らないだけのカネもいる。ある意味、ぜいたく。定年退職者に向いているとされるが、ベビーブーマーが大量リタイアしたアメリカでも、ボランティア活動はさほど広がっていない。それまで全く経験のない人が、60すぎてから始めるのは難しいのだろうか。

 50歳で離職し、最寄りの職業安定所に行ったとき、「あなたのような人は、ハローワークで職探しをするより、ご自分の人脈を使ったほうがいいでしょう」と言われた。じっくり腰を落ち着けて探せ、という意味に解釈した。といって、失業給付を受けている間、カネ儲けはできない。降って湧いたモラトリアム。

ヒトは、群れを作って生きる社会的動物だ。保育園入園以来、何かしらの組織に属してきた私には、会社に代わる所属先が必要だ。

それでボランティアに走った。私の動機は邪念だらけだ。

暇つぶし。引っ越してきたばかりの街に友だちを作る。大企業の庇護から離れ、一から自分の信用を作りなおす。無償の仕事をインターン代わりにして、自分の適性を試す。知らない世界をのぞく。そして、今まで自分のことだけで精いっぱいなおっさんだったことへの償い。

 今月から、4つめのボランティア活動に首を突っ込み始めた。生活保護世帯の子どもや、不登校の子ども向けの学習塾。市民センターの和室で肩を寄せ合う様子は、塾というより寺小屋の風情だ。ボランティア・スタッフは元教師や現役の大学生たちで、私は完全に浮いた存在だ。

中学生に数学を教えようとして、因数分解や連立方程式を完全に忘れていることが判明。それどころか、小学生の分数の割り算さえできなかった。かろうじて高校レベルまで教えられるのは英語だけ。できるだけ小学生を担当し、強引に算数以外の教科書を開かせる。多くの時間は、腕相撲やなぞなぞ、間違い探しをして一緒に遊んでいる。

 ふと背中に冷たい視線を感じ、振り向くと、お母さんが見学に来ていた。

勉強の合間に、授産施設で作られたパンが配られる。むさぼるように食べる子もいて、切なくなる。

 ちなみに、ここは「有償ボランティア」。市から委託を受けて運営され、助成金が出るので、交通費の名目でお金をもらえる。時給換算で、大学生が家庭教師をするぐらいの額か。金目当てではないとはいえ、正直言ってうれしい。

2015年9月13日

編み物男子


 25歳のイギリス人、デービッドに日本語を教えている。

天気が悪いと、外国人たちは無断で日本語教室を欠席する。そんな日は、律儀な先生役の日本人ばかりが教室に溜まるのだが、彼は手編みのトートバッグを肩に、真面目にやってくる。スコットランド生まれなので、雨には強いのだ。趣味は編み物。

 スコットランドは日本語でスットコランドだよ、と教えても信じない。自分はイギリス人だ、とは決して言わない。先の住民投票では、スコットランド独立に1票を投じた。

初めて会った6月、彼はまだ来日6週間で、日本語はからきしダメ。しかも、彼が話す英語も聞き取れない。私の英語力のせいでなく、彼の訛りすぎる発音のせいだ(たぶん)。

それでも彼は、近くの英会話学校で平然と講師をしている。生徒がかわいそうである。

異国での語学学習は、必要に迫られて日常会話から入るのが相場だ。ところが彼によると、日本はコンビニやファストフードがあり、電車も自動改札なので、日本語を話せなくてもまったく問題ないという。彼は会話そっちのけで、最初からひらがなを覚えることに執念を燃やした。「こんにちは」「ありがとう」もわからないくせに、独学でひらがなを覚えてしまった。かなりオタクっぽい。

そうして、彼とのコミュニケーションは筆談中心になった。日本語を教えるふりをして、彼をタダで英会話の練習台に使おうという作戦は、もろくも崩れた。

デービッドは、簡単な質問をしても、詳細に、正確に答えようとする。最初に会った時、「なんで日本に来たの」と聞いたら、かなり考えた末、とてもひと言では答えられない、と寂しく首を振った。

先週、改めてもう一回聞いてみた。今度は得意のひらがなで、さらさらとボードに書き始めた。

りゆう(にほん) しごと とざん おんがく たべもの てつがく てれび+えいが しょうせつ ひとびと ぶんか あつい

りゆう(いぎりす) しつぎょう てんき おなじ いぎりすわかる ぜつぼうてき せいじ へんか。 もっと。

翻訳すると、彼はイギリスで失業し、陰鬱な天気や単調な生活、政治にも絶望し、なにか変化を求めていた。登山や音楽、料理、文学、大学で専攻した哲学を通して、日本に興味を持った。おまけに、日本はスコットランドより暖かいらしい。そこで日本の就職先をネットで探し、オダワラに英語教師の口を見つけて、海を渡った。だいたいそんなところだ。

母語が英語というだけで、ずいぶん自由な生き方ができるものだ。うらやましい。

哲学専攻ですか、日本の哲学者は誰を知っていますか?と聞くと、また筆談。

こうし もうし ろうし

それって、もしかして中国人?

君は、来るべき国を間違えたのでは・・・

誤解だらけの異文化コミュニケーションが続いていく。

2015年9月6日

夢を継ぐ


 遅めの夏休みを、八ヶ岳山麓で過ごした。

 何が夏休みだ、「毎日が日曜日」のくせに、という声も。

 返す言葉がない。

 かなり苦しい言い訳。ボランティアを「報酬を求めない仕事」と定義すれば、私は4つも仕事を掛け持ちしている。5泊6日の旅行は、そのご褒美だ

 ぜいたくな話だが、今回、フルタイムで働いていた頃より、明らかに「夏休み」や「旅行」への高揚感が減った。自由のありがたみは、自由を制限されている時にこそ感じる。人間、苦があるから楽が輝くのだ。

 もうひとつ実感したこと。箱根の山麓から八ヶ岳山麓に移動して得られる感激は、去年までの、東京の人混みから信州の大自然に脱出した時の感激には遠く及ばなかった。

 今の生活に満足している、ということだと思う。


 ところでこの旅行には、ひとつ目的があった。

 いずれ夫婦で、森に囲まれた山中で暮らしたいと思っている。その拠点探しだ。

 東京からアクセスに便利な八ヶ岳南麓、山梨県側は、すでに開発が進んでいる。一方、西麓の長野県側は、深い森に囲まれ、別荘というより山荘と言った方が似合う、古いセカンドハウスが点在する地域がある。

 ネットで調べてみると、車2台分ぐらいのお金で買える物件も多い。別荘地として開発されてから半世紀が経過し、オーナーの高齢化で手放される物件が増えているようだ。

 現地の不動産業者をまわり、いくつか見せてもらった。電話で問い合わせたとき、「この物件は標高1500メートルにあるので、夏はともかく、定住は難しいですよ」と念を押された。食い詰めて、どこかから逃げてきた人と思われたのかも知れない。

高いところには慣れているが、やはり冬は寒そうだ。

 車2台分のお金で買えるような物件は、昭和50年代に建てられ、買った後に手直しが必要なものが多い。その中で、車3台分の値段で買える、他より格段に程度のいい家があった。なんでも「相続人不存在物件」だそうで、亡くなった持ち主に子がなく、家系断絶。いまは弁護士が管理し、売却代金は国庫に入ることになっている。

販売業者の話では、今の世代は、老親がセカンドハウスを譲ろうとしても欲しがらないのだという。共働きで仕事が忙しく、八ヶ岳まで来る暇がないらしい。昭和の頃より、生活にゆとりがないということか。

 そうして売りに出される家もあれば、このように、主の死と同時に「相続人不存在物件」になる家もある。案内されてリビングに入ると、2011年9月のカレンダー、何枚もの山のスケッチ、楽譜台が残っていて、人となりが偲ばれた。

 森の生活を楽しんでいたかつての住人の、夢の跡を引き継ぐことにした。

肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...