2022年12月30日

師走の病棟にて

 

 寝たきりの体勢から勢いよくパンチを繰り出すMさんに、メガネを吹き飛ばされてから1週間。

 彼女はやたら人を引っ掻く癖もあり、今や看護師さんほぼ全員の腕に、流血の痕が残る。

 そして再びやってきた、Mさんの入浴日。万全を期して、介助要員は6人に増えた。広い浴室に女性の笑い声が渦巻き、ほとんどお祭り騒ぎだ。

そしてその間、ナースステーションはもぬけの殻に。

ダイジョーブなの?

 

1時間ほど前に息を引き取ったFさんの、お見送り入浴にも立ち会った。

眼を閉じて、もの言わぬFさん。がんと闘ってできた、体の傷が痛々しい。

「ミヤサカさんが買って来たイカの塩辛、Fさんはひと晩で全部食べちゃったんです。『好きなものはいっぺんに食べる主義なの』って威張ってましたよ!」

 ていねいに体を洗い、上品な黒い着物を着せながら、思い出話に花が咲く。

この病棟の看護師さんは、どんな時も明るい。

 

「駐車場で野ざらしになってるボクの車、バッテリーが上がってやしないかな。ちょっと見に行ってくれませんか?」

 Oさんに頼まれてキーを預かり、病院の片隅に停めてある彼の愛車へ。エンジンをかけて、広い駐車場をひと回りする。八ヶ岳山麓に移住して20年、奥さんを乗せて、紅葉の名所をあちこちドライブして回ったという。

 ひと月前、この車を運転して病院にやってきたOさん。今はもう、廊下を自力で歩くことができない。

「あぁ、とうとう車いすになっちゃった…」

 彼のつぶやきを聞いたときは、返す言葉がなかった。

 

 病棟の仕事を早めに終えた日は、患者さんの個室を訪ね歩く。夕暮れのベッドサイドに座っていると、天井を見つめながら、今の思いを聞かせてくれる。

「緩和ケアに入る時に死ぬ覚悟はして来たつもりだけど…検査で腫瘍マーカーの数値が悪いと、やっぱり落ち込んじゃうよ」

「可愛いがってる姪っ子が、会社をリストラされちゃったの。私に子どもはいないから、貯金を彼女に遺してあげたい。それだけが気がかり」

「どうして、オレの体はこんなになっちゃったんだ!」

「今までさんざん好き勝手やってきたから、天罰が下ったのかな」

塩辛が大好きなFさんから聞いた生前最後の言葉は、ただひと言、

「お世話になりました」

だった。



2022年12月24日

ひとりだけ霧の中

 

 すごい寒波がやってきて、各地に雪を降らせた。

 こういう日にマスクをして外出すると、呼気ですぐメガネが曇る。

 でも最近は、マスクをしなくてもメガネが曇る。

 それも、なぜか右側だけ。

 メガネを外して拭こうとすると…

 ぜんぜん曇ってない。

 …曇っていたのは、実は自分の眼のほうだった。

 

 手で左眼を覆い、右眼だけで周囲を見ると、まるで霧がかかったよう。「近眼の度が進んだ」なんていう、生易しいもんじゃない。近くも遠くも、全くピントが合わないのだ。

 このことに気づいたときのショックといったら!

 この先、もし左眼まで悪くなったら、クルマを運転して旅行に行けなくなる。本も読めない。きれいな景色も見られない。きれいな女の人も…

 いやいや「撃墜王」坂井三郎は、空戦で片眼の視力を失う重傷を負いながら、その後もゼロ戦を繰って終戦まで戦い続け、天寿を全うしたじゃないか。

 心は千々に乱れた。

 

 こういう時、職場が病院だと便利だ。わざわざ通院しなくて済む。

 仕事の合間に、アポなしで眼科へ。受付だけ済ませて5階の病棟で働いていたら、診察の順番がきたと内線で知らせてくれた。

 問診の後、瞳孔を開く目薬を差し、眼に強烈な光を当てられる。

やがて向き直った男性医師が、そっけない口ぶりで言った。

「まだ若いけど…白内障です」

「簡単に治す方法はありません。手術することになります」

 な…なんちゅう言い方するねん!

 

 思い当たるフシは…大ありだ。日本の雪山やヒマラヤを、ろくにサングラスもかけず、眼にガンガン紫外線を浴びながら登ったせいだろう。自業自得。

でもまぁ医者になんと言われようと、これは考え得るベストシナリオだ。白内障は、手術で治る。医療が整わない一部の国では、いまだに白内障で失明する人もいるらしいから、日本に生まれたことに感謝したい。

 

「ぼくずっと手術室で働いてたけど、50代の白内障は珍しくなかったですよ。術後はみんな『世界が明るくなった』って」

 心優しきは、ヤマモト看護部長。

「白内障の手術で、ついでに近眼も治らないかって? そんなことはないわねぇ。ただ元に戻るだけよ」

 クールなリアリストの、マルヤマ看護師長…



2022年12月17日

秒速パンチを浴びる

 

 今年の師走は、雪が来るのが早い!家と市街地を結ぶつづら折りの山岳路は、もう完全な雪道だ。

気温が氷点下になる早朝や日暮れ時、路面は凍ってツルツル滑る。ハンドルを握る手に全神経を集中させながら、通勤する。

さらに、いつも平和な緩和ケア病棟にも、ちょっとした異変が。

新しく入院してきたTさんは、寝たきりの体勢から、誰彼かまわず秒速パンチやキックを見舞う特技の持ち主だった。

さらに、長く伸びた爪で、我々の腕を思い切りつねる必殺技も繰り出す。

看護師さんと2人がかりで、両手を押さえて爪を切る。これでTさん最大の武器を除去!と安心していたら、風呂場で彼女の右ストレートが、ものの見事に私の顔面にヒット。かけていたメガネが、すごい勢いで空中を飛んでいった。

戦い済んで日が暮れて…

もはや家に帰る気力も失せ、「全国旅行支援」で安く泊まれるビジネスホテルを渡り歩いてます。

 

サッカーW杯で、ドイツに続いてスペインまで破った日本代表チーム。その主将を務めたのが吉田麻也選手だ。前は優しそうな顔をしていた気がするが、今や声を掛けるのも憚られるような、威厳に満ちたオーラを放っている。

ロンドンでヘッジファンドを運営する浅井将雄氏は、吉田選手と親交がある。吉田選手が重ねる驚くほどの努力の日々を、浅井氏が日経ビジネスで証言している。

・今は自分の言葉で英語インタビューに応じているが、英国に来たときの彼は何一つ英語を話せなかった。必死で英語習得に取り組み、練習後に毎日最低2時間勉強していた

・2年前にイタリアのサンプドリアに移籍をした際には、今度は毎日4、5時間イタリア語を勉強し、4カ月後にはイタリア語を話した

・こうして現地の言葉でコミュニケーションができるからこそ、欧州のクラブチームで主将や副主将を任されている

・体のケアに対する意識も非常に高い。私の家に遊びに来ると、まず「ジム貸してください」と2時間トレーニングをして、プールで1時間クールダウン、最後にマッサージ、そしてようやく「焼き肉を食べに行きましょう」となる

・イタリア・セリアAのサンプドリアでの食事は基本パスタだが、吉田選手は3年前からグルテンフリー。小麦粉を摂らず、水も冷やさず、常温の水しか飲まない。内臓まで強くしないと、試合で走りきれないと考えている

 

サッカー選手として大ベテランの部類に入る34歳の吉田選手が、今なお続ける不断の努力。いや、励みになるなぁ。鼓舞されるなぁ。

危険なTさんのパンチをかわすために、自分も不断の努力をしなければ。
まずは軽快なステップを踏みながら、ホテル周りをジョギングだ!




2022年12月9日

面会制限は続くよ どこまでも

 

501号室 ○○さん 週2回」

502号室 △△さん 週3回」

503号室 □□さん 毎日」

 ナースステーションのホワイトボードに、こんな書き込みを見つけた。

 患者さんそれぞれに許されている、面会の回数だ。

そして面会がひんぱんに認められる人ほど、命の切迫度が高い人なのだ。

 

 この夏、病院では入院患者の面会が禁止になり、それが今も続いている。この3年間で、いったい何度めの面会禁止令だろう。

 この緩和ケア病棟だけ、週2回・1回15分の面会が認められている。

そしていよいよ看取り期に入ると、主治医の判断で、泊まり込みの付き添いがOKになる。

寝具を準備するのは、看護助手である私の仕事だ。

 

遠方から来て15分言葉を交わしただけで、そそくさと帰っていく患者の夫や妻、子どもたちを見送りながら、いつも「なんだかなぁ…」と思う。でもこの病院は、まだいい方らしい。

 1128日付読売新聞「医療ルネサンス・続・コロナ禍の傷痕」に、主治医に「明朝までもつかどうか…」と告げられて入院中の母に会おうとした娘が、「一切の面会は遠慮して」と看護師に断られるシーンが登場する。

「医療において、最も尊重されるべきは、患者の気持ち、意思、権利、尊厳ではないか。コロナ禍であれば、いのちが尽きようとしている患者でさえ、それらは後回しにされるのか」(29日付同紙より)

 

 友人の子どもが通う小学校では、文部科学省が強制も推奨もしていないのに、いまだに給食時の「黙食」が守られている。

 不登校の小中学生が過去最多を記録したという記事(1028日付読売新聞)によると、不登校の増加は、コロナ禍による学級閉鎖や「黙食」で、子どもが教員や友人との人間関係を作りにくくなっているのが影響しているという。

 

 家でサッカーW杯の映像を見ていたら、世界中から中東カタールに集った8万観客がスタジアムを埋め尽くし、マスクもつけずに絶叫していた。

 コロナ遥かなり。

一方この国では、病院の面会制限や学校での「黙食」を一律的に3年近く続けて、終わる気配さえない。マスクはもはや「顔パンツ」と化してしまった。

いったい、誰が何を根拠に決めたことやら。

患者の人権」「子どもの人権」が、自縄自縛の末に、消えていく。



2022年12月2日

時給907円の国

 

 入浴介助の合間に裸足で歩いていたら、看護師長がすっ飛んできた。

「ミヤサカさん、早く靴を履いて! 病院は病原菌だらけですよ!」

 そうかぁ。病棟の廊下はピカピカに磨き上げられて、わが家の廊下よりきれいそうだけど…

  師長さん、ご心配には及ばねぇ。私はいつも栄養十分、睡眠十二分。病原菌をことごとく撃退する、屈強な免疫力があるだよ。

 コロナ禍のせいかそれ以前からか、医療従事者は異常に(?)潔癖だ。

 消毒液ボトルを腰にぶら下げて、ワンアクションごとに手指消毒。

 それに加えて、病室に入る時は使い捨てゴム手袋を着用。

 ビニール製エプロンも、着用。

 そしてゴム手袋とエプロンは、患者さんひとりをケアしたら、即廃棄。

 マスクとゴーグルも着用。

 仰々しいったらありゃしない。

 そこまで患者さんをばい菌扱いしなくてもいいのに、思う。

 それに、病院がばい菌の巣窟というなら、いちばん患者さんの近くにいて、日々危険と隣り合わせ(?)の看護助手の時給907円は、安すぎやしないか?

 別にいいんですけど。

 

 労働運動や人権に詳しい斎藤幸平・東京大学准教授は、韓国にも抜かれ、主要7カ国(G7)でもイタリアに次いで安い日本人の平均賃金は「人権問題」だ、と言っている(以下、日経ビジネス電子版より要約)。

2009年から19年の10年間で、日本企業は売り上げはほとんど伸びていないのに、利益は5倍に増大した。つまりこの間、企業は「コスト削減」しかやっていない

・徹底的にコストダウンを推し進めた結果が、社員の給与が上がらないといった問題、各種ハラスメントのほか、外国人技能実習生や外国人労働者の問題につながっている

・海外では、児童労働や強制労働を助長する結果に

・この間に企業の株価は上がったが、利益が5倍に増えているのだから上がるのは当たり前。全体の富が増えない中で、弱者から強者へ富が移動しただけ

・企業は利益を求めコストカットし、生活の苦しい消費者は安い商品を求めるという負のスパイラルによって、労働者の暮らしや地球環境が犠牲になっている。これが豊かな日本の現実

 

 いっとき、医療従事者や宅配便ドライバーが「エッセンシャルワーカー」ともてはやされた。そういった職業ほど、特に給料が安い。

 看護師さんだって、盆暮れ正月も関係なく働き、夜勤も多い過酷な労働環境を考えれば、もっともらってもいい。

 ハワイで看護師になった知人は、年収1000万円だという。

Matsumoto Japan, Winter 2022


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...