寝たきりの体勢から勢いよくパンチを繰り出すMさんに、メガネを吹き飛ばされてから1週間。
彼女はやたら人を引っ掻く癖もあり、今や看護師さんほぼ全員の腕に、流血の痕が残る。
そして再びやってきた、Mさんの入浴日。万全を期して、介助要員は6人に増えた。広い浴室に女性の笑い声が渦巻き、ほとんどお祭り騒ぎだ。
そしてその間、ナースステーションはもぬけの殻に。
ダイジョーブなの?
1時間ほど前に息を引き取ったFさんの、お見送り入浴にも立ち会った。
眼を閉じて、もの言わぬFさん。がんと闘ってできた、体の傷が痛々しい。
「ミヤサカさんが買って来たイカの塩辛、Fさんはひと晩で全部食べちゃったんです。『好きなものはいっぺんに食べる主義なの』って威張ってましたよ!」
ていねいに体を洗い、上品な黒い着物を着せながら、思い出話に花が咲く。
この病棟の看護師さんは、どんな時も明るい。
「駐車場で野ざらしになってるボクの車、バッテリーが上がってやしないかな。ちょっと見に行ってくれませんか?」
Oさんに頼まれてキーを預かり、病院の片隅に停めてある彼の愛車へ。エンジンをかけて、広い駐車場をひと回りする。八ヶ岳山麓に移住して20年、奥さんを乗せて、紅葉の名所をあちこちドライブして回ったという。
ひと月前、この車を運転して病院にやってきたOさん。今はもう、廊下を自力で歩くことができない。
「あぁ、とうとう車いすになっちゃった…」
彼のつぶやきを聞いたときは、返す言葉がなかった。
病棟の仕事を早めに終えた日は、患者さんの個室を訪ね歩く。夕暮れのベッドサイドに座っていると、天井を見つめながら、今の思いを聞かせてくれる。
「緩和ケアに入る時に死ぬ覚悟はして来たつもりだけど…検査で腫瘍マーカーの数値が悪いと、やっぱり落ち込んじゃうよ」
「可愛いがってる姪っ子が、会社をリストラされちゃったの。私に子どもはいないから、貯金を彼女に遺してあげたい。それだけが気がかり」
「どうして、オレの体はこんなになっちゃったんだ!」
「今までさんざん好き勝手やってきたから、天罰が下ったのかな」
塩辛が大好きなFさんから聞いた生前最後の言葉は、ただひと言、
「お世話になりました」
だった。