天井が吹き抜けになっている蓼科の家は、冬はろくに暖房が効かない。
避寒がてら、近所にオープンしたばかりのペンションを予約した。
オフシーズンの平日で、他に泊まり客はない。ダイニングで薪ストーブに当たりながら、若いオーナーのハスミ夫妻と、たくさん話をした。
ハスミさんの妻、デイジーさんは、中国・桂林の出身。中国に暮らす56の民族の中でも、とりわけ少数派のヤオ族の人だ。
生まれてから13歳になるまで、電気のない山村で、自給自足の暮らしをしていたという。
5歳の頃から、家族の衣類をたらいで洗濯し、食事の支度を手伝い、森で薪を集めた。夜は、ローソクの明かりで勉強した。
そして小学校を出た時、「もっと自由な世界で生きて欲しい」というお父さんに背中を押されて、故郷を離れた。
「それで、どういう訳で日本に来たんですか?」と私が聞くと、
「村を出てから、専門学校で英語を勉強したので、ホントは欧米に留学したかった。でもお金が足りなくて、『近くて安い』日本になったんです」
うーん、正直な答え。未来あるアジアの人にとって、日本は消去法で選ばれる留学先なのか…
東京では日本語学校に通いながら猛勉強し、大手旅行代理店に就職。そして4年後に、自らインバウンドを対象にした旅行会社を立ち上げた。
中国の富裕層にターゲットを絞り、一時は年商1億円を越えたという。
「金持ち中国人の日本旅行は、予算ひとり100万円超もざら。宿泊先のホテルも、高ければ高いほど喜ばれました」
ハスミさんと出会って結婚した後も、朝から晩まで働き詰め。夫婦一緒に食事することさえ、ままならなかったという。
そこに、突然のコロナ禍。またたく間に、インバウンドが消滅した。
そして、ちょうどそのタイミングで、売りに出ていた築35年のペンションに出会う。ペンションを経営する気など全くなかったのに、すばらしい森の環境に、2人ともひとめ惚れだったという。
デイジーさんは会社をたたみ、ハスミさんも勤務先の会社を辞めて、この地に移住することを決心した。
電気のない中国の村で生まれ育ち、満員電車に揺られながら東京で11年働き、そしていま、森の中へ。
「東京にいた頃は忙しくて、いつも怒っていた。ここでは朝の5時から夜中の12時まで働いても、疲れないし、楽しい。心が満たされてます」
夕食の食卓には、魚のビール煮、薬膳スープ、自家製豆板醤、杏仁豆腐など、中国・桂林の郷土料理が並んだ。デイジーさんの流ちょうな日本語のおしゃべりを、寡黙なハスミさんが静かに聞いている。
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