その日訪ねた3つめの物件は、マンションの最上階にあった。
オーナーの男性は、マンション2棟50室を経営しながら、自身は整体師をしているという不思議な人だ。
「体のどこかが痛くなったら連絡ください。ぼくが診ますよ」
との声に送られて室内に入り、まず目に飛び込んできたのが新雪の常念岳。ダイニングの窓の向こうに、白銀に輝く北アルプスの山々が連なっている。
ここに案内してくれたのは、駅前不動産の若手社員。自信を持って勧めた物件には「あー」とか「うー」とか言うだけだった客が、にわかに窓にくぎ付けになっているのを見て、
「あなたのツボはそこだったんですか・・・」
と言いたげに、私を眺めている。
交渉にはポーカーフェイスが必須だが、心中を見透かされた。それでも彼は「ここに決めて頂けるなら」と、オーナーに頼んで家賃を値引きしてくれた。
賃貸暮らしは、2年ごとに更新料を払わなければならない。4年も住めば、
「意味不明のお金を払うぐらいなら、いっそ見知らぬ街に引っ越したい」
という衝動に抗えなくなる。いま住む家の、6年目の更新料支払いが迫る。
でも会社に守られていた頃の引っ越しと違い、フリーランスにとって大きなハードルになるのが「賃貸保証委託会社」だ。
家賃支払いの連帯保証人を誰かに頼むのは気が引ける。となると、残るは保証会社のみ。
ところがこの保証会社、サラリーマンや年金生活者など、定期的な収入がある客には寛大だが、フリーランスには俄然、審査を厳しくする。確定申告書類など、何かしらの収入証明を求めてくる。
しかも、保証会社の顔が見えない。不動産業者を介して「給与明細を」「確定申告書を」と要求してくるだけで、会ったり電話で話したりできないのだ。
もっとも、たとえ直談判できたとして、
「財産のほとんどは価格が乱高下する外国株で、自分でも時価がわかりません。しかもここ数年、勤労収入は限りなくゼロで・・・」
こんなたわけたことを言う人には、誰も部屋を貸さないだろう。
恐る恐る、あまり説得力があるとはいえない額を預けてある銀行の「取引残高報告書」を送る。するとあっさり、「審査を通りました」ときた。賃料が安い地方都市の中古マンションだと、チェックも甘いのか。
「この家って結婚してから10軒目なんだね。11軒目はどこになるんだろう」
春先にそんなことを言っていた妻は、夏の終わりに天上へと旅立った。
地上に残された夫は、保証会社という見えない相手の顔色を伺いながら、ゴソゴソ引っ越しを繰り返すのだと思う。
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