まだ信州の森で、「自主隔離」を続けています___
オンライン飲み会より、ついヘミングウェイ「老人と海」、ソロー「森の生活」、クラカワ―「荒野へ」など、孤高に生きた人の本を再読してしまう。
最近は城山三郎「落日燃ゆ」を読んで、広田弘毅を知った。
昭和初期、外交官として戦争防止に尽くした人だ。短期間ながら、首相や外相も務めている。
南京大虐殺が起きた時に首相だった広田は戦後、A級戦犯とされる。連合国の裁判官や検事は、軍部の暴走を政府が止められなかった日本の事情が理解できない。そして広田は、一切の弁解をしなかった。
その結果、東条英機ら6人の軍人とともに、ただひとり広田だけが、民間人として死刑を宣告される。
判決を控えたある日、巣鴨刑務所の広田を長男が訪ねた。
「万一、死刑になるとしたら、お父さん、覚悟はできてるでしょうね」
「もちろんだ。おれは柔道で首を絞められて、よく死ぬ一歩前までいったものだが、絞められて死ぬというのは、なかなか気分のいいものなんだよ」
「階段を十三段上がって行って、その上に立つとガタンと板が落ちて、それでおしまいだそうですよ」
「わかっている」
「階段を滑り落ちないように上がって下さい」
「よしよし」
そして、判決の日。「Death by hanging(絞首刑)」と宣告された広田は、記者席の娘2人に微笑を送って、立ち去った。
処刑はまず、軍人たちから行われた。東条らが「天皇陛下バンザイ!」「大日本帝国バンザイ!」と叫んで、刑場へ入っていく。
そして、広田の番がきた。韜晦師に最後の言葉を促された彼は言った。
「いま、マンザイをやってたんでしょう」
『万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか。思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。広田の最後の痛烈な冗談であった』(「落日燃ゆ」より)。
戦前、広田がオランダ赴任中に、母タケの病気が悪化した。息子が帰国できないことを知ったタケは、一切の食事を受けつけず、餓死同然に死んでいった。
そして妻・静子は、広田の裁判が行われている最中、子どもたちに好物の五目飯を作ったその夜、服毒自殺している。
『裁判の前途は、楽観できなかった。広田が覚悟を決めていることも、静子にはわかった。最悪の事態が訪れる時、夫の生への未練を少しでも軽くしておくためにも、静子は先に行って待っているべきだと思った』(「落日燃ゆ」より)
___70年前までの日本人は、みな死への覚悟があったのだろうか。
彼らなら、未知のウイルスにも心乱されず、平然と日々を過ごすのだろう。
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