2019年2月23日

どこにある? ベストな人生


 日経ビジネスで「どこにある?ベストな人生」という特集をしていた。

 とても面白かったので、要約して紹介します。



・国連の「世界幸福度ランキング」の1位はフィンランド。2位ノルウェー、3位デンマーク。日本は54位で、G7の最下位。世界第3の経済大国でありながら、人々の幸福度はニカラグアやルーマニアより低い

・その原因は仕事。日本の労働者の58%が、仕事に強いストレスを感じている

・そして、住宅ローンや子どもの教育費のため、簡単には今の仕事をやめられない。仕事や私生活での自己決定権の低さこそ、日本人の幸福度が低い原因

・解決策のひとつに「“好き”を仕事にする」がある。でも、自分が好きな仕事が、市場で高く評価されるとは限らない

 例えばバイク便ライダーは、ケガすれば収入ゼロ。子どもが好きで小中学校の教員になった人は、平均週54時間働き、熱心な人ほど心身を壊している

・最強の解決策が「経済的独立」。アーリーリタイアを目指せる職業は、外資系投資銀行、外資系コンサルティング会社、M&A仲介会社など

38歳でゴールドマン・サックスを辞め、現在ハワイの別荘と日本を行き来しながら暮らすS(51)は、かつて朝6時に出社し、毎晩6時間の接待をこなしていた。彼らの共通項は「高収入」「激務」そして「狭き門」。

・反対に、多くの人に参考になるのが文具メーカー「日本理科学工業」の例

同社が仕方なく雇った2人の障害者。始業1時間前に会社の玄関に来て、仕事が始まれば絶対に手を休めない。どうしたらこんなに一生懸命になれるのかと思うほど、幸せそうな顔で働いた。その存在が会社全体の空気を変えた

 それでも障害者は工場で働くより、施設でのんびり暮らした方が幸せなのでは?という社長の疑問に、禅寺の住職が次のように答えた

人間の究極の幸せは、①愛されること②ほめられること③役立つこと④必要とされること。施設や家庭でできるのは①だけで、②~④は働くことでしか得られない。これは障害者に限らない普遍的なもの

・従って、②~④を感じられる環境で働くのが、普通の人にできる究極の幸せ原則。そしてそれは、ダイバーシティが進んだ組織でこそ得られる



 自分の属性を棚に上げて言えば、私も「日本人・中高年・男」が大多数を占める同質的な組織で窒息してしまった。女性やLGBT、外国人、障害者など、価値観が全く違う人の隣で働けば、もう少し会社員を続けられたかも知れない。

そして「人間の主観的な幸福度を最も左右するのは自己決定権」という言葉は本当だ。明日や来月や来年の予定を、他人でなく自分が決められるのは、毎月の給料と引き換えにしてもお釣りがくる、とても幸せなことだ。

Dalat, Vietnam

2019年2月16日

子どもはミラクル


 朝のジョギング途中に、すれ違う親子がいる。

 小学生の女の子とお母さん。にぎやかにおしゃべりしながら歩いている。

 ある日、女の子がお母さんの背に負ぶわれていた。足にギプスが巻かれ、いつもは笑顔のお母さんも大変そう。

 何か手伝えることはありませんか、と声をかけて数日後。片足を引きずりながらも、もう自分で歩けるようになっていた。

 そして先日、飛び跳ねるような足取りで、お母さんを先導していた。子どもが持つ底知れない生命力を、目撃した。

 

 母子の間で、こんな会話が交わされたらしい。

「こんど2年生になったら、担任は誰がいい?」

「・・・いつもすれ違う、あのおじさんがいいなあ」

 優しそうで大好き、なのだそうだ。

 優しそうで大好き! 手を振っても、いつも素っ気ないのに?

「下らないことですが」と知らせてくれたお母さん、ありがとうございます。

 その後3日ぐらい、とてもハッピーな気分で過ごせました。



 夜、生活保護の子を対象にした学習塾に手伝いに行き、久々にRちゃんに会った。

 4月から中学生だという。初めて会った時はまだ小3で、勉強が苦手な子だった。おやつの時間にもらったパンを6個、全部ひと口ずつかじってから、「残りはネエネエに」。カバンにしまいこんでいた。

 久しぶりに話したら、いちいち「です」「ます」と大人びた口ぶり。漢字のドリルで難しい四字熟語を正確に書く。苦手なはずの算数も、スラスラ解く。

まるで別人。たった3年で、こうも成長するものか。

彼女のやる気に火をつけたのは、誰?学校で、いい先生に巡り合ったのだろうか。

近くの小学校で、「放課後児童クラブ」の指導員を募集している。時給1000円。クラス担任は無謀でも、これなら自分にも務まりそう。

「大きくなったらミュージカル女優になりたい」と、Rちゃん。大学生のネエネエによると、いつも自宅の鏡の前で踊っているそうだ。

人生後半のキャリアを模索していた数年前、自己啓発本を読み漁った。「キャリアに迷った時は、子どもの頃になりたかったことを思い出せば、そこに自分の本心が隠れている」と、書いてあった。

 子どもの頃になりたかったこと? 思い出せない。

Rちゃんは、いつまで今の夢を追うのだろう。

とりあえず、彼女が有名になった時に備えて、サインをもらっておいた。




2019年2月9日

ときどきフォトグラファー


 久しぶりに、写真の仕事が舞い込んだ。

 クライアントは、米ハワイ州の博物館。日米戦争期に活躍した日本人外交官ゆかりの記念館の展示を、特別展用に撮影して欲しいという。

「動くものじゃなくてよかったね」とは、妻の感想。

 確かに。スポーツ写真は前から苦手だが、もはやサッカーはおろか、的が大きくて動きが鈍い大相撲さえ撮る自信がない(←おすもうさんごめんなさい。比較の話です)。

 レンズにカビが生えてないか、ドキドキしながらカメラバッグを点検する。カメラやストロボのバッテリーが空になっていて、あわてて充電する。

 服装にも悩んだ。

どうすれば、それらしく見えるか。

 新聞のカメラマンとして東京で働いていた時は、出社してまず某テレビ局に行き、きれいな女優さんのインタビュー取材。のちに広尾に移動して、おしゃれなフレンチ・レストランで料理写真の撮影。ついでに試食もさせて頂く。

 午後、会社に戻るといきなり「発生もの」が起き、火事や殺人や犯人護送や強制捜査の現場に急行した。

 そんな具合なので、服装は汚れることを前提にした、ラフなものだった。

 今回は、もう火事現場に転戦する必要はない。失礼のないように、白いシャツにきちんとアイロンをかけて着ていこう。

 実はこういう事もあろうかと、フォトグラファーの名刺も作ってある。

 さて、いよいよ当日。現場に着くと、セールス&マーケティング担当者と一緒に、上司の部長まではるばるハワイから来ていた。任務の重さにたじろぐ。でもさすがは?昔取った杵柄で、いざ仕事を始めると、手が勝手に動いた。

 無事に撮影が終わり、お茶とお菓子が出された。以前はそそくさと退散していたが、もう火事に行く必要はないのだ。ゆったりと同席させて頂いた。

お茶を勧める白髪の老婦人は、亡くなった外交官の娘さんだ。記念館も、もとは外交官一家の別荘として建てられたもの。森閑とした伊豆の山中で、ちょうど咲き始めた梅を愛でながら、優雅なひとときを味わった。

 アメリカの方々も、羊羹をおいしそうに食べていた。

 相場がわからないから、事前にギャラの交渉をしていなかった。部長の女性が、かわいいポチ袋をおずおずと差し出したので、思わず笑ってしまった。メイドインUSAのチョコレートも、土産に頂いた。

別れ際に「ハワイでの暮らしはどうですか。楽園のよう?」と聞いてみた。

しばらく考えてから、「観光でいらっしゃるのが一番でしょうね」

 物価が高い上に治安にも難があり、せっかく憧れてハワイに移住しても、その後引き揚げていく人が多いそうだ。

 では「観光客として」ハワイに行きます、と言って、再会を約束した。



2019年2月2日

歯ブラシ忘れてもカメラは忘れるな


 インド洋大地震の震源地、スマトラ島バンダアチェに出張した時のこと。首都ジャカルタに1泊し、翌朝タクシーで空港に向かった。

 歯ブラシを忘れないよう気を取られるあまり、パスポートと航空券、現金をホテルに忘れてきたことに気づいた。「運転手さん、すぐに戻って!」

 ところが彼、なかなかUターンしない。ゆっくり減速しながら、バックミラーでこちらを伺っている。

「旦那、もうすぐ空港に着くんですよ。いま戻るなら、料金を2倍頂かないと」

ウソつけ!でも抵抗できない・・・わかりました、払いますよ!

 急いで戻った部屋のセーフティボックスに、幸い貴重品がそのまま残っていた。すかさず取って返したが、飛行機に乗り遅れた。でも12便しかないバンダアチェ行の2便めが、すぐ1時間後に出発するという。奇跡だ。

 忘れ物といえば、バンコク空港にカメラ機材一式を置き忘れたまま出国してしまったこともある。

 搭乗ゲートに向かいながら、いつになく体が軽いぞ、今日は調子がいいなと思った。ふと、いつも引きずって歩く、カメラと望遠レンズ、パソコンが入った重さ20キロのキャスターバッグがないことに気づいた。道理で身軽なわけだ。

 さっき通ったばかりの出国審査場を強引に逆走し、超特急で引き返す。閑散としたタイ航空チェックインカウンターにバッグがぽつんと残され、傍らに女性スタッフが「信じられない!」という顔をして立っていた。

 記録的な豪雨がフィリピン・レイテ島を襲い、村が丸ごと地滑りに呑み込まれた現場を取材した時。歩いていて突然、つるりと足が滑り、頭から泥濘に突っ込んだ。もがけばもがくほど、土中にはまっていく。

救援活動中の米軍の従軍牧師が、たまたま近くにいた。Oh My God!と、慌てて引っ張り上げてくれた。泥人形になったわが身はともかく、商売道具のカメラに泥水が入り、2台とも動かなくなってしまった。

窮余の策で、一緒に取材していたマニラ支局エンドー記者のカメラを強奪した。おかげで東京の上司にバレることなく、仕事を続けることができた。

帰任直前、今度はパキスタンにカメラを忘れた。この時は、パキスタンに出張したシンガポール支局長のハナダ記者が、回収してバンコクに届けてくれた。私には毎度のことだが彼には相当ショックだったらしく、

「武士がカタナを忘れてどうすんだよ~」と嘆いていた。

先月、東京の小さな中華料理屋に、シンガポール、マニラ、台北、バンコク支局の面々で集まった。みんなが帰国して、そろそろ10年になる。

その後、秋田~モスクワ~ワシントンで記者を続ける人あり、結婚して新しい命を授かった人あり、病気で死の淵をのぞいて生還した人あり、会社を離れてフリーになった人あり(←私)。

東南アジア赴任中もいろいろあったが、その後もそれぞれ、大きな出来事があった。

Shimoda Japan, Winter 2019

肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...