妻の誕生日は、かつて海軍記念日と呼ばれていた。
112年前、日本海海戦で小国日本が大国ロシアを破った日。史上まれに見る一方的勝利が驕りと勘違いを生み、その後の無謀な世界大戦、そして破局へとつながっていく。
我が家の記念日は、実は多くの人が記憶すべき日でもあるのだ。
そして終戦記念日が近づくと、毎年テレビ特番が組まれ、本が出る。書店で見つけた「零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争」(神立尚紀、大島隆之)には、70年余を経て明かされる貴重な証言が詰まっていた。
当時、日本海軍が世界に誇った名戦闘機ゼロ戦。いまも靖国神社に飾られている。でも生き残ったパイロットたちの言葉は、かつて読んだ撃墜王の武勇伝とはまったく異なっていた。
「支那事変の時、1年戦争していても、私の部隊では戦死者はひとりもいなかったんです。2回目に戦地に行ったラバウルでは、1年間で部隊が全滅しました。それから硫黄島では、3日3晩の空戦で全滅しちゃいましたね」
ゼロ戦を徹底的に研究したアメリカは、その2倍の馬力を持つ新型戦闘機を戦場に送り込んでいた。
「もうはっきり言うたら、零戦とF6Fいうたら戦争になりませんよ。そんなこと言うたら怒られるかもわからんけど」
「おっかなかったです。卑怯な話だけど、申し訳ないけど、自分の身を守るには逃げる以外にない。だってまともにやったら墜とされちゃうんですよね」
窮余の策として、ゼロ戦に爆弾を積んでアメリカ軍艦に体当たりする神風特攻隊が生まれる。
「その前から、とても普通の空戦で勝てる見込みはないっていうことは、はっきりわかってたもんで。とうとうここまで来たかという感じで。だから特攻に関しては、違和感は全然持ちませんでした」
パイロットたちは本当に、「お国のため」進んで命を捧げたのか。
「特攻隊は形としては志願するんですが、好き好んで志願した人はいないと思いますね。死んだら負けですからね。それなのに、死ぬのがわかってて自分からぶつかってゆく、というのは、これはもう戦争の次元じゃないですよ」
最初の特攻で戦死した関行雄大尉(当時23)は、従軍記者にこんな言葉を遺した。
「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させる自信がある」
「僕は天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」
以前、旅行で訪れたパプアニューギニアで、ゼロ戦が野ざらしになっていた。触ると、胴体も翼もペナペナしている。厚さ0.5ミリ。鉄砲玉はもちろん、パチンコ玉でも穴が開きそうに見えた。
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