前の職場の社内報をめくっていて、追悼記事に目が留まった。
病に倒れた60代の社員。余命宣告を受けて歩くことも難しいのに、朝3時の座薬で高熱を下げながら出社し続けたという。
「心の底から会社を愛していた」と書かれていた。
その会社で万年ヒラ社員だった私は、山登りが縁で、他部の部長と親しくなった。部長は若い頃、プロ野球取材で出張するたびに登山道具を持参。朝は山に出かけ、日が暮れると何食わぬ顔で球場に顔を出す、根っからの山好きだった。
彼と一緒に登山隊の同行取材を企画して、何度もヒマラヤに行った。雪中のテントでひと月も寝食を共にし、「釣りバカ日誌」のスーさんと浜ちゃんのような間柄になった。
彼が役職を退いてまもなく、連絡を取りたくてその部署を訪ねた。部長席には見知らぬ人が座っている。ヒラの私が部長に尋ねるのもどうかと思い、周りの社員に声を掛けた。
誰ひとり、元部長の消息を知らなかった。
ついこの間まで部下だったのに、あまりにもそっけない。いくら出世しても、辞めれば一瞬で忘れ去られるのだ。
その数年後、大学時代の山仲間を遭難事故で失った。母校のチャペルで追悼礼拝が行われた。
普段着の小ぢんまりした礼拝を想像していたら、直前になって式服の着用を指示された。
当日のチャペルは、大勢の黒い喪服姿で立錐の余地もないほど。そのほとんどが、彼の会社関係。故人を偲ぶために自らの意志で来たというより、上司の指示で動員された人が多そうだった。
おかげで盛大な式になった。これでよかったのだろう。山仲間たちは、遺影もよく見えない片隅で見守った。
社員の最期の最期まで関わろうとする。会社って何者?。
会社は「法人」と呼ばれるが、会社そのものに人格はない。社員が勝手な思い込みを抱いているだけだ。100人の社員がいれば、100通りの会社が存在するのだと思う。
確かなのは、ささやかな経済的安定と引き換えに、社員は人生の選択肢の、かなりの部分を手放すということ。気をつけないと、自分の人生のつもりで他人の人生を歩くことになる。
自分の専門を持ち、会社より仕事を愛することができれば最高なのだが。
自分が余命宣告を受けたら、残り時間は家族や友人と過ごしたい。貯金で赤いロードスターを買うとか、この世の見納めに、かつて暮らしたバンコクやパリを訪れるとか、やりたいことも多い。
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