2017年6月3日

瞑想はイスに座って


 風薫る週末、初めて瞑想にチャレンジ。

 海辺の町の小さな座禅会に参加した。

曼荼羅が飾られた庵に上がると、いきなり五体投地が始まった。全員で肘と頭を畳にこすりつけ、床にひれ伏す。続いてパーリ語の礼拝文を唱和する。

 ナモー タッサ バガヴァトー アラハトー サンマー サンブッダッサ

周りを窺うと、20人ほどの参加者の多くが、慣れた様子で暗唱している。

法話の後に「歩く瞑想」。僧侶を先頭に、近くの海岸を目指した。

呼吸に意識を向けながら、マインドフルに歩く。これがなかなか難しい。笑い声がさんざめく午後のビーチに、突然現れた無言の集団。若いカップルが気味悪そうに見ている。どうしても人目が気になる。

師が鏧子(鐘)を3回鳴らす。直立不動、海に向かって瞑想する。

遊んでいた子どもたちまで固まってしまった。

その後、ヨガのポーズで体をほぐして、いよいよ座禅を組んで瞑想に入る。

座禅といえば、胡坐。瞑想といえば、胡坐だ。私は体が硬く、胡坐をかくとひっくり返ってしまう。腹筋に力を入れて必死にこらえる。瞑想は体力だ。

10分後、早くも尻と股関節が痛くなってきた。残り時間は80分。

師が無我の境地に導こうとする。「呼吸を感じます・・・微細なエネルギーを感じます・・・右の手のひらがシュワシュワしてきます」。足が痛くてシュワシュワどころではない。隣で妻は、ちゃんとシュワシュワしたそうだ。

 ひたすら痛みに耐える。雑念が入る余地はない。ある意味集中できている。

痛みに。

これを瞑想とは言わないのだろう。

 延々6時間に及んだプログラムを終える。残念ながら、神髄に触れた気がしない。でも帰り道、心と体が少しだけ軽くなっていた。


 読経、戒名、法要、供養、仏壇・・・仏教は、もっぱら死んでお世話になるものだった。しかし欧米では、座禅と瞑想を「マインドフルネス」と呼んで、多忙でストレスに満ちた現代人の生活に生かそうとしている。

この座禅会を催した僧侶は、外語大を卒業後に出家して20年以上、国内やビルマで修行した。「仏教3.0」を唱え、葬式仏教と揶揄される日本仏教のバージョンアップを試みている。マインドフルネス指導者のひとりでもある。

法話の時間、師は赤い袈裟に身を包み、14インチのMacBookを膝に乗せて話した。薄暗い庵の中で、白いリンゴが光る。そして師は、瞑想を「悟り」で片づけず、できる限り言葉で説明しようとしていた。

 「瞑想で得られる心理状態は、画家や音楽家がフローに至る過程に似ている」「先日指導した漫画家は、考えなくても登場人物がセリフを言うようになった」「瞑想に劇的な効果などない。語学と一緒で、練習あるのみ」


 自分の部屋に曼荼羅を飾り、密かに瞑想に取り組もうと思う。
 もちろん、イスを使って。



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