2016年11月29日

3ちゃんレンタカー


 早くも雪が降った11月のある朝、ケータイが鳴った。

「週末は信州にお出かけですよね。タイヤをスタッドレスに替えときますね」

 いつも借りているレンタカー店からだった。行き先が標高1600メートルの山中で、途中に峠越えもある。すべてをお見通しの、ありがたいお言葉。

ずっと、駅から徒歩15分以内の賃貸物件を選び、近所でレンタカーを借りて済ませてきた。モノを持たない生き方が、シェアリング・エコノミーとして脚光を浴びているが、わが借りもの人生は年季が入っている。レンタカー歴は20年。

カーシェアリングが盛んになり、レンタカーにも価格破壊が到来した。近所のガソリンスタンドが、副業でクルマを貸しているが、1日借りても2500円だ。

 その代わり、この種のクルマは相当くたびれている。ただ動いてくれればいい、という割り切りが必要だ。

2年前、いまの街に引っ越してきて、いろいろなレンタカー店を試した。そのうち、自宅から自転車で通える距離に、新しい店がオープンした。

小さな自動車整備工場の片隅に、レンタカーののぼりを立てている。とうちゃん、かあちゃん、ねえちゃんの一家3人で兼業する「3ちゃんレンタカー」だ。

 クルマは、修理工場の客から下取りしたもので、走行距離も少なめ。メーカー系レンタカーに比べても、状態がいい。本業が自動車整備なので、メンテナンスや清掃は完璧だ。

すっかり気に入って、通い詰めた。この夏は、丸々ふた月借り切り、「禁煙車」のステッカーを外してもらって、マイカー気分を味わった。

 クルマを借りに行くたび、一家の飼い犬に吠えられる。支払いにカードを出すと、おかあちゃんは読み取り機のエラーで、毎回真っ青になる。

 でもそんなことは、まったく気にならない。

いつも、優先していいクルマを回してくれる。ただでさえ安い料金を、さらに値引きしてくれる。出発時は、一家総出でお見送り。クルマを返却した帰りには、ミカンや泥つき大根をおすそ分けしてくれる。

 あいにく酒に弱いので、私には行きつけのバーがない。食に淡泊なので、行きつけのレストランもない。今回、生まれて初めて「行きつけ」ができた。レンタカー屋だけど。

つくづく、行きつけっていいもんだなあ、と思う。

ところが最近、にわかにクルマが借りにくくなってきた。3週間先の予約が、すでに一杯で取れない。店のおねえちゃんは、「先月は3日しか休めなかった」と、うれしい悲鳴を上げている。個人的にはうれしくない。

例えていえば、行きつけのクラブで、なじみのホステスを取られた男の気分だろうか。経験ないですが。

シェアリング・エコノミーが廃れて、ふたたびクルマの所有が流行る日を待望している。

2016年11月24日

変化は友だち


 アメリカ大統領選の時、たまたま長野の山中にいた。

 テレビもネットもないおかげで、トランプ・ショックの直撃を免れた。

 結果が明らかになるにつれ、日経平均は急落し、ドル円も大きく動いた。いっぽう当のNY市場は、上昇してトランプ勝利を好感した。日本だけが、むだに狂騒曲を演じたようだ。



 国内でぼんやり暮らしていると、アメリカの空気感は読めない。投票前、トランプの支持率が、最後までヒラリーと競っていた。下品な顔で暴言を吐き、勝てるはずのないおっさんの、意外な健闘ぶり。もしかしたら・・・

そしてふたを開けてみれば、米国民の多くは「あのおっさん」に投票し、「もしトラ」が現実化した。

ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなど、こぞって反トランプの論陣を張ったはず。アメリカ人は、あまり新聞を読まないのだろうか。

新聞は、しょせんエスタブリッシュメントの代弁者。あの国の真実は、新聞の中にはないのか。

かつての新聞の影響力は、いまやテレビやネットの足元にも及ばない。それが証明されただけなのかも知れない。



振り返れば、今年1年で Brexit とトランプ・ショックという、ふたつの大きなサプライズがあった。

世の中、確かなことなど何もない、と改めて感じた。

でも自分でコントロールできない海外の政治イベントには、一喜一憂しない。将来予測も、不確定要素が多すぎて、あまり意味がないと思う。

今回の投票結果がポピュリズムの台頭、一時的な保護主義、排外主義につながる可能性はある。でも、ヒト、モノ、カネの自由な往来を伴うグローバル化の流れは、誰にも、たとえアメリカ大統領でも止められない。

グローバリゼーションを進めてきたのが当のアメリカで、多くのグローバル企業を擁するアメリカこそが、このシステム最大の受益者なのだから。

幸いグローバル化のおかげで、いまは誰でも世界市場にアクセスできる。クリック数回で、1000円から世界中の株や債券、不動産に分散投資が可能だ。

小さな街で賃貸に住み、いくつかの組織で働き、貯金はETFでグローバル経済全体に分散しておく。家財道具は減らして、いつでも引っ越しOK。

こうしてリスクを分散し、生き方に流動性を持たせておけば、どんな変化も友だちにできる・・・と思う。

悲観は気分。
 楽観は意志、の気概を持ちたい。



2016年11月16日

異国の幽霊


 日本語ボランティアを名乗って2年。夜の市民会館を舞台に、英、印、印尼、中、台、露、比、伯、エルサルバドル等の方々に、1対1で我流日本語を伝授してきた。

先週は生徒のベトナム人から、なかなかゾッとする話を聞いた。

 彼女は霊感が強い。そして悪いことに、アパートの前が病院である。

 シャワーを浴びる水音で、夜中に目覚めた。

その音は、自分の部屋のバスルームから聞こえてくる。

 身を固くしていると、今度はトイレの水を流した。

 ・・・たしかに誰かいる。

 日本語らしき言葉で、独り言をつぶやいていたという。

 彼女は気配を感じるだけだが、故郷の兄はさらに霊感が強く、「見て」しまうことがあるらしい。

 彼女は最初、「日本語検定の文法を教えて」と希望してきた。にわかボランティアの悲しさで、文法を教える技術はない。内心困っていたら、大丈夫だった。

 小学生の時、両親が離婚したこと。技能実習生として来日し、従業員20人の町工場で働いていること。節約のために卵とキャベツばかり食べて、5キロやせたこと。日本で3年がんばった後は、オーストラリアに行きたいこと。

テキストには目もくれず、つたない日本語で一生懸命、身の上を話してくれる。90分間、相槌を打っているうちに終わった。

年ごろなのに「今の給料では結婚相手に負けるから」、当面は独身でいるそうだ。ベトナム女性はみな、この人みたいに自立心が強いのだろうか。

 別の日の生徒は、台湾出身。2年前に死別した夫とのことを話してくれた。

 口の悪い人で、いつもバカバカ言われ続けた。最初に覚えた日本語が「バカ」。でも彼女ががんで入院すると、毎日見舞いにきた。夫が亡くなる時、言葉が不自由で、感謝の気持ちを伝えられなかった。それが心残り。

「てにをは」のめちゃくちゃな日本語で、涙ながらに語る。気持ちはご主人にも、十二分に伝わっていただろう、と想像した。

 この関東平野の端に、世界中から人が来ている。

欧米や、将来性のある中国でなく、この
日本に来て日本語を学んでくれる。

ただただ、感謝しかない。

そして会の日本人ボランティアは、真面目な人が多い。きちんとテキストに従って教え、生徒の日本語検定合格を生きがいにする人もいる。

私は不真面目。しょせんはボランティア、自分だって楽しみたい。学習意欲の旺盛な人は敬遠して、友だちが欲しい人、日本語でおしゃべりしたい人を探す。そして、雑談に持ち込む。

フランスとタイで10年も暮らしながら、仏語もタイ語もカタコト以下で終わった語学音痴だ。自分の母語でできる異文化交流が、とても楽しい。



2016年11月9日

パリで育つと美食家になる・・・とは限らない


 ミャンマー北部の避暑地、メイミョーを訪れたときのこと。タクシーに乗っていると、ロンジー(腰巻)姿の運転手が、坂の途中でブレーキを踏んだ。

道端に何かが並んでいる。降りてみると、イチゴだった。日本の赤いイチゴに比べると、小ぶりで白く、とても貧相だ。

迷っていると、運転手が2人分買ってきてくれた。

泥水にざっと浸したイチゴを、彼は無造作に食べる。ホテルに戻ってから流水でよく洗い、恐る恐る、一粒食べてみた。

おいしい。

日本の、品種改良を重ねられたイチゴの甘さとは違う。南国の土と太陽で育った濃密さ、野太い甘さを感じた。



フェイスブックに、友人の「どこそこで何を食べました」という投稿が並ぶ。おいしそうな写真がたくさんある。

たまには当ブログも食べものネタを・・・

子どもの頃、パリですごした。放課後はエッフェル塔が見える公園で、コーラ1リットルの一気飲みを競った。休日は小学生の分際で、ボカシなしの「エマニエル夫人」を鑑賞の後、シャンゼリゼ通りのマクドナルドへ。フランス料理のつもりで?ビッグマックをほおばった。

その後、日本の高校へ。好きな山登りの費用を捻出するため、200円だった学食のカレーを、2か月連続で食べた。大学時代も山登りに熱中し、街では節約。いちばん安かった学食のカツ丼を、来る日も来る日も食べ続けた。

山岳部の冬山合宿には「乾米」という、粉々になった米を乾燥させたものを背負っていった。安かったのと、荷物を軽くするためだ。家畜のエサ用を、業者から仕入れた。

19歳のとき、インド放浪の旅に出た。貧乏旅行がカッコいいとされた時代。いかに1日500円、1000円の予算で旅を続けるか、が目的化した。

インドに着いた晩、屋台のカレーを食べた。暗くてよく見えないが、泥みたいなカレーだ。口をつけても、泥みたいな味がした。ひたすら辛く、その辺の水をグビグビ飲んだ。これが、インドか。

その夜中から、ひどい下痢が始まった。ひと月後に帰国するまで、毎日続いた。ひと月下痢しても、人は死なないとわかった。

帰国した成田空港の検疫で、便から赤痢菌が検出され入院。隔離病棟のベッドで、食べたおかゆがおいしかった。

長じて新聞社のバンコク特派員になると、今日はアフガン、明日は南太平洋と出張続き。飛行機の座席で暮らす日々は、機内食が栄養源だった。雲の上の食事はタダだ。

3年間の任期終盤は、機内食を見るのもいやになった。タイ航空で洋食を頼むと、ステーキでもパクチーとナムプラーの香りがした。

・・・やっぱり食事ネタはうまく書けない。



肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...