2016年8月31日

天皇の家庭教師


 森を散歩していたら、向こうからおじいさんが歩いてきた。

麦わら帽子をかぶって、ゆらりゆらりと。

あいさつすると、帽子の下で優しげな青い瞳が光っている。

 その日は朝から晴れて、この夏初めて、北アルプスがはっきり見えた。重厚な岩山の連なりを、しばらく2人で眺めていた。

 その1週間後。こちらで知り合った元国際線パイロット氏に、「明日、うちにイギリス人が来るんだけど興味ある?」と誘われた。なんでも、「中世日本(鎌倉・室町時代)で寺が社会に与えた影響」を研究する元教授だという。

 たまにはアカデミックな話もいい。でも日本史は苦手だ。難しい話を英語でやられるのも苦手。

 翌日、森の中を30分歩いてパイロット氏宅に着くと、見覚えのある人が立っている。

あの時のおじいさん。

奥さんは日本人で、本人も訥々とした日本語を話した。

名前をマーティンさんという。経歴を聞くと、ただのじいさんではなかった。英ケンブリッジを卒業後に来日し、請われて東大へ。その後アメリカに渡り、ハーバードとプリンストンで教えていたという。

絵に描いたようなインテリというか、インテリが服着て歩いているというか。

さらに驚いたことに、東大時代、彼は皇太子(現天皇)の英語教師をしていた。皇居の中までタクシーで通ったので、運転手が何度も行き先を聞き返した。

英語の勉強中、背後の水槽で魚が泳いでいた。「最近、彼が生前退位に言及したのは、公務から離れて魚の研究がしたいのでは?」とはマーティンさんの見解。

プリンストン時代は、作家の村上春樹も大学にいた。ある日ランチに招待すると、ハルキは15キロの道のりをジョギングできて、シャワーと食事の後、また走って帰っていった。「彼はとても真面目でシャイな人でした」。

マーティンさんは最近、学部長職を最後にプリンストンを定年退職。妻の母国で老後を送るために、47年ぶりに日本の土を踏んだところだという。

思いがけない出会いがある。朝の散歩は三文の徳。

毎日森を歩いていると、苔むした古い山荘が点在しているのを見る。廃屋とばかり思っていると、夏の夜、突然窓に明かりが灯る。ひっそり暮らす彼らは、マーティンさんのみならず、多彩な経歴の持ち主だ。

大学教授。外交官。指揮者。画家。パイロット。山岳ガイド。環境コンサルタント。援助団体主催者。山野草愛好家。

人生の先輩に話を聞くのが、こちらでの楽しみになった。

そんな散歩の途中、路傍にサンダルや運動靴が置いてある。気味悪いほど、あちこちで見かける。

キツネの仕業だそうだ。玄関先やバルコニーから片方だけくわえて、自分の縄張りに持っていく。

夏が終わり、山荘から人影が消えると、森はいよいよ彼らのものだ。


2016年8月26日

残暑の丸の内


 信州の森を出て、東京・丸の内へ。小学校の同窓会に出た。

42年ぶり、劇的な再会なのである。

「32年ぶりの劇的な再会」だった高校の同窓会では、私だけ当時のことをろくに思い出せず、話に加われなかった。それがトラウマになって、今回は出席にかなり勇気が要った。42年ぶり・・・懐かしさより、怖れが先に立つ

 生唾を飲んで、会場のレストランへ。すでに、当時の恩師ほか6人が集まっていた。

いきなり、目の前に座った先生を思い出せない。

 冷や汗を流していると、先生の方から「あなた誰だっけ?」。今まで数えきれないほどの子を教えてきたのだろう。そして、先生と私は半年しか重なっていないことも判明。お互い覚えていないわけだ、ということにしておく。

 クラスメートのうち2人の顔は、すぐわかった。変わってないな~、と思ったら当たり前で、この2人とはその後同じ高校に入り、卒業まで一緒だった。

 残りの4人とは正真正銘、42年ぶりの再会になる。お互い、ウッと息をのむ。当時の白黒写真を見せあい、「これがボク、こっちがキミ」と確認するうち、徐々に記憶が蘇ってきた。

今日ここに集まったのは、母校・パリ日本人小学校の当時3年生たち。クラスが10数人だったので、その半分が揃ったことになる。

親の転勤で友だちがひんぱんに入れ替わり、日本全国、世界に散らばった。長らく音信不通だった時期を経て、今回7人もが集まれたのは奇跡に近い。

日本人学校ができる前は現地校に通い、フランス人から「シノワ(中国人)!」といじめられた。帰国後、今度は日本の学校で「フランス帰り!」と仲間はずれに。思い出話をするうち、みな似たような体験をしていたことを知る。

その後親として、我が子を学校に通わせたTさん、「少しでも皆と違う子を排除する日本の子どもたちの気質は、今もまったく変わらない」と言っていた。

「学校の廊下にシャンデリアが並んでて、赤いじゅうたんが敷き詰められてたよね」「毎月のように友だちのお別れ会があって、出し物を考えるのが大変だったよね」「そうそう!」みんなの会話が弾む。ところが・・・例によって、ことごとく覚えてない。

相当ぼんやり生きていたようだ。もったいないことをした。

M君の帽子お洒落だなあ、と眺めていたら、彼はデザイナーだという。ほかにもグラフィックデザイナー、ミュージシャンなどクリエイティブな職業が多い。いちどパリの空気を吸うと、やっぱりその後の生き方に影響する。

感慨にふける私の傍でグラフィックデザイナーのE君、「あの頃、Sちゃんから日本の少女マンガを借りて読んだおかげで、絵心に目覚めた」。

・・・別にパリでなくても、目覚める場所はどこでもよかったみたい。




2016年8月17日

上司はバルチック艦隊司令官


 久しぶりの雨。車のフロントガラスに、濡れ落ち葉が張り付いている。お盆休みも終わり、季節は秋。

 いつもはシカとキツネが隣人だが、お盆の時期は、歩いていてヒトと出会う。森の中で、こんにちはと会釈を交わす。誰もが、自然な笑顔を見せてくれる。

 マダガスカルで刺繍を収集し、自宅で展示会を開いた元外交官夫人。ネパールの子どもたちの学費を集め、毎年現地に届けている女性。言葉を交わした人たちは、みな楽しげだ。リタイア世代が多く、時間にもお金にもゆとりがある様子。

 不機嫌顔が交錯する東京の月曜朝とは、まるで別世界だ。

 ちなみに外国に行くと、さらにハッピーな人が多い。タイ人やアメリカ人には、根拠のない明るさを感じる。根拠がなくても上機嫌でいること、これは大切だ。

 世界の幸福度を調べた調査によると、最貧国で治安も最悪のアフガニスタン人さえ、日本より幸福度が高い。ヒトはどんな環境にも慣れる、たくましい生きものだ。そして日本人は、平和でモノが豊富な時代に慣れすぎて、幸せ不感症。

「この国には何でもあるが、希望だけがない」 村上龍

晴耕雨読。町の図書館から借りた「坂の上の雲」全8巻を読み進め、佳境に入った。次のページは、いよいよ日露戦争の奉天大会戦と日本海海戦。

まだ日本に勢いがあった時代を描いたノスタルジー、と思っていたら、かなり違った。司馬遼太郎はなぜこの本を書いたのか、今これを読む意味はどこにあるのかに気をつけながら読むと、ゴツゴツした手ごたえを感じる。

小さな新興国家の日本が、巨人のような中国、ロシアと戦って勝った。それは相手国の退廃と自滅に助けられた、まさに薄氷を踏む勝利だった。

「この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した」(単行本第2巻あとがきより)

 そしてこの物語の40年後、日本は無謀にもアメリカと戦い、負けた。

「240万人の戦死者の7割が、餓死か栄養失調か、それに伴う病死でした。そんな無残な死に方をする戦争なんてありえません」(同じ戦中派作家の半藤一利)

「勝利が国民を狂気にし、敗戦が国民に理性を与える」(第2巻あとがきより)。遺骨収集団の取材でニューギニアに行き、密林の土から下顎骨を見つけたときの、何とも言えないやるせなさを思い出した。

 ところで、登場する将軍たちの人物描写が、とてもリアル。元サラリーマンはつい、「こんな上司、いるいる!」思わず感情移入してしまった。

支局長室のソファーでごろ寝しながら、私をインドでもニューギニアでも、二つ返事で行かせてくれたバンコク時代のボスは、陸軍大将の大山巌タイプ。

部下の出張旅費を熱心に見ては、「もっと安いホテルがあるだろ」「レンタカーはいちばん小さな車で」と言った某部長は・・・

全滅したバルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令官・・・





2016年8月10日

風が運ぶオリンピック


 風の便りに、オリンピックの開幕を知った。

 吹き抜ける一陣の風が、ミズナラのこずえを鳴らす。森の声に耳を澄ませていたら、

「うわああああ」「ぎゃああああ」

シカともキツネとも違う声に、静寂を破られた。

木立の向こうの家からだ。テレビを見て叫んでいるようだ。

歓声と悲鳴。

翌朝届いた新聞で、サッカーや競泳の試合があったことを知った。

地球の裏側でやっているにしては、日本の昼に生中継される競技もあるらしい。私と妻は半年待って、年末に放映される総集編を見ることになりそう。

4年に1度のオリンピックに、新聞社は大取材団を送り出す。ひとたび開幕すれば、紙面は1面、運動面、五輪特集面、社会面などで大展開する。ほとんどスポーツ新聞状態。

カメラマンにとっても、オリンピックに派遣されることは大変な名誉だった。冬季五輪を含め、チャンスは10回あったのに、自分はかすりもしなかった。

多くのスポーツ取材で、ろくにルールも知らずに撮っていた。たまたま指名されたサッカー・アジア予選の取材では、ゴールシーンをことごとく外した。これでは、選ばれなくて当然、といえば当然だ。

いやいや正確には、少しかすった。五輪開催地を決める、IOC総会の取材。ソウルとシンガポールに出張した。

2005年、勇躍シンガポールの会場に乗り込む。五輪取材のベテラン記者が、自信ありげに「2012年はパリで決まり!」と言う。その言葉を信じ、フランスの招致団にカメラを向けて発表の瞬間を待った。

不意に、背後でどよめきと大歓声が上がった。開催地に決まったのは・・・ロンドンだった。

そりゃないよ~

翌日の紙面には、喜ぶイギリス招致団を撮った外電写真が大きく掲載された。私が苦し紛れに撮った「呆然とするフランス招致団」は・・・当然ボツ。

空振りで 経費請求 そっと出し

難しいとされるサッカー取材はともかく、会議取材でも大失態。オリンピックには、いい思い出がない。

お盆休みに入り、この信州の森にも、都会から人が流れ込んで来た。スマホやテレビを持つ彼らを通して、五輪情報が漏れてくる。木漏れ日の読書が、たび重なる奇声で中断される。

自分だけネットやテレビを遠ざけても、これから閉会式までは、一喜一憂の波動に飲み込まれてしまうのだろう。ソローの「森の生活」を気取るなんて、とてもとても。

オリンピック、恐るべし。

2016年8月2日

ニュース断食と停電


 バルコニーに面したカーテンを、そっと開ける。

 時々、早朝の庭に来客がある。シカの母子だったり、かわいいオコジョだったり。カメラを出そうとすると、気配を察して行ってしまう。

今日も、森は霧に包まれている。梅雨明け後も、天気はぱっとしない。気温も上がらない。

数日前まで、暖房を使っていた。夜は鍋料理で温まり、妻は湯たんぽを愛用している。

今夏は猛暑、という長期予報はいずこへ? 山荘に来たのが、少し早すぎたのか。

でも超長期的に、信州に拠点を持つ選択は正しいと信じている。

気候変動、地球温暖化で、いずれ民族大移動が始まる。暑さに耐えかねた都市住民が、雪崩を打って、より標高の高い土地を目指す。

従来の避暑地・箱根は、いずれ亜熱帯気候になる。近い将来、軽井沢でさえ熱帯夜が連続。キツツキの穴だらけの、この中古山荘が、じわりじわりと価値を上げていくに違いない。

先見の明を持つ人は他にもいて、この辺り、山荘が点在している。葉月を前に、住人が増えてきた。夜バルコニーに出ると、暗い森に、ひとつ、ふたつと明かりが灯る。どの家も、窓の中でテレビが点いているのが、樹林越しに見える。

 森の我が家に、テレビはない。今の生活には、いらないみたい。新聞社で働いていた頃は、職場ではもちろん、家でもテレビつけっ放しだったのに。

「アメリカで銃乱射」「バングラデシュでテロ」「相模原の障がい者施設で19人刺殺」「東京都知事に小池氏」

 このような出来事をテレビで知っても、どうなるものでもない。そもそも、国内外で起きるニュースはほぼ100%、自分でコントロールできない事柄だ。もはや東京都民でもないし。

限られた人生の時間は、自分でコントロールできることだけに集中したい。

それにしても世の中、ネガティブなニュースばかり。公金着服や株の暴落、大量殺人、ひいきチームの大敗。下手に耳に入れると、無用に気分が損なわれる。

職業上必要な場合を除けば、人が無自覚にニュースにさらされるのは、有害とさえ言えそうだ。

 この環境で唯一、あってもいい情報が天気予報。でも、これが当たらない。山の天気は、毎日が「曇り時々雨一時晴れ」。たった今も、予報にない大雨が降っている。

あまりの土砂降りで、なんと我が家は停電してしまった。

いよいよ世の中と隔絶される。もう少し標高を下げれば、町の防災放送が聞こえてくるのだが・・・

ここは運を天に任せよう。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...