2016年4月25日

Re:早期退職したMさんへ


 退職して1年半が経ちました。東京は生活費が高いので、地方都市に引っ越して慎ましく暮らしています。

毎日、4つのボランティアを掛け持ちしています。障がい者や高齢者を福祉車両で病院に送るNPO。生活保護の子どもたちの塾講師。在住外国人の日本語教師。そして認知症専門グループホームの手伝いです。

ボランティアは取材と違って、高齢化や格差社会を内側から見ることができます。自分が興味を持つ分野でボランティアをすれば、インターン同様、職業訓練になるとも感じています。

ただ、体が動くうちは、海外で国際協力の仕事をしたいという気持ちがあります。今年は、1月から3月までタイやネパールに行き、自分に何が出来るかを探ってきました。この職探しの旅は不発に終わり、結果的に遊んできただけで終わってしまいました。

さて、ぼくの退職理由です。

20年余の報道カメラマン稼業は、海外特派員も経験し、恵まれていました。それだけに、社内に閉じ込められて現場と上司との板挟みになるだけのデスク業務は、大変な苦痛でした。
幸い、本社にはバブル期入社のデスク候補がたくさん余っています。3年後、再び現場に近い立場に配置換えしてもらえました。

念願かなったはずなのに、再びカメラを持ってみると、どうも仕事に身が入らない。もはや自分には、写真に対する情熱が残っていなかったようです。
定年延長でつまらなそうに働く先輩の姿に、明日の我が身が重なります。この会社のどこにも居場所がなくなりました。
絶好のタイミングで早期退職優遇制度が始まり、さっそく飛びついた次第です。

もう、カメラはすべて処分してしまいました。

昨年の収入は、失業給付100万円と、有償ボランティアの20万円だけ。でもぜいたくしなければ、退職金と株式投資で暮らせます。その間に、人生後半のライフワークを見つけたいと思っています。

君の場合、写真への情熱を失っていないのは大きな財産です。この会社の給料はいまだ一般企業より恵まれており、報道写真だけで食えるのも新聞社や通信社の正社員だけです。退職をちらつかせて脅しながら、現場への配置転換を画策するのもいいと思います。

一方、夜眠れないというのは、軽く見ない方がいい。辞めるなら病む前に、です。ぼくが君の子供だったら、たとえ今より質素な暮らしになっても、明るいお父さんでいて欲しいです。

とりあえず、思いついたことを書きました。ぼくで役に立つことであれば、何でも聞いてください。


2016年4月17日

危険な日本語学習


 サクラ咲く春に帰国。久しぶりに、外国人に日本語を教える地元のボランティアグループに顔を出した。

最初に担当したのは、台湾女性のツルさん。数年前に日本人の夫を亡くし、ひとり暮らす自宅のローンを年金で返し続けている。完済まで、あと4年。

この冬、久しぶりに台湾・玉山山麓にある生まれ故郷に帰省した。台湾もいいが、日本の家を引き払う気はない。「ワタシにとっては台湾で暮らすのも、日本で暮らすのも一緒」なのだそうだ。

ツルさんの1日を、日本語で綴ってもらった。最近の日課は、朝夕のイヌの散歩。畑仕事で収穫した野菜を、近所に配って回るのが楽しみだ。時々、近くに住む孫たちが押しかけてきて、夕食の支度がいきなり大仕事になる。

別の日には、来日したばかりの中国人男性と会話の練習。30代の周さん、ポロシャツにジャンパー姿だが、中国では名の知れた大企業のアジア地区担当役員。これまでタイやインドネシアを統括してきたが、今回日本に拠点を作り、新しく市場を開拓したいという。

故郷の自宅には、1000万円以上もするドイツ製高級車があるそうで、趣味はドライブ。日本語だけでなく、文化や風習も学んで、日本企業との交渉に生かしたいと意欲的だ。

この日本語教室に顔を出し始めて、はや1年。これまで中国人、ベトナム人、インドネシア人、フィリピン人、台湾人、ロシア人、ブラジル人、エルサルバドル人、イギリス人、香港人と1対1で交流した。東京から80キロ離れた田舎にも、本当にいろいろな国の人が暮らしている。

日本人の配偶者と結婚した人。日本企業に就職、または研修生として働いている人。2歳の一人娘を祖父母に預け、夫婦で出稼ぎに来た人もいた。

収入を少しでも増やすため、日本語検定を目指していたベトナム人のハイさん。かなり覚束ない日本語だったのだが、久しぶりに会うと、留守中に受験して見事に合格していた。

ところで、日本語が上達すると、なぜか物腰まで日本人に似てくる人がいる。特に、ていねい語をマスターした頃が要注意。本音と建前を使い分けたり、空気を読んだり、といった高等技術を覚える人さえいる。

日本語ペラペラの外国人の中にも、アイデンティティを失わない人はいる。すぐに思い浮かぶのは、元横綱・朝青龍だ。彼の完璧な日本語の向こうからは、モンゴルの悪童の香りがプンプン漂ってくる。

道具としての日本語は使いこなしても、中国人は中国の流儀、ロシア人はロシアの流儀を貫いて欲しい。大陸の乾いた風をびゅうびゅう吹かせるべきだ。

日本社会が持つ湿った同調圧力を、「外圧」で吹き飛ばして欲しい。

2016年4月10日

確かなものは何もない②


 アジアを巡る長旅に、分厚い本を持って行った。

 大判ハードカバー422ページ。ずっしり重い。

 スーツケースに隠し持っていたが、バンコクで家人に見つかった。パンツは3枚しか持ってこないのに、漬け物石みたいな本を持ってきた、と呆れ顔をされる。

 漬け物石の正体は、ジェレミー・シーゲル「株式投資」の原書、 “Stocks For The Long Run”。私にとってのバイブルだ。

 初版が出たのが20年前。版を重ねて、最近改訂第5版が出た。邦訳は4版止まり。待ち切れずに、アマゾンで最新の英語版を取り寄せた。

 届いてから、その厚さにたじろぐ。日本語版は、中身を半分省略している。

デジタル版を買えば安いし、持ち運びも便利だ。でも、我が聖書と仰ぐ以上、これくらい重いほうが信仰心が増す。

 出発前は、日々の日本語情報ばかり追ってしまい、英語の本には手が伸びなかった。言葉が通じず、新聞も配達されず、インターネットもない異国の環境で、落ち着いて読もう。

 長期滞在したチェンマイやカトマンズで、ページをめくった。

英語は旅行会話がやっとなのに、「標準偏差」「相関」「効率的市場仮説」といった金融関係の単語にだけはめっぽう強い。この偏り、自分でも何とかしたいが、どうにもならない。

結局、この本は何を言っているか。「株式投資は、短期的な変動さえ許容できれば、長期的には最良の結果をもたらす」と、前文の2行でいきなり結論。残り400ページを使って、延々とこれを実証している。

200年にわたる株式市場の歴史で、私が自分のお金を投じたのは、せいぜい20年。20年を長期と言えるかどうかわからないが、この間、株式投資が持つ力を確かに感じられた。会社本位の他律的な生き方を変えるための、精神的支柱となった。

漬け物石がいう通りだった。

これから先もずっと、株式が私に果実をもたらすかはわからない。私が市場から得たもうひとつの感慨は、「世の中確かなものは何もない」だ。

この不確実性を前提に、株式の分散投資で金融資本のポートフォリオを組む。同時に、ひとつの会社にしがみつかず、複数の収入源を持つことで人的資本でもポートフォリオを組む。これが、今の私にできることだ。

ところでこの漬け物石の教義、友人たちに吹聴して回ったが、まったく賛同してもらえない。

さまよえる子羊たちよ、最後に笑うのは私だ。

2人の友だけが、賢明にも伝道者の意見を受け入れて、株式投信の積み立てを始めた。神は汝に微笑み、社畜を脱する力を与えるであろう。

でも投資はあくまで自己責任でお願いします。




2016年4月3日

確かなものは何もない


 大学生3人と10日間、ネパールで一緒にトレッキングする機会に恵まれた。

 A君とB君は4月から新社会人。Cさんは4年生になる。みな体育会山岳部員なので、ヒマラヤの山麓歩きなど朝メシ前だ。どんどん先に行かれてしまい、ひとり置いてきぼりを食って遭難しかけた。

 Cさんのお母さんと自分が同い年、と聞いて呆然。50を過ぎた、という自覚が足りなかった。いくら自分を若いと思っていても、本物の若さを目の当たりにして、その食欲、その活力にただ驚くばかり。

A君とB君、「あ~働きたくね~」と言いながら山を眺めている。これから当分、長い休みは取れないと達観している。その気持ち、よくわかる。

 でも次の長期休暇は、彼らが思うより早く来るかも知れない。それも、思ってもみない形で。

 私が就職したのは、バブル経済真っ盛り。日本の大企業に入れば、将来は安泰と言われた。年功序列に乗り、定年まで働くことを疑わない時代だった。

 それが最近、東電やJAL、東芝、シャープを見るまでもなく、誰もが知っている大企業が、あっという間に没落していく。環境変化のスピードが早い。

大卒で市場に出る彼らの、今後40年に及ぶ労働人生より、会社の寿命の方が先に来てしまうのではないか。

 Cさんは両親が教員で、自らも小さい頃から教師になると決めていた。とても幸せなことだと思う。その頃の私は、何になりたくないかはわかっていても、何になりたいかはわかっていなかった。

 30年前の私は何をしていただろう。クラウドに保存してある昔の日記を読むと、21歳の誕生日は何と、ネパール・カトマンズで迎えている。

この旅では、中国の6000メートル峰を登山後、カシュガルからヒッチハイクでネパールにたどり着き、その後インドのカルカッタに抜けた。

もうすぐ最終学年だというのに、将来を憂うような記述は一切ない。誕生日の夜は、貧乏旅行者仲間と一緒にマリファナを吸い、いい気分になっていた。

この能天気さは、何なのだろう。私たちは、明るい日本の将来を信じられた、最後の世代だったのだろうか。

A君とB君はアベノミクスの波にも乗り、就職活動は順調だった。生まれたタイミングが数年違っただけで、たまたま就職氷河期に当たってしまった学生は、なんとも気の毒だ。

でもこれからの世の中、確かなものは何もない。その時点での人気企業が、すでに業績のピークを迎えている可能性も高い。たとえ希望する会社に入れなくても、必要以上に嘆くこともない気がする。

何年後になるかわからないが、再びこのメンバーでヒマラヤを歩き、お互いのキャリアを語り合いたい。


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...