2025年10月17日

心理学者の子育て

 

実験台のイヌに餌を与えると、条件反射で唾液が分泌される。

次に、餌を与えながら、メトロノームの音を聞かせる。

何度も何度も、それを繰り返す。

やがてイヌは、餌なしでも、メトロノームの音を聞いただけで唾液を分泌するようになる。

有名な「パブロフのイヌ」の実験だ。

この一連の手続きは「レスポンデント条件づけ」と呼ばれる。これを心理学用語で説明すると、

「無条件刺激と条件刺激の対提示の反復により、無条件刺激に対する無条件反応を、条件刺激のみの提示によって、条件反応として発生させる手続き」

ということになる。

 この実験に人を使ってしまったのが、アメリカの心理学者ジョン・ワトソンだ。

まず、アルバート坊や(1歳)に白いネズミを見せる。

かわいいネズミに手を伸ばして触ろうとする、アルバート坊や。

そこに恐怖はない。

次に、坊やが白ネズミに手を伸ばした瞬間を狙って、ワトソンが鉄の棒を思い切りハンマーで叩いた。大きな音が、響き渡る。

数回繰り返すと、やがて坊やは、白ネズミを見ただけで泣き叫ぶようになった。

この実験により、「恐怖」という情動さえ、条件付けによって学習されることが明らかになった、ということだが…

いやはや、1歳児を相手にとんでもない実験をやったものだ。

 「私に健康な乳児を12人預けてくれれば、彼らを医者でも弁護士でも芸術家でも、どんな種類の専門家にでも育てて見せよう」

と豪語したワトソンは、学習理論を引っ提げて一世を風靡した。

 

ここまでが、心理学の教科書で教わる部分。実は、この話には続きがある。

ワトソンは、「アルバート坊や」の実験で助手を務めた女性と不倫した。それが公の知るところとなり、大学を解雇される。

30代の若さで、心理学界から追放されることになった。

妻子と絶縁したワトソンは、不倫相手との間に2人の子をもうけた。「情緒的接触を排し、冷静に条件づけによって育てる」ことを育児の理想とし、「抱きしめるな、キスするな、頭をなでるな」と説いた本を書き、自ら実践した。

その結果、どうなったか。

長男は、うつ病を発症して自殺。次男も心を病んだ。次男は後年、「私たちは愛情を知らずに育った。父の理論は理論としては立派だが、人間を幸福にはしない」と語ったそうだ。

ワトソンの子どもたちの人生は、愛情を排除した環境がいかに人間を傷つけるかを、証明してしまったのだ。

Cebu Philippines, 2025


2025年10月10日

カリスマ塾講師

 

K塾東京校・S先生の心理学概論は、いつも緊張感に満ちている。

顔を覆うマスクから露出した鋭い目で、眼光ビームを飛ばしながらの講義。時おり510秒ほどの不気味な沈黙が挟まり、ますます生徒の緊張をあおる。

S先生の講義をオンライン視聴していると、自分は名古屋校を選んでホントよかったなぁ、と思う。

 

「ところでみなさん、ゴキブリを素手で掴めますか? 私は掴めます」

生徒を睨みつけるように8秒間沈黙したのち、おもむろにS先生が言った。

先生が解説する「レスポンデント条件づけ」理論によると、人がゴキブリを怖がるのは、ゴキブリを見た母親が「キャーッ!」と叫ぶのを目撃するうちに、いつの間にか「ゴキブリの姿→恐怖反応」と学習した結果なのだという。

「なにしろ大昔、ゴキブリは人間の食料だったんですから」

そして、この恐怖は生得的なものでなく「誤った学習の結果」なので、再学習により「消去」することも可能だという。

そうかなー、自分は一生、ゴキブリを怖がりそうだけど…

 

「ところで皆さん、鼻くそをほじったことはありますか? 私はほじります」「でも、時と場合によります」

この唐突な発言は、「客体的自覚理論」の講義中に飛び出した。人は、他人がいる時といない時とでは、行動がまるっきり違ってくる、という話だ。

そういえば、学生時代に旅したバンコクのデパートで、きれいな女子店員が、鼻の穴に小指を突っ込んでいたっけ。ここ最近は残念ながら(?)、そういう光景を見ることはなくなった。

社会的規範は、時とともに移ろうものらしい。

 

「人は生まれた時から性欲を持っており、性感帯が口唇(0~1歳半)から肛門(~3歳)、男根へと移っていく(男児の場合)。4歳ごろから母親への性愛感情を抱くが、父親に復しゅうされペニスを奪われる、という不安を募らせる」

フロイトの「心理―性的発達段階説」を解説しながらS先生、猛烈にフロイトを罵倒した。確かに「ホンマかいな?」と思うような理論だが、一世紀を経てなお心理学の教科書に載るということは、それなりに真実なのかも知れない。

「フロイトは、ただのエロジジイ。天才的なエロジジイです」

「20世紀の思想の巨人」を、公然と「変態」呼ばわりするS先生。フロイト派が多いK大学やG大学の先生には、ちょっと聞かせられない講義だ。

予備校のカリスマ講師は、かくも個性が強いのです。

Shanghai China, 2025


2025年10月3日

代理母とモンスターマザー

 

心理学の世界に「ハーロウの代理母」という、かなり有名な実験がある。

まず、アカゲザルの赤ちゃんを、母ザルから引き離して檻に入れる。

次に、2体の模型の代理母を同じ檻に入れる。

1体は針金製。胴体の表面に、針金がむき出しになっている。

もう1体はタオル製。胴体に、タオルを巻き付けてある。

通常、アカゲザルの赤ちゃんは、母親にしがみついて一日の大半を過ごす。

さて、本当の母親がいないこの子ザルは、どちらの代理母にしがみついたでしょう?

実験の結果は、大方の予想通り。

子ザルは、タオル製の代理母にしがみつく時間が圧倒的に多かった。

そして意外なことに、針金製の代理母にミルク入りの哺乳瓶を付けてもなお、子ザルはタオル製代理母の方を好んだという。

この研究は、子どもはおっぱいで空腹を満たしてくれるから母親を好きになる、という「二次的動因説」への反証となり、父親の育児参加を促すきっかけになった…ということだ。

 それでは、もし私と妻の間に子どもがいたら、その子は私に愛着を示してくれただろうか?

何しろこのお父さん、おっぱいが出ない上に、針金のように痩せている。

結果次第では、心理学史に残る人体実験として、後世に名を残せたかも⁈

 

ハーロウはまた、「モンスターマザー」と呼ばれる実験を行っている。

今度は、子ザルがタオル製の代理母に抱きつくと、突然、針が出て来て突き刺す、というプログラムを組んだ。

この実験で子ザルは、針に刺されてもなお、「母」に抱きつくことをやめなかった。

何度刺されても、泣き叫びながら、再び抱きついていった。

虐待する親にも向けられる、子どもの無条件の愛。

果たしてこの実験結果、人間にも当てはまるのだろうか…

 ※実験が行われたのは、1960年代のアメリカ。そのあまりの残酷さに、現在これを追試して再現することはできない。

 

一連の実験を行ったハリー・ハーロウは、「天才心理学者」「愛を科学で測った男」と呼ばれた。

だが、彼の生涯を描いた本によれば、「愛」を研究対象にしたハーロウ自身は生きることに不器用で、終生「愛」に悩み苦しんだ、と伝えられている。

Bangkok Thailand, 2025


心理学者の子育て

  実験台のイヌに餌を与えると、条件反射で唾液が分泌される。 次に、餌を与えながら、メトロノームの音を聞かせる。 何度も何度も、それを繰り返す。 やがてイヌは、餌なしでも、メトロノームの音を聞いただけで唾液を分泌するようになる。 有名な「パブロフのイヌ」の実験だ。...