2022年11月26日

イカの塩辛

 

 緩和ケア病棟の患者さんは地元の人が多いが、中には首都圏からの移住組もいる。

 同じよそ者同士、何となくウマが合う。

 

K子さんは、95歳にして頭脳明晰。彼女の病室をのぞくと、いつもスマホでLINEのやりとりをしている。

90歳になるまで、自分でクルマを運転していたという。

K子さんは夫を見送った後、しばらく東京西郊で長男一家と同居していた。新宿で生まれ育った彼女にとって、その町は「な~んにもない田舎」。

数年前、ついに家を出て、それまで夏を過ごしていた八ヶ岳山麓の別荘で、ひとり暮らしを始めたのだという。

 ある日、病院食の薄味に飽きた彼女が「Tスーパーのイカの塩辛が食べたい」という。昼休みにクルマを飛ばして、都会的な品ぞろえのTスーパーを往復し、小鉢に塩辛を盛って差し出した。

「…これ明太子の味しない? 私が言ったのと、ちょっと違うのよね」

 

 いつもお洒落なTシャツを着たY子さんの病室のベッド脇には、分厚い「会社四季報」が鎮座している。

 株式投資をするんですか?と聞くと、

「個室に入ってることだし、入院費用ぐらい稼がないとね」

 Y子さん夫妻が首都圏から移住してきたのは、20年前。きっかけは、ご主人が「会社を辞めて、自転車で日本一周したい」と言い出したこと。その背中を、Y子さんはドンと押した。

「でも出発した日の夜、公園で野宿中に所持金を全部盗まれちゃったの。彼は人を疑うことを知らないから」

 そして移り住んだ標高900mの自宅からは、富士山と八ヶ岳、南アルプスが一望できるという。

 時おりパジャマ姿のご主人が、点滴棒をガラガラ引っ張って見舞いに訪れる。彼もまた、病気で下の階に入院中なのだ。

「次はクルマで一緒に日本一周しようと言ってたのに、ふたりとも病気になっちゃって…」

 Y子さん夫婦に、子どもはいない。

 

 週末を挟んで、久しぶりに病棟に出勤。先週まで一緒に風呂に入り、背中を流した元板前の男性患者が旅立ったことを知る。彼を含めて3つの部屋の主が、いなくなっていた。

 患者さんにお茶を淹れるためラウンジに入ると、「投資家」Y子さんの若い主治医が、テーブルを挟んでご主人と向き合っている。

「この前、Y子さんに残された時間はあとひと月、と申し上げましたが……今のご様子では今週中、という事もあり得ます……」

 

 緩和ケア病棟では、患者さんの病状が、たった1日でがらりと変わる。

 K子さんが所望するイカの塩辛のリベンジ、急がないと。

Itoman, Okinawa


2022年11月17日

看護助手、焼き芋屋になる

 

 ランチ休憩を終えて病棟に戻ると、いきなり看護師さん数人に囲まれた。

「ハイ、早くこの中に入って!」

 言われるがまま、車体に「やきいも」と大書された段ボール製軽トラックに乗り込むと、首に手ぬぐいを巻かれ、メガホンを手渡された。

「い~し、や~き、いも~♪ おいも~おいも~おいも~♪ は~やく来ないと、行っちゃうよ~♪」

 看護師さんが吹くオカリナに合わせて、歌わされる。

 なんだなんだなんだ! こんな業務、就業規則にあったっけか?

 担当医も一緒に、賑やかに廊下を練り歩き、焼き芋を病室に配って回った。

 すると、ここ数日、病院の食事には一切手をつけなかった504号室のカワベさんが、ふた切れを完食した。

 患者さんも嬉しそうだったが、気がつくと、自分がいちばん楽しんでいた。

 

再び「死にゆくあなたへ 緩和ケア医が教える生き方、死に方、看取り方」 アナ・アランチス著 飛鳥新社 より。

・医療スタッフは健康の分野で働いているのに、私生活では不健全で不幸せに陥りがち。病的なまでに人の世話をし、奉仕し、役立とうとしてしまうが、自分を大事にしないで他人に施していばかりいることは決して良いことではない

・人を助けることが自分の使命だと考える医療スタッフは、人に何かを与えるばかりで、人との本当のつながりを築くことはない。医療スタッフと患者の関係は、本物の人間関係ではない

・医療スタッフは患者の前では慈悲深い仮面を被っている。与えるだけで、受け取ろうとはしない。患者の真の人間性に触れることはできず、1日が終われば疲弊する

・他者に全人的なケアを施す仕事はすべて、まずは自分自身を、自らの人生をケアしてこそ意味を成す

・専門分野の研さんを積み、人間性を磨き、セルフケアを欠かさないこと。セルフケアでいつも自分自身のバランスを保つ必要がある。セルフケアなくして最善を尽くすことはできない

・自分を幸せにすることと、死にゆく人を支えることはつながっている

・よく生きるための最も簡単な秘訣は、次の5つを心がけること

 感情を表す

 もっと友人と過ごす

 自分を幸せにする

 自分のための選択をする

 人生に意味を成すために働き、仕事を目的にしない



2022年11月12日

がんばる or がんばらない

 

 急性期病棟から移って来たばかりの患者さん(70代男性)が、その翌日に亡くなった。

「そんなにがんばらなくてもよかったのにね…」

 先輩の看護師さんが、つぶやく。

 ここ緩和ケア病棟は、末期がんなどの人が積極的な治療をせず、痛みをコントロールしてもらいながら、残りの人生を豊かに過ごすための場だ。

その一方で、この患者さんのように、命が尽きるギリギリまで病気と闘う人もいる。

もし自分が彼と同じ立場だったら、果たしてどちらを選ぶのだろう。

 

「死にゆくあなたへ」 アナ・アランチス著 飛鳥新社

 イギリスの経済紙「エコノミスト」の調査で、「死を迎える環境が最悪の国」第3位にランクされたブラジル。その首都サンパウロで緩和ケア医として働く著者は、さまざまに思索する。

(ちなみに1位はウガンダ、2位はインド)

・人生に多くの選択肢があった人ほど、死を前にすると後悔の波に飲まれやすい。貧しく、生き抜くというただひとつの選択肢しかなかった人は、逆境の中でも最善を尽くしてきたという揺るぎない自信を持って最期を迎える

・ホスピスは2人部屋なので、患者が死を迎えた時、同室の人はそれを目の当たりにして、もうすぐ自分の番だと悟る。痛ましいようにも思えるが、隣の人の死を経験すると、死の瞬間は平和だという意識が生じる

・それまで多くの人を助けてきた人が、病院で独りぼっちになるのは珍しいことではない。結局その人がしてきた人助けは、どれも自分が安心するためのもので、他者との良い関係を築けていなかったということ

・誰かのために何かをする時はいつも、その人の幸せのためと信じているが、同時に自分の存在をその人の人生に投影したいという気持ちもある

・でも、他人の人生で重要な存在になるために自分の人生の時間を使うのは、歪んだ選択。自分が自分でいること、それを愛してくれる人がいれば、それこそが完全な幸せではないか

・誕生と死を分けるのは時間。人生とは、限られた時間の中での経験。1日が終わるのを待ち望み、週末や休暇が来るのを待ち望み、定年退職を待ち望むことは、「死」が早くやってくるよう望んでいることでもある

・まわりを見渡せば、“自分は永遠に生きる”と思っている人がたくさんいる。その幻想ゆえに、人は無責任で怠惰な人生を送る

・死とは、私たちが死ぬその瞬間に訪れるものではない。意識的に生きていなければ、日々死んでいるのと同じ

Aomori Japan, Autumn 2022


2022年11月4日

緩和ケア病棟にて

 

「ミヤサカさ~ん、504号室が空いたから清掃お願いね~」

 朝、出勤するなり、看護師長に声を掛けられた。

 ここ緩和ケア病棟では、患者さんの退院先は、その多くが天国だ。

 

 504号室の患者さんはひと月前、隣町の病院から転院してきた。最初は普通に話せたのに、昨日は下顎呼吸で、胸を大きく波打たせていた。

 夜勤明けの看護師さんによると、明け方、静かに旅立ったという。

 

主がいなくなった504号室のベッドやテーブル、テレビ周りを念入りに拭き掃除する。ランチ休憩から戻ったら、もう見知らぬ次の患者さんが入っていた。

 

 緩和ケア病棟は、他の急性期病棟に比べると、とても静かだ。

延命治療をしないので、心電図の電子音もない。

 そんな午後のひと時、ナースステーションから笑い声が響いてきた。

看護師さんは、全員が女性。炸裂するガールズトークの中には、とても入っていけない。


「看護師はステーションに籠ってないで、もっと患者に寄り添うべき。パソコンを持ち込めば、看護記録だって病室で書けるんだから」

500人のナースを率いる、ヤマモト看護部長が言う。

 最初はその通りだよな~、と思った。でも最近、考えが変わった。

 余計な治療をしない緩和ケア病棟は、一見、看護師の負担が少ないように見える。でも担当した患者に誠心誠意、尽くせば尽くすほど、やがて必ず訪れる死別の時が、とても辛いものになる。

 もしそんな辛い別れが、毎週のようにあるとしたら?

 この病棟の看護師さんは、あえて病室で患者と共に過ごす時間を制限することで、自分の心を守っているのかも知れない。

 患者とその家族という立場だった2年前、ナースステーションから聞こえる朗らかな笑い声に、とても慰められたことを思い出した。

 

 最近、大事なタスクを任されるようになった。

「コーヒーお飲みになりますか?」

午後3時、各病室を聞いて回る。今日の希望者は6人。

 もしかしたらこの一杯が、人生最後のコーヒーになるかも…

気合を入れて一杯一杯、丁寧にドリップして持っていく。

「あぁ、いい香り!」

沈みがちな患者さんの顔が、ほころんだ。

Fujinomiya Japan, Autumn 2022


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...