移動の足がJRや地下鉄だった東京時代、発車のベルが聞こえると、たとえ急ぎの用でなくても、息せき切ってホームを目指した。
滑り込みセーフで間に合えば、得した気分。目の前でドアが閉まると、すごく損した気分。どうせ数分後には、次の電車が入って来るのに…
会社勤めがなくなっても、田舎に引っ越すまで、その癖が抜けなかった。あれは一種の集団心理だと思う。もっと優雅に暮らせばよかったなぁ。
ところが、この人は違った。
『階段の中腹に差し掛かったあたりで、ついに発車を告げる甲高いベル音が鳴り響いた。「まもなく、扉が閉まります」 私は思わず駆け出した』
『「俺は走らねえよ」 振り向くと、落合が薄っすらと笑みを浮かべていた。私は唖然とした。落合はこの期に及んでも歩いていた』
『周囲に流されない、他に合わせない。それが落合の流儀だろう。だが、あらかじめ指定席をおさえた新幹線が今まさに目の前で動き出そうとしている。そんな状況でさえ、自らの歩みを崩そうとしない人間を私は初めて見た。そんな生き方があるのかと、思った』(「嫌われた監督」 鈴木忠平著、文藝春秋)
プロ野球の名打者として、3度の三冠王に輝いた落合博満。その後、監督を務めた中日での8年間を、当時スポーツ紙記者だった著者が辿る。
「オレ流」と言われた落合の突出した個は、読んでいて凄味さえ感じる。
『どの選手に対しても、落合は「がんばれ」とも「期待している」とも言わなかった。怒鳴ることも手を上げることもなかった。ケガをした選手に「大丈夫か?」とも言わなかった。技術的に認めた者をグラウンドに送り出し、認めていない者のユニホームを脱がせる、それだけだった』
『「俺がここの監督になったとき、あいつらに何て言ったか知ってるか? 球団のため、監督のため、そんなことのために野球をやるな。自分のために野球をやれって、そう言ったんだ」』
そして、『言葉を信用せず、誤解されるくらいなら無言を選んだ』
周囲に流されず、個を貫けば、時として反感を買う。7年間で優勝3度の実績を残しながら、落合は突然、球団から退任を告げられる。
結果が全てのプロの世界で、結果を出し続けている指揮官が、なぜ追われるのか。落合が去ると決まった日からの、彼のチームは神がかり的だった。その後20試合を15勝3敗2分けで駆け抜け、首位ヤクルトを抜いて優勝した。
『理解されず認められないことも、怖がられ嫌われることも、落合は生きる力にするのだ。万人の流れに依らず、自らの価値観だけで道を選ぶものは、そうするより他にないのだろう』
『そして私を震えさせたのは、これまで落合のものだけだったその性が、集団に伝播していることだった』
決して爽やかなスポーツ・ノンフィクションではないけれど、全476ページ、読み応えあります。
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