2019年5月24日

フツーでない人たち


 八ヶ岳山ろくのイタリア料理屋で、クライマーの友人夫婦に会う。

ついこの間、8か月のアメリカ大陸縦断から戻った2人に、フツーじゃない旅の、フツーじゃない土産話を聞いた。

まず、夫妻が成田を発った時の荷物が140キロ。ロッククライミング用の金属ギアやロープのほか、岩登りシューズ各種を「ひとり9足ずつ」持参した。

岩壁の形状別に使い分け、少しでもすり減ると交換する。かなり厳しいルートに挑んだらしい。

荷物制限が緩いエアラインを探して、北京経由でカナダへ。現地で中古のアメ車を購入し、車内で寝泊まりしながら、岩から岩へと数千キロを渡り歩いた。夜道をドライブ中、時速100キロで牛と正面衝突しそうになった。

時には、垂直の大岩壁のただ中、畳1枚ほどのテラスで夜を明かした。

そして北米が寒くなったら、今度は南半球へ。パタゴニアでは毎日、立っていられないほどの風が吹いた。ひと月テントで粘って、登れたのは3回だけ。

長旅の途中でダウンしたのは、いかつい風貌のダンナのほう。アメリカで体調を崩し、田舎の病院に駆け込むと、備え付けのipadskypeで日本語通訳につないでくれた。入院、手術し、数日で快癒した。

クレジットカード付帯の保険は、出国後3か月で失効する。あわてて日数を数えてみたら、ギリギリセーフ!聞いていた私の方が青くなった。

我々も、夫婦で長い旅をする。数年前はタイ、カンボジア、ラオスに86日間。ギリギリだ。でも考えてみたら、私たちはアパートを借りて、山には登らず、昼寝ばかりしている。病気やケガの心配は、ほぼない。

そして、超大国アメリカは病んでいた、とクライマー夫婦はいう。

もはや「人」としての形が崩れている、と感じるほど肥満した人たち。何をするでもなく、交差点をうろつくホームレスや不法移民。カリフォルニア州の雰囲気が、ことさら悪かったという。

そして、医療保険制度の不備。アメリカに住む知人が、民間の医療保険を買って病気に備えていたが、掛け金が10万円。一家4人でひと月40万円。

ひょっとして、二ホンていい国なの?

無事に帰国して、ダンナはこの夏を富士山頂で過ごす。測候所だった建物が、気象や宇宙、高所医学などの研究拠点になっていて、その管理人をして稼ぐ。真夏でも気温が氷点下になる、日本最高所の仕事だ。

妻は、畑仕事に精を出している。でもその正体は、山旅専門の売れっ子ツアーコンダクター。これまでタヒチやイースター島、ジョージア(グルジア)など辺境の山々を案内し、今夏はヨーロッパ、ピレネー山脈に行く。


「秋になったらヨセミテ登りに行きたいなあ」食後のコーヒーを悠然と味わいながら、ダンナが言った。

 え~っと・・・帰ってきたばっかり・・・だよね・・・

 話のスケール、デカすぎ。


Diamond Head 232m, Hawaii  今年唯一の山登り

2019年5月17日

SKYFARING A Journey with a Pilot


 ホノルルを離陸したユナイテッド903便が、ジェットストリームを向かい風に飛ぶ。成田まで9時間の機内で読んだ本が、

「グッド・フライト、グッド・ナイト」 マーク・ヴァンホーナッカー著

 著者は英国航空ジャンボ機のキャプテン。アフリカ史を学ぶため大学院まで進んだが、「遅ればせながら、飛ぶことを生涯の仕事にしたいと気づいた」。

 いざフライトスクールに入ってみると、医学生だったり技術者だった人たちが、もう一度、子ども時代の夢を追いかけようと集まっていた。

「授業料は高額なので、新米のパイロットの大半は家を新築するぐらいの借金を抱えている」そうだ。

 念願かなってパイロットになったのが、29歳。しばらくは副操縦士として、ヨーロッパ中を飛び回った。

「朝4時に目覚まし時計のアラームでまぶたを開けると、そこはまだ薄暗いヘルシンキだったり、ワルシャワやブカレストやイスタンブールだったりした。ぼうっとしたまま、ここはどこだろうと考える」

 そういえば・・・立て続けに出張が続いたある朝、私も目覚めた自分がどこにいるかわからなかった。ぼうっとしたまま宿を出ようとすると、チップを渡したベルボーイが、小躍りしながら最敬礼してくれた。

 ふと見た財布の中身は「インドネシア・ルピア」でなく、「フィリピン・ペソ」。そうだ、昨日の夜中にジャカルタからマニラに飛んだんだった。

10000ルピアのつもりで、10000ペソ渡してしまったらしい。日本円に換算するのが怖い・・・

 読み進もう。「宇宙飛行士に言わせると、宇宙からベルギーを見つけるのは簡単」。ヨーロッパで最も人口密度が高く、世界一明るい道路網があるから。

成層圏を飛ぶ旅客機のコクピットからも、ベルギーは「黄色がかったオレンジ色の光の糸が縦横に走っている」ので、すぐわかるという。

ベルギーに住む両親を訪ねた旅で、私も同じ光景を見た。飛行機の性能上、まだヨーロッパへの直行便がなかった時代。安い「南回り便」を選んだ。

途中でマニラ、バンコク、カラチ、バーレーン、アテネを経由し、機内食も5回食べた。窓にへばりついて異国の景色を眺めていると、隣席は日本人バックパッカーから、いつの間にか出稼ぎフィリピン人に代わっていた。

30時間の空の旅が終わり、飛行機が着陸態勢に入る。冬のヨーロッパを覆う分厚い雲を突き抜けると、輝く「オレンジ色の光の糸」が眼下に広がった。

空からの眺めが世界一と、著者を含めた多くのパイロットが推すのがグリーンランド。イギリスから北アメリカへ向かう飛行機に乗ると、離陸後3時間ほどでドラマチックな眺望が始まるという。

少年の心を持つ機長が操縦する飛行機に乗って、次の旅に出たくなった。



2019年5月11日

怖いハワイ


 この春、妻のいとこもハワイに行った。

 なんと、今年で22回目だという。

 寒い日本を脱出して、常夏の島へ。青い海と空を眺め、ビーチやショッピングに繰り出し、グルメを楽しむ。

多くの人にとって、やっぱりハワイは楽園だ。

たとえビーチと買い物とグルメに興味がなくても、カラカウア通りをそぞろ歩く人たちの楽しげな様子を見ているだけで、幸せな気分が伝染して来た。

でも今回は、楽園でないハワイも見た。

身軽なひとり旅だったので、空港からワイキキ中心部まで、タクシーを使わずに19番バスで往復した。途中、ダウンタウンの裏通りを通った。 

急に雰囲気が変わり、街角がゴミと落書きだらけに。そこかしこに、路上生活者らしき人が寝ている。ここで途中下車したら、かなりやばい。

一方でバスの乗客は、空港勤務らしい若い女性たち。楽しそうにおしゃべりしながら、朗らかに笑っている。ガラス1枚隔てて、対照的な光景だった。

 滞在中、カピオラニ公園やアラワイ運河沿いをジョギングした。日の出を拝み、早朝の爽やかな風に吹かれて走る足元では、ベンチごとにホームレスがうずくまって寝ていた。

 現地に住む知人から、とても怖い話を聞いた。観光でハワイを訪れた日本人家族が、町はずれの公園へストリートアートを見に行った。公衆トイレに寄った父親が、薬物中毒のホームレスに遭遇し、問答無用の暴行を受けた。

顔面を数か所骨折し、病院に運ばれた。手術を繰り返し、ひと月の入院でかかった費用は800万円。今回に限って、海外旅行保険に入っていなかった。完治しないまま、医師同乗で飛行機に乗せられ、帰国していったという。

私が「えひめ丸慰霊碑」に行こうとした時も、「公園の入口でホームレスがテント村を作っているから、走って通り抜けて」と忠告された。確かに、半裸の男たちが奇声を発する異様な雰囲気だった。

日本人がホームレスに抱くイメージとは、まったく違う。薬物中毒者が混じっていて、本当に何をされるかわからない。「アメリカ本土のホームレスが、片道航空券を手渡されて送り込まれている」という話も、現地で再三聞いた。

物価が上がり続けるハワイでは、いまや平均的な住宅価格が約90万ドル。普通に家を持つだけで1億円かかる。そして住処を失えば、簡単に路上生活に転落しうる。日本人のホームレスもいるという。

「ハワイは・・・観光で来るのが一番です」ホノルルに住んで6年目の知人が、しみじみと言っていた。







2019年5月4日

仕事場は戦艦ミズーリ


 写真記者時代に、ハワイ・真珠湾上空をヘリコプターで飛んだ。

 竹トンボのような2人乗りのヘリに乗り込むと、両側にドアがなく吹きっさらし。離陸するとすぐ足元に海面が見え、すごい高度感だった。

 真珠湾は昔も今も、アメリカ太平洋艦隊の母港だ。新鋭ミサイルフリゲート艦が停泊する海の底には、日本の真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナ。1000人以上の戦死者が、艦内に眠る。上空から、水中の艦影がうっすら見えた。

沈没海域を船で巡るツアーに参加した。アメリカ人の参加者数十人に対して、日本人は私ひとり。「リメンバー・パールハーバー!」とは言われなかったが、居心地が悪かった。

ワイキキ・ビーチをそぞろ歩く日本人観光客も、真珠湾には来ないのだ。

その戦艦アリゾナ近くに、戦艦ミズーリが係留されている。19459月、その艦上で日本の無条件降伏の調印式が行われた。湾岸戦争を最後に現役を退き、現在はNPOの運営で見学者を受け入れている。

2月に、戦艦ミズーリで働くHさんと知り合った。そして今回、Hさんにミズーリ艦内を案内して頂いた。自ら愛車BMWを運転してホテルまで迎えに来てくれる、とても親切な人。

間近に仰ぎ見る巨体は、全長270メートル。Hさんは毎朝この戦艦に出勤して艦内で仕事をするが、台風でも揺れを感じることはないという。

その後部甲板が、無条件降伏の歴史的な舞台だ。当時の写真を見ると、アメリカや連合国側代表、大柄な水兵たちに囲まれて、重光外相ら数人の日本側が、とても貧相に見える。精一杯の燕尾服や山高帽が、余計に哀れを誘う。

戦争に負けるとはどういうことかを、端的に物語る光景。

同じ年の春、沖縄戦に参加したミズーリは神風特攻隊の攻撃を受けた。猛烈な砲火をかいくぐった勇敢な1機が、舷側に体当たりした。甲板から身を乗り出すと、今でもわずかな凹みを見ることができる。

甲板上に残された、特攻機の残骸とパイロットの遺体。水兵が廃棄物として海に捨てようとしたのを、当時の艦長が押しとどめ、遺体を棺に入れて日章旗に包み、丁重に水葬した。

祖国日本のために、命を賭したその人は誰だったのか。現在に至るまで調査が続いていて、10歳代の2人の特攻隊員に絞り込まれているという。

最近は、中国や韓国からの見学者も多い。韓国人にとっての戦艦ミズーリは、朝鮮戦争で窮地を救ってくれた英雄なのだ。

私が参加した日本語ガイドツアーの同行者は、2人だけ。日本からの見学者は修学旅行生が多いが、全ての学校が来るわけではないのがHさんの不満だ。

「ハワイに来て戦艦ミズーリを見ないで、いったい彼らは何を見て帰るんでしょうね」

本当にその通り!


肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...