時が経つのも忘れて、何かに没頭する。
恍惚の表情で、鍵盤に指を躍らせるピアニストのように。
心理学者のM・チクセントミハイは、この状態を「フロー」と名付けた。著書「フロー体験入門~楽しみと創造の心理学」で、ストレスと退屈の日々からフローを見つけることこそが幸福への道だと書いている。
ピアニストでない私たちは、車の運転でフローを得られるという。
社会人になったころ、イタリアの小さな車を買った。シフトレバーとクラッチを自由自在に繰り、峠を越えて見知らぬ街へ。人車一体となって駆け抜けたあの感覚は、紛れもないフローだった。
それでは、仕事でフローを得られるだろうか。
「創造的な人の人生では、仕事と遊びは不可分なものになる」(本文より)
報道写真の世界で、ありそうなのはスポーツ取材。
オリンピックのひのき舞台で望遠レンズを構え、小気味よくシャッター音を響かせる。予測通りのゲーム展開となり、やがて訪れた決定的瞬間をものにする。
それは夢想に終わった。国内試合で撮りっぱぐれを連発したカメラマンに、フローは来なかった。
撮影現場での女優と写真家という状況も、いかにもフローが訪れそう。
駆け出しカメラマンのころ、ある女優さんの取材でテレビ局に行った。記者のインタビューが終わり、いよいよ撮影タイム。人気ドラマのヒロインがいま、目の前に立つ。美しい大きな瞳で、真っすぐこちらを見つめる。
たちまち頭の中は真っ白。フローどころではなかった。
「食事やセックスから得られるフローは、多ければ多いほどいいわけではない」(本文より)
それはそうだ。度を越せば生死にかかわる。
「インドの行者や修行僧は、欲望を抑えることにすべての注意力を必要とするので、他のことを行う心理的エネルギーはほとんど残されていない」
こんなことを書いて、行者や修行僧の方々が怒らないだろうか。
「毎日がすばらしいものになるかどうかは、何をするかでなく、どのようにするかにかかっている。半身不随や失明という悲劇に見舞われた人は、事故後の方が人生を楽しんでいる」
ボランティア活動で接する中途失明のおばあちゃんたちは、会うたびに笑い声を響かせる。一面の真理かも知れない。
「物質的には快適だが感情的にみじめなことをするより、気分よく感じることをする方がよい。仕事にやりがいがなく、退屈でストレスが多い時の唯一の選択肢は、できる限り早く辞めること。経済的困難という代償を支払っても」
「他の人の達成を手伝うことで、自分自身がいちばん満たされる」
そんなフローに出会いたい。
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