2005年、インド南部バンガロールで、勃興するIT産業の陰で広がる貧富の格差を写真取材した。
出発前、何とか糸口を見つけようとネット検索しているうちに、現地で貧しい子供の権利を守る活動をしている日本女性、Nさんの存在を知った。何度かメールを交換し、無事に現地で会うことが出来た。
Nさんはイギリスの大学院で開発学を修めた後にインドへ渡り、現地のカンナダ語をマスター。貧しい人たちが暮らす地区にも精通していて、取材のパートナーとして願ってもない人だ。
話しているうち、彼女が私の大学の後輩だ、ということが判明する。我が母校は女性ばかりが優秀だが、卒業生には民放アナウンサーやエアラインのCA系が多い。私にはなじめなかった、あの華やかな雰囲気のキャンパスが、骨太な人も輩出するとは知らなかった。
Nさんと一緒に、性的虐待を受けた女性たちのシェルターを訪れた時のこと。昼食にカレーをごちそうになった。内心ビビりながらも覚悟を決め、土間に座って手づかみで食べた。
辛い。水なしでは、とても喉を通らない。コップの水は生ぬるく、なんとなく濁っている気がする。Nさんはと見れば、無造作に飲んでいる。絶体絶命。ゴクリと飲み干す。
案の定、翌朝、私だけおなかを壊した。やはり彼女は鍛え方が違う。
その後も何度かインドに渡り、Nさんと炎天下のバンガロールを歩いた。ある日、レンガ工場で行われていた児童労働の現場に踏み込んだ。彼女がわざと工場主に話しかけ、注意をそらしている隙に、重さ5キロのレンガ10個を頭に乗せて運ぶ、泥まみれの少女をカメラに納めた。写真は新聞に大きく掲載された。
以前、日曜版の連載で海外取材が多かった時も、トルコやフランス・アルザスの田舎、チュニジアなど、「こんなところに!」と思うような辺境の町に日本女性が暮らしていて、取材のコーディネイトをしてくれた。皆、語学力はもちろん交渉力もあり勤勉で、優秀な人たちばかりだった。
治安が悪いアフガニスタンでも、国連機関の一員として軍閥の武装解除を行う日本女性、井戸掘りや教育支援に携わるNGOで働く日本女性がいた。自爆テロが相次ぎ、防弾車なしには外出もままならない中、自然体で働く彼女たちは輝いて見えた。仕事で忙しいのに、活動現場を案内して頂いたり、最新の治安状況を教えて頂いたりと、行くたびにお世話になった。
首都カブールのクロアチア料理レストランは、国際機関で働く外国人のたまり場だ。そこで彼女たちに話を聞くと、一度は東京で就職しながら、思うところあって国際機関やNGOに転職したということだった。どうも日本社会、日本企業がいまだ閉鎖的な男社会で、活動の場を海外に求めざるを得なかったようだ。彼女たちの海外での活躍が、日本の声価を高めていることを、単純に喜んでばかりはいられない。
バンガロールのNさんは今、11年に及んだインド生活に区切りをつけて再びイギリスに渡り、別の大学院でセラピーを学んでいる。
学び、現場に出て実践し、必要と感じればまた学びなおす。
分野は違っても、私もそういうサイクルに生きたい、と強く思う。